2024年2月10日 (土)

Visiting a place : 浄土寺 尾道

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Jodo-ji          Onomichi                           Jan.5.2024

 お正月に帰省した際,尾道の浄土寺に行きました。10年ほど前に読んだ宮大工の松浦昭次さんの著作「 宮大工 千年の知恵」の中で、中世の寺院建築の中で『いちばん美しい』と称していらっしゃったからです。また、娘が映画が好きで、小津安二郎監督の「東京物語」のロケにも使われたことを知っていたので、みんなで行くことにしました。

今回は車で背後の山の脇を通る道路を下って浄土寺に入りました。海岸部との落差が激しい道でした。

車を止め,道路を横断すると,すぐに急な階段があり、ヨイショヨイショと上って行くと、中間部分にJRの高架が目の前に見え,びっくり!

このお寺以外にも、いくつかのお寺が同じようになっています。そのことをこの日、お好み焼き屋のおじさんに話すと、「しょうがなかったんよー。海運から鉄道に変わっていく時、(海からの平地が狭い)尾道はそうするしか。でも踏切がないでしょ。お金を出してくれる人がいて、高架橋を作って鉄道を通したんよ。」っと。なるほど、明治以降、尾道が街の産業を継続していくために運送手段の変更は絶対に必要で、景観よりも鉄道が通ることが優先事項であったということだったのだ、とわかりました。

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階段を登り振り返ると,そこはターコイズブルーの尾道水道と向島が見下ろせ、海がキラキラと光っていました。また,山門の上の空には,鳩の群れが旋回してお出迎え。

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寺の外構の焼杉の外塀が続く道は、花崗岩の敷石で風情のある道でわずかに上り坂。思わず、母,夫,娘に立ってもらい,記念撮影。ここを車が通っていたのには、びっくり。車のCMに使えそう。

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門をくぐると、本堂が見えました。灰色の瓦の色の濃淡がモザイクのようにちらちらして古色を帯びていました。この日は、新年開けた頃でしたので、5色の布でお堂が飾られていました。建物の幅に対して屋根のボリュームが幾分大きいように感じながら、その屋根に目が釘付けになりました。軒先の反りがしなやかに空を切るように上がっています。それを目で追うと背後にある瑠璃山の山体をおのずと見上げ、その上の青空が見え、のびのびとした気持ちになりました。

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松浦さんの本には、この屋根の反りを作るための工夫が書かれていました。浄土寺から帰って来て、もう一度読み返すと、ようやく実感とともに内容がわかってきました。

四隅の柱は、他の柱よりも高く据えられ、大きな屋根を下から支える垂木は、二重に取り付けられ、勾配を緩やかにさせてある。おのずと下がってくる四隅軒先の垂木の間隔を下から見た時に美しく見えるよう広げたり、縮めたりしているそう。そうなってくると、柱と柱の間隔も等間隔ではなか,作られているそう。初めに垂木の間隔があって、柱の間隔が後になっていそう。

こうなってくると、木材を細かく加工する大変な作業なのですが、それをやっている、というのです。

そしてこの浄土寺の昭和の大修理の際、松浦さんは、修復に携わりながら、建てた人物の名前が棟札(建築、修理の記念として、棟木・梁などの建物の高所に取り付けた札)を発見したそうです。そこには、藤原友国、藤原国貞と書かれてあったそうです。

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Todai-ji  South gate         1199年                    Aug.2010

この二人についての歴史的なことは、わからないと書きながら、棟札の二人は、鎌倉時代の東大寺の大工であると、松浦さんは、書いていました。

この寺の歴史は、開基(寺院を創立すること)は、616年、聖徳太子(574年~622年)と伝えらています。飛鳥時代には、聖徳太子自らも船に乗って瀬戸内海を渡ったであろうし、遣隋使を中国大陸に送ったわけですから、地理的にも瀬戸内海の海上交通の要所となる尾道に、聖徳太子のゆかりの寺が置かれた訳です。

その後、『文治2年(1186年)紀州高野山大田荘の政所となり、後白河院(1112年~1192年)の勅願所となった。』と寺の案内板に書かれていました。

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中世の瀬戸内海の海上交通路       国立歴史博物館展示

また、東大寺南大門について調べていると後白河院の院宣(いんぜん・・・上皇の仰せをうけたまわった側近がその意を発信する文書)によって、再建が進められたという記述があり、後白河院がどうもキーパーソンではないかということがわかってきました。そういえば、後白河院は宮島の厳島神社の裏手に今も残る「後白河院手植えの松」というものがあり、船に乗り瀬戸内海を渡っていくことも多々あったのです。

となると、1199年、現存する東大寺南大門は、完成。その後、東大寺の大工は後白河院の勅願所である浄土寺のお堂の設営に派遣された、のでしょうか。でも後白河院の崩御が1192年なので,東大寺再建をした大工がそのまま,派遣されたわけではなくて,東大寺大工としてその後,働いていた大工が浄土寺の再建に携わったのでしょう。いろいろ調べていると,今でも東大寺には東大寺大工作業所というものがありました。1325年に羅災して1327年に建て直したのが、前述の二人。

二人の工匠は東大寺で学んだ大仏様と従来からの和様の長所を合わせた折衷様でこの浄土寺を建てているということです。松浦さんは、工匠は瀬戸内海の陽光きらめく尾道で東大寺南大門よりももっとのびやかな仕事を残している、と評しています。

実際、浄土寺を訪れ本堂も入らせていただきましたが、素人では、どこが大仏様で、どこが、和様だと判断できませんでした。ただ、お堂の中はとても暗く、天井は、格天井、柱や組み物は非常に太いものでした。

家に帰ってから、2010年に訪れた東大寺の写真と浄土寺の写真を比較してみると、屋根の瓦の置き方、反りの形がほぼ、同じことに気付きました。そこで、この屋根の形を使う寺院建築を『日本建築様式史』BSS刊で探すと、法隆寺大講堂(990年)の屋根が見つかり、文には「最古の野屋根(のやね)」というものであることが分かりました。

「野屋根」とは、一つの建物の中に仏堂と拝む場所である礼堂を一緒にして、大きな屋根で覆うというもので、日本独自の建築方法だそうです。雨の多い日本では軒は、必ず必要ですし、空間を覆う大きな屋根を支えるため垂木の部材に工夫を重ねました。複雑になった屋根裏は、天井を張ることで、隠すことができるようになりました。四隅を跳ね上げるのは、美観からだけでなく、少しでも堂内に光を入るようにしていたそうです。これは、唐様の影響。

また日本は、雨が多いので、古来より高床の住居を作ってきたことも寺院建築においても取り入れたいということもあり、禅宗寺院の講堂のような石張りではなく、床を張ったお堂を作っていくという日本独自な建築技法が考えられていったことがわかりました。

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娘がいつの間にか,鳩の餌を買って、パッと投げると、鳩がたくさん舞い降りてきたかと思うと,小さな女の子が,「わー!」って鳩を驚かせて飛び去ってしまいました。娘曰く,「えーん!二度と近寄ってこなかったー!」

でも,後から,お好み焼き屋のおじさんが言ってた話ですが、「尾道の子は,浄土寺の鳩と遊ぶ。」って。

関東だと,そんなことやったら,親は何してるの!と白い目で見られそうですが、ここは、尾道。

子どもらしい姿も、尾道の風土は,のびやかに育んでくれるところなのでしょう。

鐘楼からの眺めを見ていると、ここが笠智衆さんと原節子さんが立ち、「東京物語」のラストシーンを撮った場所だと娘が教えてくれました。

 

 

 

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2022年9月24日 (土)

Visiting a place : 伊東と丸に三つ引き紋

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9月の初旬、伊東市に行ってきました。写真は、お土産に買ってきた「ぐり茶」。

市川製茶さんのものです。丸に三つ引き紋の家紋。玉露より苦味が少なく、甘く旨味を感じる澄んだ優しい味。

畑の畝にススキやササを敷きこんでお茶を栽培する手のかかる農法で世界農業遺産となっています。

 

ここ数年取り組んでいる私の祖父のRoots探訪の旅。亡くなった伯父の残した高知の和田の家系図の写しの端に「伊豆の三浦の分流」と書かれているのが、以前から気になっていたことから。

そのメモを見てもピンとこなかったほど、土地勘がありませんでしたが、伊東市に和田という地名があることや温泉もあるので、とにかく何かわかるかもしれないということで現地へ。

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まずは、古くからお湯が沸いていたという現在「和田長老人の湯」という公共の温泉場へ。歴史のある温泉としてこの場所の資料が展示されていました。「和田大湯」とか「和田村」という地名であったことが分かりました。ここの湯は薬湯と古くから有名で、江戸にもお湯を送ったそうです。種田山頭火も度々訪れ、お湯をを楽しみ句を詠んでいます。

その「和田」という地名が単に海岸部にある地域に「和田という場所が多い。」といった地理的条件による名前なのか、「和田義盛」に関係があるという場所なのか、ここでは、分かりませんでした。

温泉は午後2時30分からでしたので、お昼を食べにアーケード街へ。そこで、お茶屋さんが角に建っているのを見かけました。

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よくよく見ると、「丸に三つ引き紋」。三浦氏、和田氏の家紋と同じ。迷わず、お店に入らせてもらい、家紋のことを尋ねてみました。

しかし、お店の方は、よくわからないからので、「会社に聞いてください。」とのこと。

未だに、そんなことで電話をするのもな、と思い聞いていませんが、確かに市川製茶さんは、住所を見ると伊東市なのです。

「伊豆の三浦の分流」というメモ

家紋によって、あの伯父のメモ書きに確信が持てるような感じになってきました。

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東海館にて

家に帰り、この伊東市を平安末期より治めてきた大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも出てきた伊東氏について調べてみました。

すると、伊東(工藤)氏の姻戚関係図〈伊豆国〉《伊東秀郎『曽我兄弟仇討ちの機縁』より》を掲載しているサイトを見ていると、

和田義盛の名前がここでやっと出てきました。

 

伊東祐親の従妹の娘が和田義盛の妻となっていました。義盛の子どもは男子が8人いるらしいですが、この頃の武士はあちらこちらに妻がいて、子どもたちもそれぞれの場所で育ち、大きくなったら義盛を中心にあちらこちらでそれぞれが活躍していたようです。この伊豆の妻の子が高知の和田の祖 和田義直ではないかと思い、生まれた年を調べると、治承元年(1177年)でした。頼朝が挙兵して伊豆を出る石橋山の戦いが1180年なので、いい線ではないかと思います。

おまけに、NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも初回の伊豆半島でのシーンにも和田義盛は三浦義澄や義村とともに出ていました。

「あれ?伊豆まで義盛も来ているんだ!」と思ったシーンがありましたので、きっと出逢いがあったのでしょう。

等と、自分なりに今回は、だいぶ疑問が解けたような気がしています。

 

800年前の和田義盛から始まる和田。先祖の壮絶な死より命や家族を大切にと代々伝えてきて今に至っているのだと思います。

義盛役の横田栄司さんが現代に和田義盛を再現してくれて、今年は本当に和田末裔にとっては、忘れられない大河ドラマとなっていると思います。撮影が終わって、悲しい結末になり、お疲れになったことでしょう。

しかし、和田は全国に散らばり、義盛の思いに感謝しながら今を生きています。800年の歳月から今では26万人和田さんはいるそうです。

子孫繁栄!大丈夫です。

追記:和田のお湯は少ししょっぱくて、湯から上がるとすっきりとした体調になったきがしました。

また、行きたい。アジフライ定食も美味しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2022年2月13日 (日)

Visiting a Place:伊豆の国 願成就院

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Ganjyojyu-in            Jan.30.2022

 かねてから訪れて見たかった静岡の伊豆の国市にある願成就院に先日行ってきました。

寺の創建は、奈良時代と伝えられていますが、鎌倉時代、文治五年(1189年)に北条時政が真言宗のお寺として建立しました。北条義時、泰時と3代に渡って堂塔、庭園を整備していきました。

お堂は守山という標高 100mの山を背後に建てられています。奥の御堂は昭和30年(1955年)に建てられたもの。

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お寺のパンフレットによりますと、『その伽藍構成は、奥州平泉に藤原三代の偉業として伝えられる、中尊寺・毛越寺・無量光院の中の毛越寺を模したもので、山門を入ると大きな池があり、その池の中島にかけられた橋を渡って参詣するというもので藤原時代特有の寺院様式であった。』そうです。昨年11月に行った鎌倉の永福寺も毛越寺に影響を受けたものでしたが、こちらも同じでした。その時の記事はこちら

鎌倉から奥州征討と言って、攻め込んでいったわけですが、北条氏もその仏教文化の水準の高さに大いに感銘を受けたということでした。

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現在は、発掘調査の後は、埋め戻してあります。この辺りには、南塔があった所。

「願成就院跡」は国の史跡に指定されています。

御堂の中に模型があり、それと伊豆の国市の『北条義時がうまれた里「伊豆の国」の中世』というパンフレットの中の「発掘調査で見つかった堂跡・塔跡と池の推定位置」という図からイメージして私が描いたのが上の図です。

鎌倉時代の門の位置や池の橋の位置がお堂につながることを考えると、模型の橋の位置とは異なり、「北側に山門があったのかな。」と迷い、ここには、はっきりと描けませんでした。しかしながら、反り橋のある蓮の浮かぶ池を有した浄土式庭園が造られていたことは確かで、優雅な浄土の世界を具現化していたのです。現在、池のあった場所は住宅地になっています。

 大御堂には運慶が造仏した本尊の阿弥陀如来坐像、毘沙門天像、不動明王像、童子像二体があり、合わせて五体が国宝に指定されています。

三浦半島、横須賀市の浄楽寺の阿弥陀如来、毘沙門天、不動明王の三像と作られた時代も近く姿が似ています。こちらの仏像がとても素晴らしいので、和田義盛も運慶に造仏を頼んだと言われています。  

本尊の阿弥陀如来坐像は、室町時代、戦国時代に寺が兵火に見舞われた時に焼けたのか、表面の漆が焦げて黒くなり、剥落も激しく痛々しかったです。螺髪も前頭部周辺が欠けており、眼が後世に修復されたということなので、顔の前面に倒れる、もしくは何かがあたる等、衝撃があったのではないかと思いました。

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帰ってから、運慶特有の仏像が持つ眼の力を感じさせる表現について、詳しく見てみました。

上の図は瀬谷 貴之著『運慶と鎌倉仏像』平凡社刊 コロナブックスの2体の仏像の横顔の写真をトレースしたものです。

左側の願成就院の阿弥陀如来は 右の浄楽寺の阿弥陀如来像の横顔と比較(真ん中に両方を重ねた図)してみると、上下の瞼のふくらみや眼の開き具合、鼻の形、口のつき出し方等、違いがありました。浄楽寺の方が彫りが深いお顔。

眼球の入った瞼のふくらみをも表現する運慶は、解剖学的にも人間の体について理解しており、それを木彫りの仏像に表すことができる本当の天才であったことを改めて確認しました。

「東洋のミケランジェロ」と私は思っています。

願成就院の阿弥陀如来像の修復は、もしかしたら、元の目鼻の位置から掘り下げて彫ったものではないか、と思いました。

 奥の収蔵館に政子地蔵像がありました。こちらも印象に残った仏像で、大変端正な美しい顔立ちでした。政子の七回忌に奉納された仏像でこれも運慶では、と思って調べてみると、運慶はその頃は、亡くなっていました。

家にある運慶の本を見てみると、政子地蔵像と似ている仏像を運慶の父の康慶が静岡の瑞林寺に、運慶も京都の六波羅蜜寺に作っていました。

慶派という工房の中で、微妙に作風はそれぞれ違うことは、わかっていましたが、スタンダードな形は、正確に技術が代々伝えられていることに改めて気付きました。

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守山に登ってみました。この日はあいにく富士山は見えませんでしたが、末広がりな富士山を望むこの土地から、北条氏が鎌倉幕府を束ねる役割を果たそうとしたことがわかったような気がしました。

 

 

 

 

 

 

 

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2022年1月17日 (月)

Visiting a place : 永福寺跡と毛越寺庭園

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Yofuku-ji        Amida-do                                 Nov.30.2021

 昨年、鎌倉でまだ行ったことがない場所や確認したい場所など、歩き回ってきました。

こちらは、源頼朝が奥州 藤原氏を攻めた文治5年(1189年)、平泉の寺院群を見て、鎌倉から帰ってすぐに造営にとりかかったという永福寺があった場所。今は、鎌倉には珍しい広い公園のような場所になっていますが、ここに鎌倉では初めてだった2階建てのお堂があったり、その本尊を運慶が造仏した等、現存していたなら、きっと素晴らしいものだったのだろうと言われている場所です。

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昭和56年(1981年)より発掘がすすめられ、柱の跡や石組、池などからその全様がわかってきました。現在は、木で組まれた基壇や池、石組等の位置がわかるように整備されています。看板に再現化したCG図が載っていました。手前が阿弥陀堂、真ん中が2層の二階堂、奥が薬師堂。

両脇に翼廊といい屋根のついた廊下が池に向かって伸びた釣殿があり、ここから釣糸を垂らしていたのかと考えたら、なんだかお茶目な鎌倉武士、と思って笑いながら見ていました。

歩きながら、2011年8月に訪れた岩手県平泉の毛越寺の遺構を思い出しました。岩手の出身の亡き父が震災の後、自分の故郷を孫たちに「今だからこそ見せたい。」と東北の津波被害を受けた海岸部をまわった最後に平泉を訪れた旅でした。父の姓は藤原。私は子どもの時から平泉を訪れるとその美しさと敗れた寂しさを感じたものでした。まさに芭蕉の句の「兵たちが夢の後」

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毛越寺庭園 Motsu-ji          Aug.15.2011

毛越寺遺跡も大きな池をまわり、お堂の柱の礎石を見ながら、「どんな、お堂だったのだろう。」とイメージしながら一回りしたのです。

お堂の背後には山がある位置。関山。

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毛越寺の再現図の看板 反り橋を渡ると、浄土の世界。薬師如来を本尊としていました。

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毛越寺遣水             Aug.15.2011

上の写真は毛越寺庭園の遣水遺構。お堂の右斜め背後から川の流れを作り池に流れ込む部分。

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永福寺遣水              Nov.30.2021

永福寺も同じように石が置かれ、遣水としていた石組が残っており、ここを見ても毛越寺庭園を思い出しました。

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毛越寺庭園 池 立岩      Aug.15.2011

震災の後の傾きを補強していた立岩。

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永福寺の池の中島の立岩の石組の写真看板     Nov.30.2021

永福寺の池にあった石組は、発掘された後、また埋め戻されていますが、上の写真のような大きな石が組んであったようです。

 

頼朝は、文治5年(1189年)義経をかくまったことから奥州攻めに出向き、藤原氏の四代泰衡の首を取り、陣ケ岡という場所で戦を終わらせました。その後、頼朝は平泉に入り、藤原氏が仏国土という浄土の世界をこの世に作るという願いを表していった平泉の地の荘厳な美しさに圧倒されたそうです。

奥州藤原氏の祖清衡は、東北の地が300年にも渡る度重なる戦いで多く命が奪われてきたことを憂い、その鎮魂のための仏教寺院の造営と平和の国を作りたいという願いのもと仏教を積極的に取り入れていきました。

陸奥の国は、金の産出、馬、漆の生産等により莫大な富を背景に比叡山 延暦寺を直接のモデルとして中尊寺は伽藍が配置され、その頃、珍しい二階建ての大長寿院という寺院もありました。頼朝はそれを目にして、永福寺の本堂を二階建てにしたいと思ったようです。

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戦いには勝ったけれども、頼朝はその奥州藤原氏の目指した仏国土の崇高な世界に精神的には強く影響を受け、鎌倉に帰ってすぐに自分が行ってきた戦いの犠牲になった人たちへの鎮魂の思いも込めて永福寺建立を進めていったようです。

頼朝が永福寺を建てようとした時から60年経過し、修復をする話があったことを書いた『吾妻鏡 宝治二年(1248年)二月五日』には永福寺について頼朝の気持ちについて書かれており、『朝敵ではなく、宿敵(源氏の先代たちが、何度も東北の地(陸奥の国)で戦いを挑んできたこと)によって、滅ぼした義経や泰衡の怨霊を鎮めるため、その年(1198年)造営をはじめた寺院である。」とあります。

これは、頼朝が亡くなったあとの吾妻鏡の記述ですが、頼朝の奥州攻めの後の苦い思いにより、永福寺は、建てられたことが記録に残っています。

藤原泰衡の首桶の中に五郎沼に咲いていた蓮の花をたむけたと伝わり、中尊寺金堂に安置されていたものが、昭和25年(1950年)の発掘調査の際、種として発見されました。

平成5年(1993年)に発芽に成功。800年後、種より開花し、平成31年(2019年)、それを平泉から鎌倉に贈ったそうです。

2021年3月から「永福寺でも蓮の花が咲いた。」というニュースを以前、耳にしました。

 

すごい歴史ロマン。時を越えて、清衡が思い描いた平和な世界が現代にも広がっていると思いました。敵味方の別なく、蓮の花を愛でる世界。

 

参考文献:中尊寺図録

    :『仏都鎌倉の百五十年』 今井雅榛著 吉川弘文館

    :『図説 日本庭園のみかた』 宮元健次著 学芸出版社

 

 

 

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2022年1月10日 (月)

Visiting a place : 神奈川沖浪裏とドビュッシー

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城ヶ島 Jyoga-shima                                Dec.30.2021

 年末に三浦半島の城ヶ島の海岸から寒さの中、強風で荒れる海を見ていたら、凄まじい景色が脳裏に焼き付いて、お正月はドビュッシーの交響詩『海』~風と海の対話~ を聞きたくなりました。

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Debbusy  ”La Mer” 1905年

音楽をかけると、その時の気分にぴったり。今までも聴いていたのに先日の冬の荒れ狂う海の景色を克明に音楽に表現できていることがわかりました。

ドビュッシーは、北斎の絵を見て ”La Mer” 交響詩『海』を作ったことは、有名ですが、日本に来ていないのにすごいなと繰り返し、聴いていました。

遠く離れた国の作品でも、人間お互い共感し、また新しい創造力で何かを生みだそうとする力が人間にはあると改めて感じました。感動がつながってより素晴らしいものができてきた。上昇らせん構造。

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遠くに富士山。

こうやって、荒々しい岩と荒れ狂う波を目の前に興奮して北斎は、下絵を現地で描いたように思います。この時の冠雪は、少し絵の時期よりも雪が多くなってきていました。

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和田長浜 佃荒崎から見た富士山       Oct.25.2021

 昨年10月に和田長浜に行った時に三浦半島南部の海岸の三崎層と呼ばれる泥岩と凝灰質砂岩、凝灰岩の互層の波で削られたゴツゴツとした岩場を歩いていると相模湾の向こうに富士山が見えました。

その時、はっと「北斎が下絵を描いたのは、このあたりかも?」という考えがよぎりました。絵を描くために座るのには、ちょうど良い岩もあり、「私ならここに座って富士のスケッチをするな。あとで、北斎の絵と比較してみよう。」などと思いながら、帰ってきました。

家でもスマホの写真なので、拡大しても画像が良くないのと、冠雪量が少なかったので、よくわかりませんでした。またもう少し雪が降った冬にいきたいな、と思いながら、12月はこの場所には行けませんでした。

しかし、今回本腰入れて絵に重ねてみることにしました。

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北斎の絵を半透明にして、2021年10月25日の写真を重ねたものです。写真は、北斎が他の絵でも行っているように実際の見え方を引き伸ばしたりする手法で縦、横に圧縮するように調整してみました。

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すると、一番白く見えるこの日の冠雪の位置に比べ、北斎の絵はもうちょっと下まで冠雪していますが、ほぼ谷の位置が同じであることがわかりました。

そして左の荒波の付け根の青く表現されている部分が箱根の山並みと重なります。

描いた場所について諸説あるようですが、なんとなくその場所の気配を感じたことから発展した一つの仮説です。

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ルーペで富士山を縦長に変形させてみたりもしました。

私が考えたのは、現地で描いたスケッチから本作をどうしようかと変更して描く自由さを北斎は持ち得ていたので、この箱根の山並み線を使って弧をいくつも描きながら、拡大させ、大波に立ち上げていくアイディアを思いついたように感じます。欄間彫刻の伊八の影響もあったことでしょう。

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右上:葛飾北斎 『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』1830~33年頃

右下:年賀状に使った主人が撮った写真 富士山と私 波のように縞模様を持つ立岩の曲線が波のよう

左下:2017年の国立西洋美術館『北斎とジャポニスム』展チラシ カミーユ・クローデル 『波』

ジャポニスムは、日本の浮世絵や工芸品がフランス中心とした西洋に影響を与えたことを言いますが、その前に、絵の表現に関して貪欲な北斎は蘭画の風景画、植物画より遠近法、陰影法、細密描写など取り入れていきました。

ここが、それまでの表現とは違う浮世絵を北斎が編み出し、西洋でも受け入れられる下地になっていることも忘れてはならないと思います。

 

 

 

 

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2021年4月 7日 (水)

Visiting a place : 日本民藝館

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日本民藝館                  Apr.6.2021

 日本民藝館が改修を終えたということを知り、早速出かけてきました。前日、銀座の無印良品で行われている『MINGEI 生活美のかたち』という展覧会(入場無料)を見せていただいた折、チラシがあり知った次第。

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Left : Tokyo Midtown 21_21 DESIGN SIGHT 2018.11-2019.2  

Right : Tokyo Atelier MUJI Ginza 2021.3-5.9 

 現在の日本民藝館の館長である深澤直人氏は、2018年にミッド タウンで行われた『民藝 Another Kind of Art』を日本民藝館の収蔵品を中心に企画されました。この時の展示は、陳列台に民藝の品が並べられているのですが、名札のようなものは、置いてありませんでした。そもそも、民藝の品々は、作者名はないのです。目録はありましたが、最初は、「えっ、どうして?」と違和感を感じました。しかし、だんだん慣れてきて、「一つひとつの形を楽しんで見ていけばいいんだ。」と思うようになりました。

確かに、子どもの時のように文字に頼らず、素朴に「何だろう?」という目でじっくり見ることが久しぶりに出来たような気がしました。

何か、ものを作る時のワクワクした気持ちや作っている時の集中した時間、出来た時の喜び、使う喜び、そういったものを一つひとつのものは感じさせてくれました。

また昔の人々の知恵や工夫と身の回りの自然の材料を上手く利用して作ったであろう品々を見ていくと、なんとひたむきに生活に役立つ品々を作ってきたことかとじわじわと心が洗われるほどに慈しみと感謝の気持ちがわいてきました。いい展覧会でした。

先日訪れた銀座の無印良品のアトリエ展示も深澤直人氏の企画キュレーションで、ミッドタウンの展示を思い出すものでした。

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さてさて、今回の改修が行われた大展示室。1926年の創建時に近い空間にしたそうです。

床が大谷石。微妙に薄緑を帯びた灰色の凝灰岩。壁には、葛布を張り替えたとのことです。

柳宗悦も座ったであろうウィンザー チェアー。国産の洋家具として作られた初期のものでしょうか。座面の材の杢の出方が、使える材を無駄なく使った感じで、今のきれいすぎる仕上がりを求める風潮に私の心に一石を投じてくれたよう。「これでいいんだ!」と言ってくれているようだった。

館内では、日本民藝館のことや柳宗悦の思想を紹介した映像も流すようになり、民藝についてわかりやすくなっていました。Img_9392

角皿       フランス  18世紀

 さてさて撮影可能だった場所のテーブルの上に「これ、何に使うのでしょう?」という四角い皿が。見ていくと・・・、「緑色になるガラス釉がかけられた焼き物だ。粘土だから自由に形が出来るので、四角く作り、取っ手がついている。あの取っ手を自分が持つとなると、こうだから、」と角度を想像すると、オーブンに出し入れしやすい角度のように思いました。左側には、焼き汁が流せるようになっている。私が思うには、この上に肉の塊をローレルなどの香草と一緒に置いて、オーブン(窯)に入れ、じっくりと焼いたのでは?というRoast pan。

ロースト ビーフかロースト ポークがこんがり焼けた塊をイメージしてしまいました。

柳宗悦は、名札に関しては、最小限度の情報のみを黒漆の板の上に朱書きで書いたものを置く、ということを世界中の博物館、美術館を巡って決定したそうです。

これは、人間が作った形は、そのもの自体がすでにその意味を語っているということだと思いました。

 昨日、一番印象に残ったものは、柳宗悦が原稿を書いていた時の机まわりのものが展示されていた中のべっ甲の眼鏡。

つやが美しく色も茶色の飴色というか本物のべっ甲の色。

形は丸形ですが、鼻づるが逆V字型になっていて、機能上なのか、おしゃれなのかわからないけれど、今の感覚からすると、ひねりがあるデザインで、「流石、柳宗悦の眼鏡だな。大事にしていたんだな。」と思って眺めました。

白内障を患った画家のモネの使った黄色いレンズの入った晩年の眼鏡を見た時もひどく感動しましたが、尊敬する人物の眼鏡に私はどうも、弱いらしい。

 

 

 

 

 

    

 

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2021年3月31日 (水)

Visiting a place : 厳島図屏風

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町屋通り                     Aug.2018

 宮島のことで数年前からあれ?っと思っていた書こうと思っています。

厳島神社を目指して歩く時、私は、フェリーを降りて、そのまま突き当り方向のトンネルを抜け、右折し、左折し町屋通りを歩きます。

昔ながらの通りで、風情があり人通りも少ないので好きなのです。杓子を作る作業所を覗いたり、新しく始めたお店を覗いたり。

ただし、仕入れの車が結構スピードを上げて走るので、気をつけながら。ぶらぶら歩き。スイスの村のように環境のために全車電気自動車、なんてことをしてれるとより、宮島の自然も喜ぶと思いながら・・・。

よく行くお茶屋さんで町屋作りの中庭の緑陰を見ながら、かき氷を食べたり、コーヒーをいただいたり、地元の情報を知ったりして楽しい。

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町屋通りの山側の脇道に前から気になっていた味のある看板があります。「魚之棚町」。地名とロケーションが合っていないのです。

この疑問の答えが数年かけて実感としてわかったことについて。

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町屋通りの山側の一件がなくなっている箇所にその意味がわかる場所がありました。上の家との高低差がこんなにあるのです。

あの高さには、山辺の小径と言われる、昔の厳島神社の参道が通っています。

テレビでも紹介され、だんだんわかってきたことなのですが、もともとこの場所は、海岸段丘であり、現在の車が止まっている高さは、海、砂浜であった、ということなのです。

それでは、この町屋通りが出来たのはいつ?というと「江戸時代初期に埋め立てられた。」ということです。そして、今のにぎわっている表参道は、江戸時代後期ということで、だんだんと自然の浜がなくなっていったようです。

広島の本屋で買った船附洋子さんの書いた「厳島新絵図』という本にこのことが書いてあり、引用させていただきます。

『厳島神社への旧参道といわれる山辺の小径。山の麓に近いのだが、不思議な事に魚の名前が付いた「魚の棚町」がある。町屋通りの宮島市民センターから入った所で、入り口は江戸期の前まで海水が押し寄せる海だった。櫓を漕ぎ、和船がやって来て、魚の荷の上げ降ろしを行っていたため魚の棚という名が付いた。魚の棚は石畳の道で魚市があったという。』               ザ メディアジョン刊

この記述で、看板の意味が「なるほど!」とわかることになりました。

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山辺の小径より眼下の町並みを見る         March.2018

しかし、高台より眼下の海だった場所をイメージしましたが、今一つ・・・と思っていましたら、

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『厳島図屏風』 17~18世紀 紙本金地着色 六曲一双 広島県立美術館蔵

2019年9月15日の日本経済新聞の日曜版にこの屏風絵が掲載されました。宮島の対岸が実家なので、四季折々の宮島の姿を眺めてきた私にとっては、昔の姿は興味深くみることが出来、しばし、隅からすみまで現在の様子との違いを確かめながら、見つめていました。

すると、気になっていた「魚之棚」あたりの様子がしっかり、描かれていることに気付きました。

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画面中央左側 船が集まり、浜があり、簡単な柱が建てられ、山裾に軒を連ねた建物があり、人の通りが多い場所があります。

右側には、秀吉の建てさせた千畳閣が海岸ぎりぎりの崖の上、塔ノ岡に建っていることがわかります。位置関係からしても町屋通りの江戸期の姿がここには、リアルな姿で描かれていることがわかりました。

魚之棚の賑わいがやっと、伝わってきました。また埋め立てがこの絵が描かれた後、現在に至るまでどんどん行われたことがわかります。

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桜の頃                     March.2018

『厳島図屏風』は、各名所の俯瞰した絵と、島の北面全体を屏風に入れるために、かなり横幅の距離は短く描いたことがわかります。それでも観光の名所は、充分伝わり、ドローンもない時代によく細かく描いたな、と思いました。

新聞の記事には、他にも宮島を描いた屏風『厳島・吉野花見図屏風』というものがあり、それはアメリカにあると紹介していましたが、図版はありませんでした。

でもよく考えれば、その屏風を私は、偶然、2018年4月箱根の岡田美術館で見たような気がします。目録もないので、確認できませんが。

その絵の様子は、あまり覚えていないのですが、当時の人々の生活の様子が描かれてあったと思いますが、山頂付近に鹿と猿が描かれていて、その当時から猿もいたことを知り、絵の前で笑ったのを覚えています。

現在では、宮島の猿は全部捕獲され、いなくなっていますが、どうも江戸前から二ホンサルも生息していたようなのです。最後に私が猿に出会ったのは、2012年の夏、包が浦の奥の浜まで車で向かう途中、道に出てきていた猿にあったのが最後でした。猿も指折り数えると400年以上、宮島に住んでいたというわけなのです。

こうして考えると絵画は、歴史を今に伝える情報として、わかりやすく文字では伝えきれていないことを伝えてくれています。

昔の文が読めれば、いいのですが、なかなか理解するのは私の能力不足でかないません。

しかしながら、絵という視覚情報なら、自分なりに知らなかったことを発見しやすいので、最近、お寺や神社などに伝わるその地域の昔の絵を見て、昔の地形をイメージするのがおもしろいと感じています。

 

 

 

 

 

 

 

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2021年3月30日 (火)

Visiting a place : 樅ノ木は残った

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Toxicodendron succedaneum   ウルシ科ウルシ属 ハゼノキ

                                                                     Nov.21.2020 

 
  昨年秋、26年ぶりに宮島の紅葉を見に行きました。今は他界した父がお腹の大きな私のことを嬉しそうに紅葉とともに写真に収めてくれたことを思い出します。昨年は、コロナでなかなか移動できませんでしたが、この時は思い切ってGO!

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この日は、紅葉狩りが目的なので、ずっと山の遊歩道を歩きました。紅葉谷を見下ろす道を歩いていると、この写真では、伝わらないのですが、立派な針葉樹が森の中、すくっと立って存在感をアピールしていました。いつも帰省する夏の森の中ではあまり目立たなかった。

 

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この日は1万8千歩きましたが、最後は遊歩道の西端、大元公園へ。私が小学生の遠足の時、ここでお弁当を食べて、みんなでかくれんぼして、楽しかった場所。

そこに今回は、巨木の倒木。径がすごく大きく、樹皮が朽ちてはがれて倒れてから、ずい分経っている様子でした。色も灰色になり、バリバリとヒビが入りながら、朽ちていっていました。まわりは、広場になっていたので、他の木にぶつからずに、ただ一本、ドーンと倒れた感じでした。たぶん、このまま、朽ちさせ、自然に返すのだと思いました。大きな倒木をみることは今までなく、とにかく、すごかった。生と死を含んでいる・・・。

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                     Mar.2018

昔の写真を見ていたら倒れたモミノキが映っていました。3年前に訪れた時は、立っていました。大きい木だったので、雷に当たったのだろうか。

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現 国民宿舎 杜の宿(旧宮島ホテル)前    Nov.21.2020

最後に、以前ブログに書いた旧宮島ホテル前に今も残っているとGoogle Earthで確認していた石灯篭を現地で確認。その時の記事はこちら

この石灯篭は、写真右方向に宮島島内で厳島神社よりも古い創建と言われる大元神社へ続く参道沿いに置かれているものでした。

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古い写真の中でもひときわ大きかった石灯篭も確認。彫られた年号を見ると「慶応元年」と刻まれていました。西暦1865年のようなので、これは、比較的新しい灯篭。ベージュ色の花崗岩。

昔の写真では、この灯篭は、海沿いの参道沿いに建てられたいましたが、今は、浜が埋め立てられ、海岸線より奥に位置するようになっています。昔は、灯篭の中に火を灯すと、さぞかし、夜には海岸線にならぶ、灯りが美しかったことでしょう。

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Acer firma  マツ科モミ属 モミ

昔の写真に写っていた背後にあった大きな針葉樹、これも現存。しっかり確認できました。樹種はすぐには、わからなかったのですが、家に帰ってから、宮島の案内絵図を見てみると、しっかり『もみの木が海岸線から群生していて、学術的にも珍しい場所。』と書いてありました。

「そうか、今日見た針葉樹は全部モミノキだったんだ!」

確かに、山深い場所生育しているイメージのモミノキ、宮島の対岸の山深くの北上した吉和には「もみのき森林公園」という場所がありますが、宮島はずいぶん南下した場所。ここは、島の北東斜面。ひっそりとした場所です。

昔、ここに来た人たちが、この木の特異な生育環境を見て畏敬の念を抱き、ここを「神が宿る島」としたとしても不思議ではないということに改めて気づきました。

この日一日、私が目を見張った針葉樹はすべてモミノキで、立ち姿、倒木の姿、圧巻でした。

西洋でもモミノキを「神々の宿る木」と崇めていることも改めてううなずけました。

『樅木は残った』という大河ドラマがありましたが、ここに建てられた宮島ホテルはなくなっていったけれど、石や樹木は、今も変わらず、そこに存在していました。これらに比べると今を生きる自分も含め、「人間の一生は、はかないもの、はー!」と思ってしまいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2021年2月23日 (火)

Visiting a place : みさきめぐり

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城ヶ島 相模湾を隔てて、うっすら富士山を望む

春の海を見に三浦半島に行きました。先週から、明らかに空気が春めいてきています。

白波がしぶきを上げ、岩礁にぶつかるのを見ながら、元気をもらってきました。

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いつも、城ケ島からの日の出を見たりして、早朝に三浦半島に行くので、その後は、三崎へ行き、朝ごはん。私は、「三浦丼」というマグロや釜揚げシラス、三浦のお野菜の天ぷらがのった丼ぶりをいただくのが定番。

この日は、ふらりと出かけ、その後は無計画。三崎の町を歩いてみることにしました。

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海南神社 相州三浦鎮守

まずは、海南神社に参拝させていただきました。この日は、祈年祭が行われていました。境内を歩くと、和田義盛が弁財天を祀ったお社がありました。本殿の右脇に鳥居があり、階段を上って参拝しました。

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これは、パンフレットにのっていた江戸時代の俯瞰図。この絵を見ると、神社の敷地内の建物や太鼓橋、イチョウなどの樹木などの位置関係は現在とまったく一緒。参拝した、弁財天のお社も描かれていました。

大きく違うことは、海岸線。絵の右上の部分の薄く横線で描かれている部分が海なのです。

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海南神社の北東の高台に位置する光念寺にも行ってみました。実は、そのお隣の正瑞寺が源頼朝の桜の御所と呼ばれる別荘の跡地であることを知り、そちらを目指して、高台を歩いていましたが、迷いながらこちらの門前に先につきました。お寺の門をくぐらなかったのですが、眺めが素晴らし場所でした。

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この日は、ぽかぽかした陽気で、城ケ島との間の水道とはるかに見える太平洋の水面がきらきらしていていました。とても気持ちの良い景色でした。

家に帰ってから、「あのお寺は、なんていうお寺さんかしら?」と調べるとなんど和田義盛が建てた浄土宗のお寺でした。自分の無知を恥じながら、「そういえば・・・『三浦半島に義盛が七阿弥陀堂を作った。』」という浄楽寺さんで聞いた話を思い出し、、調べるとここがその阿弥陀堂の一つであったことが分かりました。

これはもう、ご先祖様が導いてくれたとしか・・・!

現在、城ケ島との間には、橋が掛けられ、海岸線は埋め立てられて、民家や商店が並んでいますが、さきほどの江戸の図からイメージすると、風光明媚な海景色が見えた場所だったのです。

義盛も立ったであろうこの場所からみた景色を私も追体験できたことは、今回の訪問の最も印象に残る経験となりました。

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階段を下りて町中を歩くと、海をイメージした仕上げの建物がいろいろありました。これは、大漁旗を作る三富染物屋さんの壁面。青海波のような模様が左官で作られていたり、

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ロープで編んだ、車止め。いいなー

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地元の砂岩、凝灰岩でしょか、ブロックにして積んだ塀 ⇒あとからわかったこと・・・佐島石という凝灰質砂岩のよう。横須賀市佐島から切り出された。コンクリートブロックが使われるようになるまで、石は切り出されていた。昭和20年まで。

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漆喰に藍を混ぜたのかな、と思った蔵作りの建物。2階の緑青を吹いた手の込んだ雨戸の模様も波に見える。

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そして、港に面した船具屋さん。プロ向けショップ。水色のペンキの建具や外装が海の色。

三崎の町中には、現代の建物もありますが、古い建物も所々残っており、日本の大きな町が空襲で破壊され、同じ時代の建物しか見られない町に比べ、いろいろと懐かしい気持ちになる町並みでした。

この後、大好きな三浦の野菜を買って、満足満足の一日でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2020年8月 6日 (木)

Visiting a place : Miyajima Hotel

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Miyajima                                                         Aug.2014

数年前に広島の平和公園脇に広島おりづるタワーが改修を経てオープンしました。屋上からの眺めは素晴らしく、西の空に沈む夕日を眺めると西方浄土がそこにはある、と思える黄金の世界を見ることができます。

館内の展示で原爆ドーム(旧産業奨励館)を設計したチェコ出身のヤン・レッツェルさんのことが詳しく紹介されていました。その時、宮島のホテルを設計したことが紹介されており、写真もパネルで展示されていました。

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旧宮島ホテル  1917年  ヤン・レッツェル設計 Wikipediaより

宮島にこんな和洋折衷のホテルがあったことやどのあたりだったのか興味を持ちました。

戦後、進駐していたオーストラリア軍のものとなり、1952年 焼失してしまったということです。

母が、「今、国民宿舎があるところらしいよ。」と教えてくれましたが、なかなか、展示写真で見た場所と現在の場所が一致できないでいました。

しかし、今日、以前には写真がネット上には一枚もなかったのですが、アップされていたので、自分の写真とGoogle MapでVirtual Travel。

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Miyajima                                     Mar.2018

この写真の一番右側に映っている建物が国民宿舎です。

先ほどの写真の手前の石灯篭が現存しており、特に写真右端の大きな灯篭が位置関係を明確にしてくれました。

昔の写真では、海岸がすぐ近くですが、現在は、埋め立てされて浜までが遠くになっています。

あと、ホテルの登り口脇の樹木が現存。モミジかな~?と思いますが、現在、幹の部分は同じ形で枝葉は傷んでいるようですが、確認できました。

現在のフェリー乗り場は、昔よりもかなり東側に移動して整備されており、その当時は、このあたりに船を着けていたようです。

昔の宮島の観光ポスターにもこのホテルが描かれているのを見たことがあるので、宮島の人には当たり前の話だと思いますが。

やっと、確認できたので、うれしい。

 

 

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