2021年4月 7日 (水)

Visiting a place : 日本民藝館

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日本民藝館                  Apr.6.2021

 日本民藝館が改修を終えたということを知り、早速出かけてきました。前日、銀座の無印良品で行われている『MINGEI 生活美のかたち』という展覧会(入場無料)を見せていただいた折、チラシがあり知った次第。

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Left : Tokyo Midtown 21_21 DESIGN SIGHT 2018.11-2019.2  

Right : Tokyo Atelier MUJI Ginza 2021.3-5.9 

 現在の日本民藝館の館長である深澤直人氏は、2018年にミッド タウンで行われた『民藝 Another Kind of Art』を日本民藝館の収蔵品を中心に企画されました。この時の展示は、陳列台に民藝の品が並べられているのですが、名札のようなものは、置いてありませんでした。そもそも、民藝の品々は、作者名はないのです。目録はありましたが、最初は、「えっ、どうして?」と違和感を感じました。しかし、だんだん慣れてきて、「一つひとつの形を楽しんで見ていけばいいんだ。」と思うようになりました。

確かに、子どもの時のように文字に頼らず、素朴に「何だろう?」という目でじっくり見ることが久しぶりに出来たような気がしました。

何か、ものを作る時のワクワクした気持ちや作っている時の集中した時間、出来た時の喜び、使う喜び、そういったものを一つひとつのものは感じさせてくれました。

また昔の人々の知恵や工夫と身の回りの自然の材料を上手く利用して作ったであろう品々を見ていくと、なんとひたむきに生活に役立つ品々を作ってきたことかとじわじわと心が洗われるほどに慈しみと感謝の気持ちがわいてきました。いい展覧会でした。

先日訪れた銀座の無印良品のアトリエ展示も深澤直人氏の企画キュレーションで、ミッドタウンの展示を思い出すものでした。

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さてさて、今回の改修が行われた大展示室。1926年の創建時に近い空間にしたそうです。

床が大谷石。微妙に薄緑を帯びた灰色の凝灰岩。壁には、葛布を張り替えたとのことです。

柳宗悦も座ったであろうウィンザー チェアー。国産の洋家具として作られた初期のものでしょうか。座面の材の杢の出方が、使える材を無駄なく使った感じで、今のきれいすぎる仕上がりを求める風潮に私の心に一石を投じてくれたよう。「これでいいんだ!」と言ってくれているようだった。

館内では、日本民藝館のことや柳宗悦の思想を紹介した映像も流すようになり、民藝についてわかりやすくなっていました。Img_9392

角皿       フランス  18世紀

 さてさて撮影可能だった場所のテーブルの上に「これ、何に使うのでしょう?」という四角い皿が。見ていくと・・・、「緑色になるガラス釉がかけられた焼き物だ。粘土だから自由に形が出来るので、四角く作り、取っ手がついている。あの取っ手を自分が持つとなると、こうだから、」と角度を想像すると、オーブンに出し入れしやすい角度のように思いました。左側には、焼き汁が流せるようになっている。私が思うには、この上に肉の塊をローレルなどの香草と一緒に置いて、オーブン(窯)に入れ、じっくりと焼いたのでは?というRoast pan。

ロースト ビーフかロースト ポークがこんがり焼けた塊をイメージしてしまいました。

柳宗悦は、名札に関しては、最小限度の情報のみを黒漆の板の上に朱書きで書いたものを置く、ということを世界中の博物館、美術館を巡って決定したそうです。

これは、人間が作った形は、そのもの自体がすでにその意味を語っているということだと思いました。

 昨日、一番印象に残ったものは、柳宗悦が原稿を書いていた時の机まわりのものが展示されていた中のべっ甲の眼鏡。

つやが美しく色も茶色の飴色というか本物のべっ甲の色。

形は丸形ですが、鼻づるが逆V字型になっていて、機能上なのか、おしゃれなのかわからないけれど、今の感覚からすると、ひねりがあるデザインで、「流石、柳宗悦の眼鏡だな。大事にしていたんだな。」と思って眺めました。

白内障を患った画家のモネの使った黄色いレンズの入った晩年の眼鏡を見た時もひどく感動しましたが、尊敬する人物の眼鏡に私はどうも、弱いらしい。

 

 

 

 

 

    

 

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2021年3月31日 (水)

Visiting a place : 厳島図屏風

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町屋通り                     Aug.2018

 宮島のことで数年前からあれ?っと思っていた書こうと思っています。

厳島神社を目指して歩く時、私は、フェリーを降りて、そのまま突き当り方向のトンネルを抜け、右折し、左折し町屋通りを歩きます。

昔ながらの通りで、風情があり人通りも少ないので好きなのです。杓子を作る作業所を覗いたり、新しく始めたお店を覗いたり。

ただし、仕入れの車が結構スピードを上げて走るので、気をつけながら。ぶらぶら歩き。スイスの村のように環境のために全車電気自動車、なんてことをしてれるとより、宮島の自然も喜ぶと思いながら・・・。

よく行くお茶屋さんで町屋作りの中庭の緑陰を見ながら、かき氷を食べたり、コーヒーをいただいたり、地元の情報を知ったりして楽しい。

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町屋通りの山側の脇道に前から気になっていた味のある看板があります。「魚之棚町」。地名とロケーションが合っていないのです。

この疑問の答えが数年かけて実感としてわかったことについて。

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町屋通りの山側の一件がなくなっている箇所にその意味がわかる場所がありました。上の家との高低差がこんなにあるのです。

あの高さには、山辺の小径と言われる、昔の厳島神社の参道が通っています。

テレビでも紹介され、だんだんわかってきたことなのですが、もともとこの場所は、海岸段丘であり、現在の車が止まっている高さは、海、砂浜であった、ということなのです。

それでは、この町屋通りが出来たのはいつ?というと「江戸時代初期に埋め立てられた。」ということです。そして、今のにぎわっている表参道は、江戸時代後期ということで、だんだんと自然の浜がなくなっていったようです。

広島の本屋で買った船附洋子さんの書いた「厳島新絵図』という本にこのことが書いてあり、引用させていただきます。

『厳島神社への旧参道といわれる山辺の小径。山の麓に近いのだが、不思議な事に魚の名前が付いた「魚の棚町」がある。町屋通りの宮島市民センターから入った所で、入り口は江戸期の前まで海水が押し寄せる海だった。櫓を漕ぎ、和船がやって来て、魚の荷の上げ降ろしを行っていたため魚の棚という名が付いた。魚の棚は石畳の道で魚市があったという。』               ザ メディアジョン刊

この記述で、看板の意味が「なるほど!」とわかることになりました。

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山辺の小径より眼下の町並みを見る         March.2018

しかし、高台より眼下の海だった場所をイメージしましたが、今一つ・・・と思っていましたら、

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『厳島図屏風』 17~18世紀 紙本金地着色 六曲一双 広島県立美術館蔵

2019年9月15日の日本経済新聞の日曜版にこの屏風絵が掲載されました。宮島の対岸が実家なので、四季折々の宮島の姿を眺めてきた私にとっては、昔の姿は興味深くみることが出来、しばし、隅からすみまで現在の様子との違いを確かめながら、見つめていました。

すると、気になっていた「魚之棚」あたりの様子がしっかり、描かれていることに気付きました。

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画面中央左側 船が集まり、浜があり、簡単な柱が建てられ、山裾に軒を連ねた建物があり、人の通りが多い場所があります。

右側には、秀吉の建てさせた千畳閣が海岸ぎりぎりの崖の上、塔ノ岡に建っていることがわかります。位置関係からしても町屋通りの江戸期の姿がここには、リアルな姿で描かれていることがわかりました。

魚之棚の賑わいがやっと、伝わってきました。また埋め立てがこの絵が描かれた後、現在に至るまでどんどん行われたことがわかります。

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桜の頃                     March.2018

『厳島図屏風』は、各名所の俯瞰した絵と、島の北面全体を屏風に入れるために、かなり横幅の距離は短く描いたことがわかります。それでも観光の名所は、充分伝わり、ドローンもない時代によく細かく描いたな、と思いました。

新聞の記事には、他にも宮島を描いた屏風『厳島・吉野花見図屏風』というものがあり、それはアメリカにあると紹介していましたが、図版はありませんでした。

でもよく考えれば、その屏風を私は、偶然、2018年4月箱根の岡田美術館で見たような気がします。目録もないので、確認できませんが。

その絵の様子は、あまり覚えていないのですが、当時の人々の生活の様子が描かれてあったと思いますが、山頂付近に鹿と猿が描かれていて、その当時から猿もいたことを知り、絵の前で笑ったのを覚えています。

現在では、宮島の猿は全部捕獲され、いなくなっていますが、どうも江戸前から二ホンサルも生息していたようなのです。最後に私が猿に出会ったのは、2012年の夏、包が浦の奥の浜まで車で向かう途中、道に出てきていた猿にあったのが最後でした。猿も指折り数えると400年以上、宮島に住んでいたというわけなのです。

こうして考えると絵画は、歴史を今に伝える情報として、わかりやすく文字では伝えきれていないことを伝えてくれています。

昔の文が読めれば、いいのですが、なかなか理解するのは私の能力不足でかないません。

しかしながら、絵という視覚情報なら、自分なりに知らなかったことを発見しやすいので、最近、お寺や神社などに伝わるその地域の昔の絵を見て、昔の地形をイメージするのがおもしろいと感じています。

 

 

 

 

 

 

 

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2021年3月30日 (火)

Visiting a place : 樅ノ木は残った

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Toxicodendron succedaneum   ウルシ科ウルシ属 ハゼノキ

                                                                     Nov.21.2020 

 
  昨年秋、26年ぶりに宮島の紅葉を見に行きました。今は他界した父がお腹の大きな私のことを嬉しそうに紅葉とともに写真に収めてくれたことを思い出します。昨年は、コロナでなかなか移動できませんでしたが、この時は思い切ってGO!

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この日は、紅葉狩りが目的なので、ずっと山の遊歩道を歩きました。紅葉谷を見下ろす道を歩いていると、この写真では、伝わらないのですが、立派な針葉樹が森の中、すくっと立って存在感をアピールしていました。いつも帰省する夏の森の中ではあまり目立たなかった。

 

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この日は1万8千歩きましたが、最後は遊歩道の西端、大元公園へ。私が小学生の遠足の時、ここでお弁当を食べて、みんなでかくれんぼして、楽しかった場所。

そこに今回は、巨木の倒木。径がすごく大きく、樹皮が朽ちてはがれて倒れてから、ずい分経っている様子でした。色も灰色になり、バリバリとヒビが入りながら、朽ちていっていました。まわりは、広場になっていたので、他の木にぶつからずに、ただ一本、ドーンと倒れた感じでした。たぶん、このまま、朽ちさせ、自然に返すのだと思いました。大きな倒木をみることは今までなく、とにかく、すごかった。生と死を含んでいる・・・。

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                     Mar.2018

昔の写真を見ていたら倒れたモミノキが映っていました。3年前に訪れた時は、立っていました。大きい木だったので、雷に当たったのだろうか。

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現 国民宿舎 杜の宿(旧宮島ホテル)前    Nov.21.2020

最後に、以前ブログに書いた旧宮島ホテル前に今も残っているとGoogle Earthで確認していた石灯篭を現地で確認。その時の記事はこちら

この石灯篭は、写真右方向に宮島島内で厳島神社よりも古い創建と言われる大元神社へ続く参道沿いに置かれているものでした。

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古い写真の中でもひときわ大きかった石灯篭も確認。彫られた年号を見ると「慶応元年」と刻まれていました。西暦1865年のようなので、これは、比較的新しい灯篭。ベージュ色の花崗岩。

昔の写真では、この灯篭は、海沿いの参道沿いに建てられたいましたが、今は、浜が埋め立てられ、海岸線より奥に位置するようになっています。昔は、灯篭の中に火を灯すと、さぞかし、夜には海岸線にならぶ、灯りが美しかったことでしょう。

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Acer firma  マツ科モミ属 モミ

昔の写真に写っていた背後にあった大きな針葉樹、これも現存。しっかり確認できました。樹種はすぐには、わからなかったのですが、家に帰ってから、宮島の案内絵図を見てみると、しっかり『もみの木が海岸線から群生していて、学術的にも珍しい場所。』と書いてありました。

「そうか、今日見た針葉樹は全部モミノキだったんだ!」

確かに、山深い場所生育しているイメージのモミノキ、宮島の対岸の山深くの北上した吉和には「もみのき森林公園」という場所がありますが、宮島はずいぶん南下した場所。ここは、島の北東斜面。ひっそりとした場所です。

昔、ここに来た人たちが、この木の特異な生育環境を見て畏敬の念を抱き、ここを「神が宿る島」としたとしても不思議ではないということに改めて気づきました。

この日一日、私が目を見張った針葉樹はすべてモミノキで、立ち姿、倒木の姿、圧巻でした。

西洋でもモミノキを「神々の宿る木」と崇めていることも改めてううなずけました。

『樅木は残った』という大河ドラマがありましたが、ここに建てられた宮島ホテルはなくなっていったけれど、石や樹木は、今も変わらず、そこに存在していました。これらに比べると今を生きる自分も含め、「人間の一生は、はかないもの、はー!」と思ってしまいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2021年2月23日 (火)

Visiting a place : みさきめぐり

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城ヶ島 相模湾を隔てて、うっすら富士山を望む

春の海を見に三浦半島に行きました。先週から、明らかに空気が春めいてきています。

白波がしぶきを上げ、岩礁にぶつかるのを見ながら、元気をもらってきました。

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いつも、城ケ島からの日の出を見たりして、早朝に三浦半島に行くので、その後は、三崎へ行き、朝ごはん。私は、「三浦丼」というマグロや釜揚げシラス、三浦のお野菜の天ぷらがのった丼ぶりをいただくのが定番。

この日は、ふらりと出かけ、その後は無計画。三崎の町を歩いてみることにしました。

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海南神社 相州三浦鎮守

まずは、海南神社に参拝させていただきました。この日は、祈年祭が行われていました。境内を歩くと、和田義盛が弁財天を祀ったお社がありました。本殿の右脇に鳥居があり、階段を上って参拝しました。

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これは、パンフレットにのっていた江戸時代の俯瞰図。この絵を見ると、神社の敷地内の建物や太鼓橋、イチョウなどの樹木などの位置関係は現在とまったく一緒。参拝した、弁財天のお社も描かれていました。

大きく違うことは、海岸線。絵の右上の部分の薄く横線で描かれている部分が海なのです。

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海南神社の北東の高台に位置する光念寺にも行ってみました。実は、そのお隣の正瑞寺が源頼朝の桜の御所と呼ばれる別荘の跡地であることを知り、そちらを目指して、高台を歩いていましたが、迷いながらこちらの門前に先につきました。お寺の門をくぐらなかったのですが、眺めが素晴らし場所でした。

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この日は、ぽかぽかした陽気で、城ケ島との間の水道とはるかに見える太平洋の水面がきらきらしていていました。とても気持ちの良い景色でした。

家に帰ってから、「あのお寺は、なんていうお寺さんかしら?」と調べるとなんど和田義盛が建てた浄土宗のお寺でした。自分の無知を恥じながら、「そういえば・・・『三浦半島に義盛が七阿弥陀堂を作った。』」という浄楽寺さんで聞いた話を思い出し、、調べるとここがその阿弥陀堂の一つであったことが分かりました。

これはもう、ご先祖様が導いてくれたとしか・・・!

現在、城ケ島との間には、橋が掛けられ、海岸線は埋め立てられて、民家や商店が並んでいますが、さきほどの江戸の図からイメージすると、風光明媚な海景色が見えた場所だったのです。

義盛も立ったであろうこの場所からみた景色を私も追体験できたことは、今回の訪問の最も印象に残る経験となりました。

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階段を下りて町中を歩くと、海をイメージした仕上げの建物がいろいろありました。これは、大漁旗を作る三富染物屋さんの壁面。青海波のような模様が左官で作られていたり、

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ロープで編んだ、車止め。いいなー

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地元の砂岩、凝灰岩でしょか、ブロックにして積んだ塀 ⇒あとからわかったこと・・・佐島石という凝灰質砂岩のよう。横須賀市佐島から切り出された。コンクリートブロックが使われるようになるまで、石は切り出されていた。昭和20年まで。

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漆喰に藍を混ぜたのかな、と思った蔵作りの建物。2階の緑青を吹いた手の込んだ雨戸の模様も波に見える。

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そして、港に面した船具屋さん。プロ向けショップ。水色のペンキの建具や外装が海の色。

三崎の町中には、現代の建物もありますが、古い建物も所々残っており、日本の大きな町が空襲で破壊され、同じ時代の建物しか見られない町に比べ、いろいろと懐かしい気持ちになる町並みでした。

この後、大好きな三浦の野菜を買って、満足満足の一日でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2020年8月 6日 (木)

Visiting a place : Miyajima Hotel

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Miyajima                                                         Aug.2014

数年前に広島の平和公園脇に広島おりづるタワーが改修を経てオープンしました。屋上からの眺めは素晴らしく、西の空に沈む夕日を眺めると西方浄土がそこにはある、と思える黄金の世界を見ることができます。

館内の展示で原爆ドーム(旧産業奨励館)を設計したチェコ出身のヤン・レッツェルさんのことが詳しく紹介されていました。その時、宮島のホテルを設計したことが紹介されており、写真もパネルで展示されていました。

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旧宮島ホテル  1917年  ヤン・レッツェル設計 Wikipediaより

宮島にこんな和洋折衷のホテルがあったことやどのあたりだったのか興味を持ちました。

戦後、進駐していたオーストラリア軍のものとなり、1952年 焼失してしまったということです。

母が、「今、国民宿舎があるところらしいよ。」と教えてくれましたが、なかなか、展示写真で見た場所と現在の場所が一致できないでいました。

しかし、今日、以前には写真がネット上には一枚もなかったのですが、アップされていたので、自分の写真とGoogle MapでVirtual Travel。

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Miyajima                                     Mar.2018

この写真の一番右側に映っている建物が国民宿舎です。

先ほどの写真の手前の石灯篭が現存しており、特に写真右端の大きな灯篭が位置関係を明確にしてくれました。

昔の写真では、海岸がすぐ近くですが、現在は、埋め立てされて浜までが遠くになっています。

あと、ホテルの登り口脇の樹木が現存。モミジかな~?と思いますが、現在、幹の部分は同じ形で枝葉は傷んでいるようですが、確認できました。

現在のフェリー乗り場は、昔よりもかなり東側に移動して整備されており、その当時は、このあたりに船を着けていたようです。

昔の宮島の観光ポスターにもこのホテルが描かれているのを見たことがあるので、宮島の人には当たり前の話だと思いますが。

やっと、確認できたので、うれしい。

 

 

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2020年8月 5日 (水)

Visiting a place : Memorial Cathedral for World Peace in Hiroshima

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Memorial Cathedral for World Peace              Aug.2014 

明日は、原爆の日。今年は、帰省するのは無理かな、と思いながら8月6日をむかえそうです。

平和公園から北東に位置する場所に戦後、1954年に建てられた幟町世界平和記念聖堂があります。地元では「幟町教会」と呼んでいると思います。

5歳の頃、この聖堂で知り合いの結婚式にフラワーガールとして参列した時、初めてここを訪れました。ドレスも作ってもらい、祭壇までのヴァージン・ロードに花をまきました。緊張して、ほっぺが真っ赤になり、祭壇前の階段ではドレスの裾を踏んで、足が前に上がらず、困った、というはずかしかった思い出のある場所です。

本番では、背後より荘厳なパイプ・オルガンやコーラスも聞こえ、振り返ってみたい、と思いながらいい子にしていました。

自分の記憶の中では、映画に出てくるようなヨーロッパの教会そのものであったような気がしていた場所。

大人になってから、戦後、建てられたということがわかりましたが、それ以来訪れていなかったので、娘と訪問させてもらいました。

2014年に訪れた時、今まで知らなかったことが、いくつか分かりました。この日、中に入ることが出来ましたが、撮影は出来ませんでしたので、聖堂内の写真はありません。

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戦後、焦土と化した広島の地に原爆犠牲者を弔い、世界平和を祈念する場として、カトリックの聖堂として建てられました。建設にあたり、広島に布教活動のため滞在し、自らも被爆し絶望の淵にいたドイツ人の神父 フーゴ・ラッサールがせめて一つ祈りの場を作りたいと思い、力を尽くして完成させました。建設費は、国内は元より世界中からの寄付によって建てられたとうことです。

設計は、村野藤吾氏です。鉄筋コンクリート造なのですが、外壁の表面は、石を欠いたようにごつごつしています。また、鐘楼が高く、窓は小さめ。壁の厚く開口部の小さいロマネスク建築と飛梁を使い壁を支え、高い塔を持つゴシック建築が合わさったような様式です。入口の部分は光をイメージした法輪や楕円を使った装飾で飾られ、仏教的な意匠も取り入られています。型を作って、コンクリートは流し込む訳ですから、手間がかかったことでしょう。

母が、以前、この工事に携わった人の娘さんが書いたという絵本(今は、ないのですが)、苦労しながらも広島に教会を作ることの意味や希望が書かれた本でした。

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久しぶりに聖堂の中へ入ると、大きな十字架があり、モザイクやステンド・グラスの光がとても色とりどりできれいでした。

ステンド・グラスは、一窓ずつが聖書の一場面を表したものでした。そして、これは、外国(メキシコ)で作られ、ここに取り付けられたことを知りました。

遠く離れた場所で、原爆を受けた広島をを憂い、この聖堂に合うものをと作ってくれたんだと思いました。

調べると、祭壇の斬新なモザイク、パイプオルガン、鐘、私が緊張した上った大理石の祭壇、一つひとつが世界の人々から広島のためにと贈られたものと知りました。

この日は聖堂の中に、いろいろな聖堂建設に至るまでの資料が展示されていました。

その中にまったく知らなかったこの聖堂の外観写真がありました。祭壇上部は、天蓋のようになっていて、緑青色のドーム屋根がかかっており、その中央部に鳳凰が載っているということ。

鳳凰は、西洋ではフェニックス。広島が再び、甦ることを願ってとりつけられていたのです。

これは、そうたやすく観に行くことはできないけれど、ヨーロッパの教会には、たぶん載っていない、鳳凰。

キリスト教的西洋建築をそのまま、作るのではなく、東洋的なものが随所に配置されていたことに今回気付きました。

これは、ラッサール神父が日本での布教に当たり、禅を知り、カトリックとの共通点を知り、仏教についても理解も深かったことがこの建築に表れているようです。

1990年にラッサール神父は亡くなり、遺灰が聖堂に収められているということです。

 

 

 

 

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2020年3月 7日 (土)

Visiting a place : 葉山の海岸

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2月、平日しか開いていない逗子のREDECKER社のブラシを置いているお店に行きました。お目当てのブラシを手に入れ、その帰り、トコトコ歩いて、海を見に行きました。

この方角かな、と思いながら、静かな住宅街を抜けていくと、いつも三浦半島に来た時に通る国道に出ました。

「ここが、葉山の御用邸!」と言いながら車の中からのぞくだけの場所をこの日は歩いてみることができました。

公園と書かれた看板を頼りに、歩くと、波の音と青い空、黒松の姿が見えてきました。

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お~!よく、見ると白い雲の中に雪をかぶった富士山の頂が空の中に浮かんでいるように見えました。

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海岸はさらさらの砂。少し、グリーンがかった深い青色の海がきれいでした。

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冬の平日の三浦半島は、どこかの田舎町と一緒で、人が少なく、のんびりしていました。

きらきら光る波の向こうに富士山が見える眺めは、清々しくいい気分転換になりました。

 

 

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2020年2月11日 (火)

Visiting a place : 高知 和田城址

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2018年 高知県早明浦ダム周辺 土佐町和田に行ってきました。子どもの頃から、母から聞いていた「高知の山奥」という祖父の出身の場所。

早明浦ダムという名前は、中四国地方の天気予報でよく降雨量が多いことで地名が出る場所で、まさかこの場所に自分が縁があったことをここ最近知ったという次第。1975年、ダムが作られたためにこの谷にあった周辺の村は水没となったそうです。

その村々には、和田を姓とする家々が多く、鎌倉時代よりここに移り住んできたということです。自動車で前日より、高知に入っていましたが、高速道は雨のため通行止め、吉野川沿いの急流沿いの国道を上っていきましたが、かなり山深い場所。皆を連れて歩いて入っていったことを考えると、追っ手が絶対来ないような場所としてここに来たことがわかりました。香川県の現在豊浜町 和田浜という場所に一時、一族が住んでいたところを攻められ、さらに高知の山奥のこの場所まで移り住んだという話が石碑に刻んであります。城のあった場所は、東西に尾根が連なる場所で、南側の斜面は絶壁、北側が針葉樹林の山林。

和田合戦の後の『吾妻鏡』にも「和田の残党」という箇所があり、各地に散らばった和田一族が北条にとっても脅威であったことが書かれてありました。

今も地名にも和田という場所が残っていますが、高知県は和田さんが特に多い土地だそうです。

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ダム湖の南側の山の上にあったという和田城址と墓所や神社が目的地。急斜面の林道を車で上っていきました。インターネットのサイトで見つけ、どんなところか何度もイメージしていた場所。小学校の建物が見えました。

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この看板も訪れるのに参考にさせてもらった方の記事に載っていた看板。あった!

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あった!山林を和田家が寄付して整備している場所に石碑がありました。整地され、車も止められるようにしてありました。家紋は、三浦半島和田氏と同じ。母の家の紋。母も何度か墓参りに高知には行ったことや従妹のお兄さんの名前を寄進者の石碑から見つけ、「この人知ってる!」等、ここでしか出ない話も聞けて、やはりこの土地に住んでいたのだと改めて感じました。

この先、和田若狭の守の墓などがある神社がありました。ここの築城主は、和田義直とされています。そして、墓には「若狭守和田の墓」と彫られています。義直が若狭の守をしていた時があったのか、調べてもインターネットでは現時点ではわかりませんでした。

ただ、福井県に「若狭和田市」は現存し、記録の中で鎌倉時代北条氏が守護を務めた記録は、出てきました。

ということは、素人の推測ですが、1213年の和田合戦以前の守護を和田が務めており、和田氏が鎌倉を出たあと、北条氏が担当したのでは、と考えたりしています。どなたか教えてください。

鎌倉においても和田の領地を和田合戦後、北条氏が自分の領地にしています。

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そして、気になっていた和田に代々伝わるという刀の石碑もありました。

「幻の刀剣」というサイトに行方不明として載っていた和田義直が持っていたという刀、素人ですが、「これなんではないかな~?」と勝手に思っているもの。直刀なのです。

山の稜線にあったという西の城跡にも行ってみました。右側に早明浦ダムがある位置関係。

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そして、吉野川源流の神をも祀っている子安神社がありました。想像していたより大きな神舎でした。

さすがに降雨量の多い場所なので、社の材の傷みが気になりました。大きな避雷針も立っており、湿った空気がこの辺りの山にぶつかって雨となる四国の山の中の様相は、しっかりと肌で感じることができました。

祖父は林業の勉強をするために明治時代 札幌農学校に行きました。

この地には、戻ることはありませんでした。でも先祖が800年住んできたここを私たちが訪れたことは、きっと喜んでくれているだろうと思っています。

 

 

 

 

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2019年10月 7日 (月)

Visiting a place : 厳島神社 

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私が実家にいた1991年、台風19号がこのあたりを襲いました。記録を見ると、カテゴリー4のスーパータイフーン。最低925hPa、最大瞬間風速58.9m/s.

夜にかけてひどくなり実家の窓が割れて、板戸で吹き込む風を必死で押さえたことを思い出します。停電になっていたので風が収まった時、懐中電灯で家のまわりを照らしてみると、瓦が家のまわりにいっぱい割れて落ちていました。玄関に入れていた犬もより安全なお風呂場に自分で逃げていました。

ショックで眠れないまま、夜が明けるとものものしくヘリコプターが2~3機宮島上空を飛んでいました。そして、宮島を見ると、いつもと違う厳島神社の様子が対岸からもわかりました。どこかがおかしい!ご近所も瓦やスレートが飛ばされ、屋根にかなりの被害が出ていました。

がっかりしながら家に戻ると、ヘリコプターからの映像がNHKの朝の番組で流れていました。屋根が落ちてぺしゃんこになっていたり、灯篭が倒れているのが上空からの映像からもわかり、被害の大きさがかなりひどいことが徐々にわかってきました。

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特にひどかった能舞台              Aug.16.2009

背後の弥山から吹きおりてきた通称「弥山おろし」によって風が巻き上がり、能舞台の屋根を下から突き上げたことにより壊れてしまいました。

それからかなりの期間、神社はいたるところがブルーシートで覆われ、時間をかけて修復が行われました。国宝に指定されている建物が多く、なるべく元の材料を使って修復するという努力が数年にわたって行われました。

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あの時のことを思うと、現在何事もなかったように世界遺産として多くの海外からの観光客を迎えながら、海上に美しい姿を見せているのを見ると、多くの人の手があるからこそと思うのです。

今も時々いろいろな修繕工事が行われていますが、あの台風以来、そういった営みに気付くようになりました。建て方で工夫している所など本などで知ったことも一緒にまとめます。

廻廊の板は、「目透張り」と呼ばれるわずかな隙間があることは有名です。下から海水が上がってきた時、水の抵抗を逃すことや、砂などを落とす役割があります。本当に海水が廻廊の板の高さまでくるということはかなり危ないのですが、改めて、1991年の台風19号の映像を見ると、海水面がどんどん上がってきた時には、この隙間にちゃぷちゃぷ海水が上がってきていました。最終的には海水面は5m近くまであがり、柱の半分ぐらいまで、水につかり、板も流されました。

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                     Aug.9.2014

これは、2014年に訪れた時のない内侍橋という本殿に渡る橋の修理を行っていた時の板の裏側の写真ですが、ご覧の通り板の裏には墨で番号が書いてありました。台風19号の後、流された厳島神社の部材は対岸の漁師さんが神社のものとすぐにわかり戻してくれたという話がありました。

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板の裏は、根太の上に置くために欠いてありました。

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床下の柱は、礎石の上においてあるだけ。フナクイムシやフジツボがつき、傷みが出てきます。

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ですからこのように根継をして、傷んだ部分を変える補修も随所で行われています。

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平舞台を支えているのは木材ではなく、八角柱に仕上げられた赤間石が使われています。毛利輝元が寄進したそうです。

そしてこの平舞台の板の間は、隙間なく張ってあります。それは波を沈める役割を持たせ、本殿への海水の侵入を防ぐ役割を持たせているそうです。右側の青銅製の灯篭も台風19号の際、風に煽られ、倒れました。

電気があるのが普通の現代においては、灯篭の存在は、オブジェのようにも思えますが、夜間に海上から見て灯りをともす灯篭が灯台の代わりであり、安全面で必ず必要なものだったのです。

台風19号の時も参道の石灯篭もたくさん倒れました。

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西廻廊を歩いていると太鼓橋があることに気付きます。

でもどうやって渡るのだろうといつも疑問に思っていました。かなりの助走をつけなければ、登れないのでは?などおてんばだった私はあれこれ行くたびに考えていました。

皇室からの勅使専用の橋として階段付きで作られたものが使われなくなり、現在は階段を外した状態になっているということです。な~んだ!そういうことだったんだ!とついこの間、知りました。

海辺に建てたが上のメンテナンスはいつも発生していますし、台風、高潮などの数年に一度の被害もあります。

大変な維持作業だと思いますが、いつ行っても気持ちが良く過ごせるこの懐の深い厳島神社を後世にも残していってほしいです。

まだまだ、そこにあるのにすごいいわれのあるものが宮島にはいっぱいあります。紐溶きながら知りたいと思っています。

 

参考文献:『宮島』 中道 勉著 足で知る宮島学発行所 

     『厳島新絵図』 船附洋子著 ザ・テレビジョン刊 

 

 

 

 

 

 

 

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Visiting a place :厳島神社 2019 summer

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 Under constraction                                          Aug.10.2019

 今年、宮島 厳島神社の大鳥居は修理中。いつもなら、フェリーで宮島に近づいた時、この角度からは、ぐっと丹塗りの大鳥居が海や山の青緑の色の中、しっかりアクセントとなってそびえ立っている姿を見せてくれる絶好のシャッターチャンスの位置ですが、今年は、この姿。

しかし、ここ数年訪れる度に、色が薄くなり幾分蜜柑色になってきており、もうそろそろお手入れが必要だな、と思っていました。

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廻廊から鳥居を望む               Aug.9.2019  

毎年、夏に訪れていますが、宮島には知らないことがいっぱい。今回も神社に西欧の技法が使われているのでは、という指摘が宮元健次氏の『日本庭園のみかた』(学芸出版社刊)に書かれていて驚いたのでそのことについて現地で確かめてみたいと思って、訪れました。

「柱間の間隔が鳥居に向かって狭くなっている。」という指摘だったのですが、本を持たずに訪れたので、観るべきポイントを間違えていました。

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東廻廊 East corrider 国宝 National tresure   Aug.9.2016 

廻廊の柱間をみていましたが、ここではありませんでした。ちなみに廻廊の柱間は2.4m、横幅は3.6m。廻廊が直角に曲がる部分の外側の柱間は確かに広くなっていましたが、鳥居方向に柱間は一定間隔で整然と並んでいました。

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今年は満潮に近い時でしたので回廊を歩いているとゆらゆらと海面に映った反射光が天井裏に反射していました。

夏に訪れる時は、満潮の時がおすすめ。

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拝殿     管弦祭          Aug.   .2017

家に帰ってから柱間は、廻廊ではなく、本社社殿であったことに気付き、過去の写真を見てみました。これは、本殿方向に柱の列が並んでいますが、奥から4.32m、3.94m、3.03mとなっているそうです。鳥居に向かって、柱間が狭くなっている。

何度も火災や戦に遭ったので、修理されて今に至っていますが、宮元氏によれば、1555年の厳島合戦の後、1571毛利元就が修復した時に、その頃日本にも宣教師から伝わったルネサンスの透視図法が柱間にも使われたのではないか、という説でした。

このように大鳥居の中心点を消失点とし、柱間を狭くしていくと鳥居までの距離感を実際より短く感じる手法は、教会建築にも用いられており、それが伝えられたからではないか、ということです。

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祓殿より大鳥居を望む              Aug.11.2007

今まで、厳島神社は平清盛が整備した平安時代の寝殿造りを伝える建物として見ていましたが、改修の際、それぞれの時代の建築様式も積み重なって、今の建物があることに改めて気づかされました。

 

 

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