2021年2月23日 (火)

Visiting a place : みさきめぐり

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城ヶ島 相模湾を隔てて、うっすら富士山を望む

春の海を見に三浦半島に行きました。先週から、明らかに空気が春めいてきています。

白波がしぶきを上げ、岩礁にぶつかるのを見ながら、元気をもらってきました。

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いつも、城ケ島からの日の出を見たりして、早朝に三浦半島に行くので、その後は、三崎へ行き、朝ごはん。私は、「三浦丼」というマグロや釜揚げシラス、三浦のお野菜の天ぷらがのった丼ぶりをいただくのが定番。

この日は、ふらりと出かけ、その後は無計画。三崎の町を歩いてみることにしました。

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海南神社 相州三浦鎮守

まずは、海南神社に参拝させていただきました。この日は、祈年祭が行われていました。境内を歩くと、和田義盛が弁財天を祀ったお社がありました。本殿の右脇に鳥居があり、階段を上って参拝しました。

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これは、パンフレットにのっていた江戸時代の俯瞰図。この絵を見ると、神社の敷地内の建物や太鼓橋、イチョウなどの樹木などの位置関係は現在とまったく一緒。参拝した、弁財天のお社も描かれていました。

大きく違うことは、海岸線。絵の右上の部分の薄く横線で描かれている部分が海なのです。

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海南神社の北東の高台に位置する光念寺にも行ってみました。実は、そのお隣の正瑞寺が源頼朝の桜の御所と呼ばれる別荘の跡地であることを知り、そちらを目指して、高台を歩いていましたが、迷いながらこちらの門前に先につきました。お寺の門をくぐらなかったのですが、眺めが素晴らし場所でした。

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この日は、ぽかぽかした陽気で、城ケ島との間の水道とはるかに見える太平洋の水面がきらきらしていていました。とても気持ちの良い景色でした。

家に帰ってから、「あのお寺は、なんていうお寺さんかしら?」と調べるとなんど和田義盛が建てた浄土宗のお寺でした。自分の無知を恥じながら、「そういえば・・・『三浦半島に義盛が七阿弥陀堂を作った。』」という浄楽寺さんで聞いた話を思い出し、、調べるとここがその阿弥陀堂の一つであったことが分かりました。

これはもう、ご先祖様が導いてくれたとしか・・・!

現在、城ケ島との間には、橋が掛けられ、海岸線は埋め立てられて、民家や商店が並んでいますが、さきほどの江戸の図からイメージすると、風光明媚な海景色が見えた場所だったのです。

義盛も立ったであろうこの場所からみた景色を私も追体験できたことは、今回の訪問の最も印象に残る経験となりました。

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階段を下りて町中を歩くと、海をイメージした仕上げの建物がいろいろありました。これは、大漁旗を作る三富染物屋さんの壁面。青海波のような模様が左官で作られていたり、

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ロープで編んだ、車止め。いいなー

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地元の砂岩、凝灰岩でしょか、ブロックにして積んだ塀 ⇒あとからわかったこと・・・佐島石という凝灰質砂岩のよう。横須賀市佐島から切り出された。コンクリートブロックが使われるようになるまで、石は切り出されていた。昭和20年まで。

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漆喰に藍を混ぜたのかな、と思った蔵作りの建物。2階の緑青を吹いた手の込んだ雨戸の模様も波に見える。

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そして、港に面した船具屋さん。プロ向けショップ。水色のペンキの建具や外装が海の色。

三崎の町中には、現代の建物もありますが、古い建物も所々残っており、日本の大きな町が空襲で破壊され、同じ時代の建物しか見られない町に比べ、いろいろと懐かしい気持ちになる町並みでした。

この後、大好きな三浦の野菜を買って、満足満足の一日でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2020年2月11日 (火)

Visiting a place : 高知 和田城址

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   Sameura dam                                        Aug.2018

2018年 高知県早明浦ダム周辺 土佐町和田に行ってきました。子どもの頃から、母から聞いていた「高知の山奥」という祖父の出身の場所。

早明浦ダムという名前は、中四国地方の天気予報でよく降雨量が多いことで地名が出る場所で、まさかこの場所に自分が縁があったことをここ最近知ったという次第。1975年、ダムが作られたためにこの谷にあった周辺の村は水没となったそうです。

その村々には、和田を姓とする家々が多く、鎌倉時代よりここに移り住んできたということです。自動車で前日より、高知に入っていましたが、高速道は雨のため通行止め、吉野川沿いの急流沿いの国道を上っていきましたが、かなり山深い場所。皆を連れて歩いて入っていったことを考えると、追っ手が絶対来ないような場所としてここに来たことがわかりました。香川県の現在豊浜町 和田浜という場所に一時、一族が住んでいたところを攻められ、さらに高知の山奥のこの場所まで移り住んだという話が石碑に刻んであります。城のあった場所は、東西に尾根が連なる場所で、南側の斜面は絶壁、北側が針葉樹林の山林。

和田合戦の後の『吾妻鏡』にも「和田の残党」という箇所があり、各地に散らばった和田一族が北条にとっても脅威であったことが書かれてありました。

今も地名にも和田という場所が残っていますが、高知県は和田さんが特に多い土地だそうです。

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ダム湖の南側の山の上にあったという和田城址と墓所や神社が目的地。急斜面の林道を車で上っていきました。インターネットのサイトで見つけ、どんなところか何度もイメージしていた場所。小学校の建物が見えました。

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この看板も訪れるのに参考にさせてもらった方の記事に載っていた看板。あった!

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あった!山林を和田家が寄付して整備している場所に石碑がありました。整地され、車も止められるようにしてありました。家紋は、三浦半島和田氏と同じ。母の家の紋。母も何度か墓参りに高知には行ったことや従妹のお兄さんの名前を寄進者の石碑から見つけ、「この人知ってる!」等、ここでしか出ない話も聞けて、やはりこの土地に住んでいたのだと改めて感じました。

この先、和田若狭の守の墓などがある神社がありました。ここの築城主は、和田義直とされています。そして、墓には「若狭守和田の墓」と彫られています。義直が若狭の守をしていた時があったのか、調べてもインターネットでは現時点ではわかりませんでした。

ただ、福井県に「若狭和田市」は現存し、記録の中で鎌倉時代北条氏が守護を務めた記録は、出てきました。

ということは、素人の推測ですが、1213年の和田合戦以前の守護を和田が務めており、和田氏が鎌倉を出たあと、北条氏が担当したのでは、と考えたりしています。どなたか教えてください。

鎌倉においても和田の領地を和田合戦後、北条氏が自分の領地にしています。

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そして、気になっていた和田に代々伝わるという刀の石碑もありました。

「幻の刀剣」というサイトに行方不明として載っていた和田義直が持っていたという刀、素人ですが、「これなんではないかな~?」と勝手に思っているもの。直刀なのです。

山の稜線にあったという西の城跡にも行ってみました。右側に早明浦ダムがある位置関係。

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そして、吉野川源流の神をも祀っている子安神社がありました。想像していたより大きな神舎でした。

さすがに降雨量の多い場所なので、社の材の傷みが気になりました。大きな避雷針も立っており、湿った空気がこの辺りの山にぶつかって雨となる四国の山の中の様相は、しっかりと肌で感じることができました。

祖父は林業の勉強をするために明治時代 札幌農学校に行きました。

この地には、戻ることはありませんでした。でも先祖が800年住んできたここを私たちが訪れたことは、きっと喜んでくれているだろうと思っています。

 

 

 

 

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