2022年2月13日 (日)

Visiting a Place:伊豆の国 願成就院

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Ganjyojyu-in            Jan.30.2022

 かねてから訪れて見たかった静岡の伊豆の国市にある願成就院に先日行ってきました。

寺の創建は、奈良時代と伝えられていますが、鎌倉時代、文治五年(1189年)に北条時政が真言宗のお寺として建立しました。北条義時、泰時と3代に渡って堂塔、庭園を整備していきました。

お堂は守山という標高 100mの山を背後に建てられています。奥の御堂は昭和30年(1955年)に建てられたもの。

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お寺のパンフレットによりますと、『その伽藍構成は、奥州平泉に藤原三代の偉業として伝えられる、中尊寺・毛越寺・無量光院の中の毛越寺を模したもので、山門を入ると大きな池があり、その池の中島にかけられた橋を渡って参詣するというもので藤原時代特有の寺院様式であった。』そうです。昨年11月に行った鎌倉の永福寺も毛越寺に影響を受けたものでしたが、こちらも同じでした。その時の記事はこちら

鎌倉から奥州征討と言って、攻め込んでいったわけですが、北条氏もその仏教文化の水準の高さに大いに感銘を受けたということでした。

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現在は、発掘調査の後は、埋め戻してあります。この辺りには、南塔があった所。

「願成就院跡」は国の史跡に指定されています。

御堂の中に模型があり、それと伊豆の国市の『北条義時がうまれた里「伊豆の国」の中世』というパンフレットの中の「発掘調査で見つかった堂跡・塔跡と池の推定位置」という図からイメージして私が描いたのが上の図です。

鎌倉時代の門の位置や池の橋の位置がお堂につながることを考えると、模型の橋の位置とは異なり、「北側に山門があったのかな。」と迷い、ここには、はっきりと描けませんでした。しかしながら、反り橋のある蓮の浮かぶ池を有した浄土式庭園が造られていたことは確かで、優雅な浄土の世界を具現化していたのです。現在、池のあった場所は住宅地になっています。

 大御堂には運慶が造仏した本尊の阿弥陀如来坐像、毘沙門天像、不動明王像、童子像二体があり、合わせて五体が国宝に指定されています。

三浦半島、横須賀市の浄楽寺の阿弥陀如来、毘沙門天、不動明王の三像と作られた時代も近く姿が似ています。こちらの仏像がとても素晴らしいので、和田義盛も運慶に造仏を頼んだと言われています。  

本尊の阿弥陀如来坐像は、室町時代、戦国時代に寺が兵火に見舞われた時に焼けたのか、表面の漆が焦げて黒くなり、剥落も激しく痛々しかったです。螺髪も前頭部周辺が欠けており、眼が後世に修復されたということなので、顔の前面に倒れる、もしくは何かがあたる等、衝撃があったのではないかと思いました。

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帰ってから、運慶特有の仏像が持つ眼の力を感じさせる表現について、詳しく見てみました。

上の図は瀬谷 貴之著『運慶と鎌倉仏像』平凡社刊 コロナブックスの2体の仏像の横顔の写真をトレースしたものです。

左側の願成就院の阿弥陀如来は 右の浄楽寺の阿弥陀如来像の横顔と比較(真ん中に両方を重ねた図)してみると、上下の瞼のふくらみや眼の開き具合、鼻の形、口のつき出し方等、違いがありました。浄楽寺の方が彫りが深いお顔。

眼球の入った瞼のふくらみをも表現する運慶は、解剖学的にも人間の体について理解しており、それを木彫りの仏像に表すことができる本当の天才であったことを改めて確認しました。

「東洋のミケランジェロ」と私は思っています。

願成就院の阿弥陀如来像の修復は、もしかしたら、元の目鼻の位置から掘り下げて彫ったものではないか、と思いました。

 奥の収蔵館に政子地蔵像がありました。こちらも印象に残った仏像で、大変端正な美しい顔立ちでした。政子の七回忌に奉納された仏像でこれも運慶では、と思って調べてみると、運慶はその頃は、亡くなっていました。

家にある運慶の本を見てみると、政子地蔵像と似ている仏像を運慶の父の康慶が静岡の瑞林寺に、運慶も京都の六波羅蜜寺に作っていました。

慶派という工房の中で、微妙に作風はそれぞれ違うことは、わかっていましたが、スタンダードな形は、正確に技術が代々伝えられていることに改めて気付きました。

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守山に登ってみました。この日はあいにく富士山は見えませんでしたが、末広がりな富士山を望むこの土地から、北条氏が鎌倉幕府を束ねる役割を果たそうとしたことがわかったような気がしました。

 

 

 

 

 

 

 

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2022年1月17日 (月)

Visiting a place : 永福寺跡と毛越寺庭園

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Yofuku-ji        Amida-do                                 Nov.30.2021

 昨年、鎌倉でまだ行ったことがない場所や確認したい場所など、歩き回ってきました。

こちらは、源頼朝が奥州 藤原氏を攻めた文治5年(1189年)、平泉の寺院群を見て、鎌倉から帰ってすぐに造営にとりかかったという永福寺があった場所。今は、鎌倉には珍しい広い公園のような場所になっていますが、ここに鎌倉では初めてだった2階建てのお堂があったり、その本尊を運慶が造仏した等、現存していたなら、きっと素晴らしいものだったのだろうと言われている場所です。

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昭和56年(1981年)より発掘がすすめられ、柱の跡や石組、池などからその全様がわかってきました。現在は、木で組まれた基壇や池、石組等の位置がわかるように整備されています。看板に再現化したCG図が載っていました。手前が阿弥陀堂、真ん中が2層の二階堂、奥が薬師堂。

両脇に翼廊といい屋根のついた廊下が池に向かって伸びた釣殿があり、ここから釣糸を垂らしていたのかと考えたら、なんだかお茶目な鎌倉武士、と思って笑いながら見ていました。

歩きながら、2011年8月に訪れた岩手県平泉の毛越寺の遺構を思い出しました。岩手の出身の亡き父が震災の後、自分の故郷を孫たちに「今だからこそ見せたい。」と東北の津波被害を受けた海岸部をまわった最後に平泉を訪れた旅でした。父の姓は藤原。私は子どもの時から平泉を訪れるとその美しさと敗れた寂しさを感じたものでした。まさに芭蕉の句の「兵たちが夢の後」

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毛越寺庭園 Motsu-ji          Aug.15.2011

毛越寺遺跡も大きな池をまわり、お堂の柱の礎石を見ながら、「どんな、お堂だったのだろう。」とイメージしながら一回りしたのです。

お堂の背後には山がある位置。関山。

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毛越寺の再現図の看板 反り橋を渡ると、浄土の世界。薬師如来を本尊としていました。

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毛越寺遣水             Aug.15.2011

上の写真は毛越寺庭園の遣水遺構。お堂の右斜め背後から川の流れを作り池に流れ込む部分。

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永福寺遣水              Nov.30.2021

永福寺も同じように石が置かれ、遣水としていた石組が残っており、ここを見ても毛越寺庭園を思い出しました。

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毛越寺庭園 池 立岩      Aug.15.2011

震災の後の傾きを補強していた立岩。

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永福寺の池の中島の立岩の石組の写真看板     Nov.30.2021

永福寺の池にあった石組は、発掘された後、また埋め戻されていますが、上の写真のような大きな石が組んであったようです。

 

頼朝は、文治5年(1189年)義経をかくまったことから奥州攻めに出向き、藤原氏の四代泰衡の首を取り、陣ケ岡という場所で戦を終わらせました。その後、頼朝は平泉に入り、藤原氏が仏国土という浄土の世界をこの世に作るという願いを表していった平泉の地の荘厳な美しさに圧倒されたそうです。

奥州藤原氏の祖清衡は、東北の地が300年にも渡る度重なる戦いで多く命が奪われてきたことを憂い、その鎮魂のための仏教寺院の造営と平和の国を作りたいという願いのもと仏教を積極的に取り入れていきました。

陸奥の国は、金の産出、馬、漆の生産等により莫大な富を背景に比叡山 延暦寺を直接のモデルとして中尊寺は伽藍が配置され、その頃、珍しい二階建ての大長寿院という寺院もありました。頼朝はそれを目にして、永福寺の本堂を二階建てにしたいと思ったようです。

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戦いには勝ったけれども、頼朝はその奥州藤原氏の目指した仏国土の崇高な世界に精神的には強く影響を受け、鎌倉に帰ってすぐに自分が行ってきた戦いの犠牲になった人たちへの鎮魂の思いも込めて永福寺建立を進めていったようです。

頼朝が永福寺を建てようとした時から60年経過し、修復をする話があったことを書いた『吾妻鏡 宝治二年(1248年)二月五日』には永福寺について頼朝の気持ちについて書かれており、『朝敵ではなく、宿敵(源氏の先代たちが、何度も東北の地(陸奥の国)で戦いを挑んできたこと)によって、滅ぼした義経や泰衡の怨霊を鎮めるため、その年(1198年)造営をはじめた寺院である。」とあります。

これは、頼朝が亡くなったあとの吾妻鏡の記述ですが、頼朝の奥州攻めの後の苦い思いにより、永福寺は、建てられたことが記録に残っています。

藤原泰衡の首桶の中に五郎沼に咲いていた蓮の花をたむけたと伝わり、中尊寺金堂に安置されていたものが、昭和25年(1950年)の発掘調査の際、種として発見されました。

平成5年(1993年)に発芽に成功。800年後、種より開花し、平成31年(2019年)、それを平泉から鎌倉に贈ったそうです。

2021年3月から「永福寺でも蓮の花が咲いた。」というニュースを以前、耳にしました。

 

すごい歴史ロマン。時を越えて、清衡が思い描いた平和な世界が現代にも広がっていると思いました。敵味方の別なく、蓮の花を愛でる世界。

 

参考文献:中尊寺図録

    :『仏都鎌倉の百五十年』 今井雅榛著 吉川弘文館

    :『図説 日本庭園のみかた』 宮元健次著 学芸出版社

 

 

 

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2021年2月23日 (火)

Visiting a place : みさきめぐり

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城ヶ島 相模湾を隔てて、うっすら富士山を望む

春の海を見に三浦半島に行きました。先週から、明らかに空気が春めいてきています。

白波がしぶきを上げ、岩礁にぶつかるのを見ながら、元気をもらってきました。

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いつも、城ケ島からの日の出を見たりして、早朝に三浦半島に行くので、その後は、三崎へ行き、朝ごはん。私は、「三浦丼」というマグロや釜揚げシラス、三浦のお野菜の天ぷらがのった丼ぶりをいただくのが定番。

この日は、ふらりと出かけ、その後は無計画。三崎の町を歩いてみることにしました。

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海南神社 相州三浦鎮守

まずは、海南神社に参拝させていただきました。この日は、祈年祭が行われていました。境内を歩くと、和田義盛が弁財天を祀ったお社がありました。本殿の右脇に鳥居があり、階段を上って参拝しました。

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これは、パンフレットにのっていた江戸時代の俯瞰図。この絵を見ると、神社の敷地内の建物や太鼓橋、イチョウなどの樹木などの位置関係は現在とまったく一緒。参拝した、弁財天のお社も描かれていました。

大きく違うことは、海岸線。絵の右上の部分の薄く横線で描かれている部分が海なのです。

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海南神社の北東の高台に位置する光念寺にも行ってみました。実は、そのお隣の正瑞寺が源頼朝の桜の御所と呼ばれる別荘の跡地であることを知り、そちらを目指して、高台を歩いていましたが、迷いながらこちらの門前に先につきました。お寺の門をくぐらなかったのですが、眺めが素晴らし場所でした。

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この日は、ぽかぽかした陽気で、城ケ島との間の水道とはるかに見える太平洋の水面がきらきらしていていました。とても気持ちの良い景色でした。

家に帰ってから、「あのお寺は、なんていうお寺さんかしら?」と調べるとなんど和田義盛が建てた浄土宗のお寺でした。自分の無知を恥じながら、「そういえば・・・『三浦半島に義盛が七阿弥陀堂を作った。』」という浄楽寺さんで聞いた話を思い出し、、調べるとここがその阿弥陀堂の一つであったことが分かりました。

これはもう、ご先祖様が導いてくれたとしか・・・!

現在、城ケ島との間には、橋が掛けられ、海岸線は埋め立てられて、民家や商店が並んでいますが、さきほどの江戸の図からイメージすると、風光明媚な海景色が見えた場所だったのです。

義盛も立ったであろうこの場所からみた景色を私も追体験できたことは、今回の訪問の最も印象に残る経験となりました。

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階段を下りて町中を歩くと、海をイメージした仕上げの建物がいろいろありました。これは、大漁旗を作る三富染物屋さんの壁面。青海波のような模様が左官で作られていたり、

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ロープで編んだ、車止め。いいなー

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地元の砂岩、凝灰岩でしょか、ブロックにして積んだ塀 ⇒あとからわかったこと・・・佐島石という凝灰質砂岩のよう。横須賀市佐島から切り出された。コンクリートブロックが使われるようになるまで、石は切り出されていた。昭和20年まで。

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漆喰に藍を混ぜたのかな、と思った蔵作りの建物。2階の緑青を吹いた手の込んだ雨戸の模様も波に見える。

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そして、港に面した船具屋さん。プロ向けショップ。水色のペンキの建具や外装が海の色。

三崎の町中には、現代の建物もありますが、古い建物も所々残っており、日本の大きな町が空襲で破壊され、同じ時代の建物しか見られない町に比べ、いろいろと懐かしい気持ちになる町並みでした。

この後、大好きな三浦の野菜を買って、満足満足の一日でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2020年2月11日 (火)

Visiting a place : 高知 和田城址

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   Sameura dam                                        Aug.2018

2018年 高知県早明浦ダム周辺 土佐町和田に行ってきました。子どもの頃から、母から聞いていた「高知の山奥」という祖父の出身の場所。

早明浦ダムという名前は、中四国地方の天気予報でよく降雨量が多いことで地名が出る場所で、まさかこの場所に自分が縁があったことをここ最近知ったという次第。1975年、ダムが作られたためにこの谷にあった周辺の村は水没となったそうです。

その村々には、和田を姓とする家々が多く、鎌倉時代よりここに移り住んできたということです。自動車で前日より、高知に入っていましたが、高速道は雨のため通行止め、吉野川沿いの急流沿いの国道を上っていきましたが、かなり山深い場所。皆を連れて歩いて入っていったことを考えると、追っ手が絶対来ないような場所としてここに来たことがわかりました。香川県の現在豊浜町 和田浜という場所に一時、一族が住んでいたところを攻められ、さらに高知の山奥のこの場所まで移り住んだという話が石碑に刻んであります。城のあった場所は、東西に尾根が連なる場所で、南側の斜面は絶壁、北側が針葉樹林の山林。

和田合戦の後の『吾妻鏡』にも「和田の残党」という箇所があり、各地に散らばった和田一族が北条にとっても脅威であったことが書かれてありました。

今も地名にも和田という場所が残っていますが、高知県は和田さんが特に多い土地だそうです。

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ダム湖の南側の山の上にあったという和田城址と墓所や神社が目的地。急斜面の林道を車で上っていきました。インターネットのサイトで見つけ、どんなところか何度もイメージしていた場所。小学校の建物が見えました。

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この看板も訪れるのに参考にさせてもらった方の記事に載っていた看板。あった!

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あった!山林を和田家が寄付して整備している場所に石碑がありました。整地され、車も止められるようにしてありました。家紋は、三浦半島和田氏と同じ。母の家の紋。母も何度か墓参りに高知には行ったことや従妹のお兄さんの名前を寄進者の石碑から見つけ、「この人知ってる!」等、ここでしか出ない話も聞けて、やはりこの土地に住んでいたのだと改めて感じました。

この先、和田若狭の守の墓などがある神社がありました。ここの築城主は、和田義直とされています。そして、墓には「若狭守和田の墓」と彫られています。義直が若狭の守をしていた時があったのか、調べてもインターネットでは現時点ではわかりませんでした。

ただ、福井県に「若狭和田市」は現存し、記録の中で鎌倉時代北条氏が守護を務めた記録は、出てきました。

ということは、素人の推測ですが、1213年の和田合戦以前の守護を和田が務めており、和田氏が鎌倉を出たあと、北条氏が担当したのでは、と考えたりしています。どなたか教えてください。

鎌倉においても和田の領地を和田合戦後、北条氏が自分の領地にしています。

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そして、気になっていた和田に代々伝わるという刀の石碑もありました。

「幻の刀剣」というサイトに行方不明として載っていた和田義直が持っていたという刀、素人ですが、「これなんではないかな~?」と勝手に思っているもの。直刀なのです。

山の稜線にあったという西の城跡にも行ってみました。右側に早明浦ダムがある位置関係。

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そして、吉野川源流の神をも祀っている子安神社がありました。想像していたより大きな神舎でした。

さすがに降雨量の多い場所なので、社の材の傷みが気になりました。大きな避雷針も立っており、湿った空気がこの辺りの山にぶつかって雨となる四国の山の中の様相は、しっかりと肌で感じることができました。

祖父は林業の勉強をするために明治時代 札幌農学校に行きました。

この地には、戻ることはありませんでした。でも先祖が800年住んできたここを私たちが訪れたことは、きっと喜んでくれているだろうと思っています。

 

 

 

 

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