Visiting a place : 高知 和田城址
Sameura dam Aug.2018
2018年 高知県早明浦ダム周辺 土佐町和田に行ってきました。子どもの頃から、母から聞いていた「高知の山奥」という祖父の出身の場所。
早明浦ダムという名前は、中四国地方の天気予報でよく降雨量が多いことで地名が出る場所で、まさかこの場所に自分が縁があったことをここ最近知ったという次第。1975年、ダムが作られたためにこの谷にあった周辺の村は水没となったそうです。
その村々には、和田を姓とする家々が多く、鎌倉時代よりここに移り住んできたということです。自動車で前日より、高知に入っていましたが、高速道は雨のため通行止め、吉野川沿いの急流沿いの国道を上っていきましたが、かなり山深い場所。皆を連れて歩いて入っていったことを考えると、追っ手が絶対来ないような場所としてここに来たことがわかりました。香川県の現在豊浜町 和田浜という場所に一時、一族が住んでいたところを攻められ、さらに高知の山奥のこの場所まで移り住んだという話が石碑に刻んであります。城のあった場所は、東西に尾根が連なる場所で、南側の斜面は絶壁、北側が針葉樹林の山林。
和田合戦の後の『吾妻鏡』にも「和田の残党」という箇所があり、各地に散らばった和田一族が北条にとっても脅威であったことが書かれてありました。
今も地名にも和田という場所が残っていますが、高知県は和田さんが特に多い土地だそうです。
ダム湖の南側の山の上にあったという和田城址と墓所や神社が目的地。急斜面の林道を車で上っていきました。インターネットのサイトで見つけ、どんなところか何度もイメージしていた場所。小学校の建物が見えました。
この看板も訪れるのに参考にさせてもらった方の記事に載っていた看板。あった!
あった!山林を和田家が寄付して整備している場所に石碑がありました。整地され、車も止められるようにしてありました。家紋は、三浦半島和田氏と同じ。母の家の紋。母も何度か墓参りに高知には行ったことや従妹のお兄さんの名前を寄進者の石碑から見つけ、「この人知ってる!」等、ここでしか出ない話も聞けて、やはりこの土地に住んでいたのだと改めて感じました。
この先、和田若狭の守の墓などがある神社がありました。ここの築城主は、和田義直とされています。そして、墓には「若狭守和田の墓」と彫られています。義直が若狭の守をしていた時があったのか、調べてもインターネットでは現時点ではわかりませんでした。
ただ、福井県に「若狭和田市」は現存し、記録の中で鎌倉時代北条氏が守護を務めた記録は、出てきました。
ということは、素人の推測ですが、1213年の和田合戦以前の守護を和田が務めており、和田氏が鎌倉を出たあと、北条氏が担当したのでは、と考えたりしています。どなたか教えてください。
鎌倉においても和田の領地を和田合戦後、北条氏が自分の領地にしています。
そして、気になっていた和田に代々伝わるという刀の石碑もありました。
「幻の刀剣」というサイトに行方不明として載っていた和田義直が持っていたという刀、素人ですが、「これなんではないかな~?」と勝手に思っているもの。直刀なのです。
山の稜線にあったという西の城跡にも行ってみました。右側に早明浦ダムがある位置関係。
そして、吉野川源流の神をも祀っている子安神社がありました。想像していたより大きな神舎でした。
さすがに降雨量の多い場所なので、社の材の傷みが気になりました。大きな避雷針も立っており、湿った空気がこの辺りの山にぶつかって雨となる四国の山の中の様相は、しっかりと肌で感じることができました。
祖父は林業の勉強をするために明治時代 札幌農学校に行きました。
この地には、戻ることはありませんでした。でも先祖が800年住んできたここを私たちが訪れたことは、きっと喜んでくれているだろうと思っています。
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