2017年12月13日 (水)

About An Artist : Ryuichi Sakamoto "IS YOUR TIME"

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 12月9日(土)から新宿 オペラシティーのNTT インターコミュニケーション センター(ICC)で始った坂本龍一氏と高谷史朗氏による『設置音楽 2』を初日、聴きに行った。この日は、午後3時からトークショウもあるということで、朝早く出かけ、整理券をもらって、お話も聞きました。

会場は、昔、ICCが始まったころに、Media Artsなるものは、なんぞやとよちよちの子どもを連れて行ったことがあった。開館20周年ということで、息子も今や23歳。ひと昔経ったともいえる。

今回、お話を聞く前に作品を鑑賞させてもらった。坂本氏の音楽がICCならではの体験型アートになっていた。

トークの中で、具体的な説明を聞けたので、印象に残ったことをトークからの説明も加えて書き残したいと思う。

設置された空間は、高校の文化祭のような、暗室へと続いていた。縦長の空間(トークで25mという話が出たが、縦の長さか、横の幅なのか分からないが)の両脇にスピーカー14台の上にディスプレーが積まれ、並んでいた。いろいろな音が流れ、倍音が響いたり、鳥の声が聞こえたり・・・・オルガンの音が聴こえ、教会に行ったような感じだ。今年、出されたアルバム『async』の中で聴いたような音が聴こえ、突き当りには、ライトに照らされたグランドピアノの鍵盤がこちらを向いていた。

いきなり、祭壇のようなピアノに近づくのには、ずかずかし過ぎる気持ちだったので、ちょうど真ん中あたりに立ち止まって、暗闇に自分をならしながら、音楽を耳を傾けた。

グラス ハープのような音が重なり、倍音が生まれる心地良さに身をゆだねながら、様々な音の流れに耳を傾ける。ディスプレーの光は、目をつむると、太陽の光のようにも感じるほどの強弱もあり、音と同期して光を放っていた。

会場の床に座り込み、腰を据えて聞くことにした。すると、時々、ピアノがポーンと音を奏でる。調子が明らかにくるっている。けれど、スピーカーからの音は、すべて録音されたものなので、ピアノ自身から発せられる音は唯一、「生きている音」として、耳に響いた。つかみどころのない音の波の中で、確実な音を響かせ、心の拠り所のような存在感を持っていた。

誰もいないので、坂本氏が事前に弾いたものを自動演奏させているのかな、と思っていたら、トークで聞くと、違った。

そのピアノの音は、最近1カ月の世界で起きた地震を感知したものを圧縮したもので、地震が起きると、ピアノの上に設置された金属製の棒が下降し、鍵盤を鳴らすという仕組みをYAMAHAに協力してもらって、作ったということだった。

つまり、人為的に音楽に合わせて、ピアノの音を鳴らすというのではなく、地震の発生のタイミングを音に変えているという設定となっていた。

ひとしきり,聴いてやっとピアノに近づいた。震災で水に使ったというピアノだった。中を見ると、泥がついたままで、ピアノ線がピンピン切れていた。鍵盤を鳴らす仕組みもじっと見ていた。自動演奏の装置なんかではなく、鍵盤の上に櫓のようなもの作り、そこに鍵盤をたたく棒がたくさんつけられていた。

再び、オルガンの音が聴こえたので、一巡したな、と思い、会場を出た。一時間ちょっとぐらいであった。

聴いている間、バリエーションがいろいろあったので、聞き続けたいと思って、座り続けていた。普段の美術館のインスタレーションならば、こんなに長くは滞在しないだろう。映像や音を使った作品も今、いろいろあるが、一時間もその場を離れない作品は、たぶん、今までになかった。

音の速さのこと等、技術的な工夫について、トークで語られていたが、素地がほとんどないので、???と思いながら、聞いていたが、あの空間に合ったセッティングを調整し、設置したということだった。

また、トークでも語られていたが、やはり、教会をイメージしたというような設定だそうだ。両脇のスピーカーの列は側廊の列柱のようにも設定したようだ。

ピアノに関しては、映画『CODA』でも語られていた言葉、「津波という自然現象にさらされ、人が作ったものの多くが、自然の姿に帰っていった。ピアノも自然が調律したのだ・・・。」という坂本氏のとらえ方が印象に残った。現実に被害の状況を目の当たりにして、このアンバランスにも思える状況を別の見方からとらえていた。

あのピアノを二度と鳴らないピアノではなく、もう一度、音を奏でるようにしたのだ。私たちがその音を聞くことは、震災のことを思い出し、亡くなった方への祈りの気持ちにつながっていく。


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2017年11月30日 (木)

About An Artist : Tadao Ando : 水の教会

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 安藤忠雄氏設計による北海道にある水の教会。25年前、ここで結婚式をあげた。安藤建築が自分の住まいになることは、たぶん、残された人生の長さを考えると、ないと思う。けれど、この日だけは、これからの自分の人生のためにこの建築物があり、ここで式をあげることができたことを幸いであると思った。今でも、その思いは変わらない。

教会というと、シンメトリーな配置に設計されるのが、普通。また、祭壇には、当然、十字架が据えられるが、その向こうは、壁面となる。人が集まるための広い空間に始まり、そこに行けば天国を感じることのできる美しさを体験できる空間が作られてきた。それには、ヨーロッパに多く産する白亜紀に作られた加工しやすい石灰岩やそれがマグマの熱におって変成した大理石が使われた。それを積むという建築方法を基本に教会の建築は技術が進歩していった。

安藤建築のコンクリート造の教会建築は、それらの枠をいったん取り払い、新たな軸組工法による自由な発想の教会建築を実現させている。安藤さんがル・コルビジェが1955年に設計したロンシャン聖堂に若い頃に訪れた時、その当時、安藤さんが持っていた建築の常識を完全に覆すような自由な表現の可能性に気付く体験をしたそうだ。

このような旅の体験、本物に触れ、自分で得た感動が安藤さんのその後の仕事に大きく影響を与えているようだ。

アニミズムを信仰のベースにしていた日本人にとってのキリスト教のための教会建築に祭壇方向に空、山並みと樹木、水という景観を取り込んだ水の教会は、私たちの心にもすっとなじむ教会建築を提案した形となった。

私自身は、これがきっかけで安藤建築への興味がスタートとなった。

式が始まると、祭壇側の大きな一枚ガラスが右側にスライドしていった。これは、知らなかったので、私も皆もびっくりした。

涙で胸が詰まりそうな時間であったが、窓が開いて、外から風が吹き込んでくると、気持ちが一気に軽くなった。

おまけにかわいいチョウチョも飛んできて、なんと、私の頭につけていた花飾りの上にちょうど、とまったようだ。

家族がそれをじっと見ていたらしく、式後、「チョウチョがとまったんだよね~!」と口々に言っていた。ちょっとしたハプニングがとても楽しかったらしく、今でもその話は、思い出の一ページとなって、母が子どもたちにも話している。

あれ以来、一度も訪れてはないのだが、今回の展覧会で、水の教会の平面図やドローイングのリトグラフを見ることができた。前日に牧師さんと話をした部屋はこうなっていたのか、なんて新発見しながら見ることが出来た。

新たなスタートを自然に誓ったという思いが今でもある。


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2017年11月17日 (金)

About An Artist : Tadao Ando ゛Endeavor"

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Added Ando's Drawing in this exhibition's catalog

先日の日曜日、安藤忠雄氏の展覧会に六本木 国立新美術館に行ってきた。安藤さんの設計した水の教会で結婚式をあげてから、25年。それから、前向きな姿勢に私自身も影響されて、チャレンジすることに勇気をいただいたと改めて思う。私が最も、すごいなと思ってきたのは、夢を現実にするパワーだ。

それが、一番表れているところは、安藤さん自身だ。経歴の最初に必ず、書かれているところ。『独学で建築を学んだ。』ここだ。簡単な一文で表されているが、この言葉の裏の壮大な夢と努力に人として、敬意を払わずにはいられない。

『信ずれば、道は開ける。』と身を持って、教えてくれた方である。

実際に、お会いしたことはないが、NHKのドキュメンタリー番組や人間講座、若者との対談、書籍等で人柄を知り、大阪弁で、はっきりと話をすすめていく安藤節に勇気づけられ、すっかりファンになっていた。

今回の展覧会は、一番大きな展示場が使用され、今までの数々の建築作品のためのスケッチ、設計図、模型、写真、映像がテーマごとに並べらてれいた。美術館中庭には、光の教会の原寸 模型が作られていて、そこに入ると、都会であることを忘れ、私も周りの人々も、暗闇からもれる光の十字架を見ながら、しーんとして敬虔な気持ちになっていた。

サプライズだったのは、展示台や壁には、安藤さんが当時の現場の解決するべき点を考えながら、考えていたイメージ スケッチがマーカーでさらさらっと描かれていたところ。今でも、一つひとつの作品が昨日のことのように思い出されるのだろうな、と思った。描きながら、ベストな形、アイディアを探し続けた思索の片鱗を見せてもらったようだった。上の写真の今回の展覧会カタログの直筆サインとスケッチにも驚いた。ありがとうございます。

壁に描かれた安藤さん直筆スケッチを見ながら、「美術館は、これは捨てられないな~!」と思っていると、今年の夏訪れた直島のスケッチもあった。

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View from Chicyu arts museum                           Aug,2.2.2017

 1992年に開館した安藤忠雄氏設計による直島のベネッセハウスをはじめとする一帯の建築物を小豆島に一泊してから高松港から入って、めぐった。撮影は禁止なので、敷地から見える瀬戸内海が上の写真だ。これは、地中美術館からのもの。

水の教会もそうであったが、地中美術館にいると、自分が今どこにいるのか、わからなくなった。単に方向音痴だから、ということではなく、通常の箱状の建築物にならされているため、壁が斜めに立ちはだかっている空間や斜めに下がっていくスロープ等、あれれ、どこに行くの?という感じだった。

暗い通路を迷うような気持で歩いていると、急に空がパアーと広がって現われたり、開放感のある大きな窓から景色がドーンと表れる。そういった、ドラマチックな演出が安藤さんの建築にはある。子どもの頃見た、白昼夢のような、ありえないような空間が実在し、確かに自分がそこにいる不思議な感覚を経験した。

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At the pond near Chichu art museum Aug.2.2.2017


建物だけでもおもしろいが、展示作品、クロード・モネの『睡蓮』は、室内の展示室では見られない絵の具の輝き、特に、紫色の絵の具が非常に美しく見えた。天窓による拡散光により、久しぶりにモネを見たという気持ちになった。25年前、パリのオランジェリー美術館でみた2室の楕円形の部屋の壁面にはめ込まれたモネの睡蓮の連作の感動を思い出した。オランジェリーの天窓は、モネの提案によって作られたそうだ。やはり、外光の元で描いた印象派は、自然光の効果が分かっていたのだ。等々、展示作品にも浸りながら、時々、遠くの海の色や空の青を見ながら、優雅な一日を過ごした。外国人観光客もたくさん訪れていた。夕飯時には実家に着きたいので、島を離れることにした。

岡山の宇野港へ向かうフェリーに乗った。大して、スピードも出さずに、島沿いに船は走った。

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Naoshima 

ぼーと外を眺めていた時、この旅の最後に見た直島の姿は、痛々しく、私にどうして?と疑問を投げかけるものだった。花崗岩の島肌がむき出しになっていた。そういえば、瀬戸内海の島々を見ながら育った私にとって、美術館のまわりの植生の生育が今一つよくない感じが滞在中していた。

実家に行ってから、色々調べると、島の歴史がわかった。直島は、明治時代に精錬所を誘致し、島の産業としたが、その結果、煙害による環境汚染が進み、植物が生育できなくなってしまったのだ。

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現在、隣の豊島に不法に廃棄された阪神工業地帯からの産業廃棄物を焼却する高度な処理施設もあり、環境に害を与えない形に焼却している。今年、豊島からの最後の廃棄物が運び出された、という朝のニュースを思い出した。見えた黒い灰の山は、それだったのだ。

高度経済成長の中で、何も言わない自然環境は軽んじられてしまったのだ。私達のバランスを欠いた考え方が引き起こした結果がこのような島の姿を生みだしたと思うと、自戒の念にかられた。

安藤さんの今回の展覧会のスケッチに、「1989 Naoshima」とかかれたスケッチがあるが、最初の印象であろう、島の樹々が失われてしまった状態を「はげ山」と書き残していた。

それをクライアントとともにどうにかしたいと思い、実現させていった夢の途中が25年経過した今の直島の姿なのであった。夏以来、ずっと、アートの島として、人気を集めている直島と周辺環境のギャップに何とも言えないものを持ち続けてきたが、今回の展覧会で、解を見つけた感じがした。

自然を取り戻すのには、時間がかかる。だから、夢を描いて、一つひとつ育てよう、というのが安藤さんの頭の中にはある。建築もするけれど、木も植えるのが安藤さんだ。

だから、建物は、地中に建て、最終的には、緑に覆われた島に戻るように設計したのだった。

安藤さんは、大きな夢を描き、皆とともにその方向を示してくれた。


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2017年10月22日 (日)

About An Artist : 運慶と和田義盛

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和田海水浴場

東京国立博物館で開催中の『運慶』の展覧会。ぜひ、拝観したいと思っていたのが、神奈川県の三浦半島 横須賀市 浄楽寺にある阿弥陀如来坐像とその両脇侍立像だ。期間中10月21日より公開。鎌倉幕府 初代侍所別当を務めた和田義盛が運慶に作らせたという。

母の旧姓は和田。どこでどうつながっているのかは、本当かどうかわからないが、子どもの頃から「和田義盛」の名前は聞いていた。母も私も鎌倉から遠く離れた場所で生まれ育ったので、鎌倉、三浦半島に和田義盛ゆかりの場所がたくさん残っていることについて知らずに過ごしていた。東京にいた伯父は自分でいろいろな資料を持っていて私に話してくれたけれど、その頃の私には遠い昔の話であった。

知人の歴史好きの米国人が "Do you know Onna samurai ?" と聞いてきたので、「北条政子のことかな?」と思ってネットで調べているとどうも巴御前のよう。

巴は源義仲と戦場で別れた後、鎌倉に連れて行かれて、その身柄を和田義盛が引き取り、妻(その頃は多妻)にした・・・という話しもあることを知り、「あれれ、あの和田義盛~!」と一気に興味を持って自分で調べるようになった。ネットで調べていると、義盛の生き様は、鎌倉の歴史を調べている人々から今でも人気があるということを知り、ますます興味を持って調べていくこととなった。

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和田城址 三浦市の看板によれば、『巴御前が義盛に預けられここで余生を送った・・。』と書かれている。

それ以来、子どもの頃見た1979年のNHKの大河ドラマ『草燃ゆる』をオンデマンドで見て、和田義盛が頼朝亡き後、北条義時の謀略に耐え切れず、兵を挙げ討たれた和田合戦のシーン(総集編 第5回 尼将軍 政子)を再び見たり、江ノ電の和田塚駅の近くには、和田合戦で亡くなった人々の塚があること(地域の人が弔ってくれたもの)、若宮大路の鶴岡八幡宮に近い場所の屋敷の場所を古地図で確認し現地に行ったり、朝夷名の切り通し(義盛の三男 怪力で知られた人物)、三浦半島の浄楽寺(今回展示されている運慶仏のあるお寺)、白幡神社(義盛を祀っている)、和田城址、伝巴の塚、千葉の房総半島 和田の所領地等も数回かけて訪ねた。

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三浦半島 海岸段丘上の畑 義盛の頃より穀倉地帯。食糧が戦陣に送られた。

そこで見えてきたものは、富士山と海の見える三浦半島を拠点として船を使って海を自由に行き来し、田畑を耕し、武芸の鍛錬をし、有事に備えていた。特に弓の名手であり、源頼朝の先陣として活躍し、一族をあげて、鎌倉幕府を盛り立てていたという姿だった。

残された文献で義盛について書かれているものとして『平家物語第11巻 遠矢』に1185年 壇ノ浦の戦いにおける義盛(和田小太郎義盛)の様子が記述されていて、その短気な性格が表れていて、おもしろいことや周りの人々にも愛されていたことが伺えて興味深い。

『吾妻鏡』では、2009年に吉川弘文館から現代語訳が出版されており、1213年 5月和田合戦までの記述の中に侍所初代別当として活躍した和田義盛(和田左衛門尉義盛)の名前が随所に記録されている。

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由比ヶ浜 義盛 最後の地 現在は、鎌倉の頃よりも沖に海岸線が広がっている。

和田合戦の部分では、やるせない気持ちになって、読んだ。和田合戦の部分に『朝夷名三郎義秀〔38歳〕と数名は海辺に出て、船を出して安房国(現在の千葉県南房総)に赴いた。その軍勢は5百騎、船は六艘という。また新左衛門尉(和田)常盛〔42歳〕・・・・・・・・・・、和田新兵衛入道(朝盛)以上の大将軍六人は、戦場を逃れて逐電(逃げて行方をくらますこと)したという。』 :現代語訳 『吾妻鏡 第21 5月3日』 がある。

このことから和田義盛の末裔も各地に散らばったことが確認できるが、同じ名前が亡くなった人の中にリストアップされていたりして『吾妻鏡』の誤記も存在し、私と義盛とのつながりも可能性が出てくるが…等、望みを感じてはいるが、よくわからないので、現地調査にまた出かけたい。

和田義盛の最後は、司馬遼太郎氏が指摘した『名こそ惜しけれ』(後世に残るような恥ずかしいことをするな)の精神を貫いて、一族をあげて北条に対する抗議を形に表した形で命を落とす訳だが、多くの戦に出る中で、死に対する心構えを常に持っていたと思う。自分も多くの人の命を奪い、明日は我が身という死への不安は常に根底にはあったであろう。

そこで、阿弥陀如来造仏、お堂の建立を生前より準備していたと思われる。
運慶とは、北条時政が願成就院の造仏を頼んだことから、その対抗心から頼んだ、という話がある。それもあると思うが、1180年の南都焼き討ち後、1185年には源頼朝の絶大なる後援もあり大仏開眼供養、1195年には大仏殿完成供養が執り行われた。その間、何度も奈良に鎌倉から頼朝も和田義盛も出かけており、奈良仏師の技量についても目で見て確認していたからこそ、頼むことにもなったのであろう。

また、源頼朝も、1192年 永福寺という奥州藤原氏の作った平泉の寺院を模した寺を鎌倉に建立し、亡くなった御霊を弔う寺とし、運慶にこの寺の造仏を依頼したという。
源頼朝が父の源義朝の菩提寺として勝長寿院を作り、頼朝や政子、実朝ともこの寺に弔われたが、ここの造仏も1217年、運慶はしている。
ただ、この2つの寺院は焼失し、現在では、墓石、礎石のみ残る状態で、運慶作の仏像も今は、見ることは出来ない。しかし運慶が、源頼朝をはじめとする鎌倉の寺の造仏に関して、どれほど信頼されて仕事を行っていったかを伝えている。

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運慶が彫った浄楽寺の阿弥陀如来は、予想していた大きさよりもずっと大きく、和田義盛がこれを作ってもらって浄土の世界をイメージしていたかと思うとその願いの大きさに圧倒されるようだった。端正で静かな表情で鎮座している。

また、両脇の観音菩薩、勢至菩薩像もその姿の美しさは、静かに落ちつき、語りかけるようだった。

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不動明王は、「恐れや悪事を寄せ付けずに生きよ。」と言っているようだったし、毘沙門天は、「戦うからには、強くあれ。」と言っているようだった。

仏の顔には、和田義盛の顔の面影が入っているような気がする。運慶は、何度も和田義盛に会っているので、人柄や面影が造仏の中に入っているのでは、と思った。私の父も生前より仏師の方に頼んで、仏像を彫ってもらっていて、父の面影がその仏像の顔に入っているように思えるからだ。

浄楽寺には、2015年7月に訪問させていただいた。その時は、運慶の仏像はお彼岸のみの公開で見ることはかなわなかった。

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浄楽寺の運慶仏は、鎌倉幕府と奈良仏師運慶との強いつながりを今に残す数少ない貴重な仏像であり、五体すべてが保存状態もよいものだと思う。江戸時代に表面の金箔を修復しているそうだ。

和田合戦以降、和田の一族が鎌倉に二度と戻って来れなくなり、この義盛の阿弥陀如来を拝むことがかなわなかった。

今回やっと、義盛の残した仏像に手を合わせることが出来た。

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2017年10月16日 (月)

About An Artist : 運慶

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チラシ、ポスターで夏前から楽しみにしていた『運慶』の展覧会。先々週金曜日、上野の東京国立博物館 平成館に行ってきた。

今回、私が特に期待していたのが、このチラシの右下の赤いお顔の像。和歌山の金剛峯寺の国宝 八大童子立像の中の制多迦童子。このアングルの表情がCARPの中崎投手の九回に登板した時の投げる前の真剣な表情と「そっくり!」と思っていて、実際この目で見たかった。

会場で目にすると、イメージしていた大きさよりも二周りぐらい小さかった。また、チラシの写真とは違う方向から見ると、別の表情を見せる。不動明王像に随侍する八体の像のうち6体が運慶によって1197年頃、作られており、その中の一体。他の像もどこかの誰かのようなお顔をして、それぞれ個性があり、見ていて自然と笑みがこぼれた。

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平安遷都1300年公式記念品 せんとくん と 伐折羅(ばさら)大将 (新薬師寺蔵 復元彩色) 

家に帰って、制多迦童子のことを話していると娘と息子は、「せんとくんに似ている!」と言っていたので、2010年に奈良に行った時のお土産をゴソゴソ見つけて、「それもそうだな。」と思う。髪型や装身具など。せんとくんは、東京芸術大学 大学院 文化財の保護修復 彫刻科の教授をされている籔内左斗司氏のデザインだが、髪型や装身具に仏像の決まり事がいかされているので、現代の作品だけれど、それらしく見えている。

隣の怖いお顔と勇ましい鎧の像は、薬師如来を守る十二神将のうち一神の像。東大寺を作った聖武天皇が病気になった時に光明皇后が病が治ることを祈るために建てた新薬師寺に収められている日本最古の十二神将。8世紀のもので、塑造であるが、日本でそれまでに誰も見たことがなかった像をよく作ったものだと今更ながら、驚く。

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運慶の作品を今回、寺院を離れ、像そのものを博物館で見ると、どこからこの形を生み出したのか?と単純に考えてしまった。

像のポーズは、腰をひねりあげ、その方向の脚に重心をかけ、反対側の脚は軽く突き出すポーズが多い。動きの途中の一瞬を固定したような感じだ。金剛力士像などもこのポーズだ。この大胆なポーズが、運慶仏の魅力の一つだ。

しかし、この発想はオリジナルなのかと言えば、そうではない。その源流を考えると古代ギリシャのヘレニズム期に表れた体をS字にくねらせたポーズにつながってくる。コントラポストというが、ギリシャから直接伝えられたということではなく、インド、唐を介してこのポーズも日本まで伝えられたのだ。

また、髪型、装身具、光背を見ると、インドのヒンドゥー教の神々との関係も明らかだ。そのつながりについて、調べてみた。

仏教は、今から2500年ほど前に釈迦が始めた宗教であり、仏像は、500年後,、起源1世紀頃、アレキサンダー大王率いるギリシャ、西アジア系の工人の子孫によって、ガンダーラ地方で初めて釈迦の像が造られた。最初は釈迦の生涯を伝えた内容が主だったが、インドの中で仏教が人々に浸透していくために古代インド神話の神や悪神、鬼神さえも釈迦の教えに触れ仏教の守護神になったとして、様々な神を取り込んだ。これがインド密教であり、またヒンドゥー教とも同根とされる。大日如来は、ヴィシュヌであり、不空羂索観音は、シヴァである。ヒンドゥー教では、釈迦をビシュヌの化身として取り込んでいる。

このインド密教は、インドでは4世紀から11世紀まで続くが、1203年イスラム教徒が最後のパーラ王朝を滅ぼし、根絶された。その間、僧により、中国 長安(唐)へ経典がもたらされ、サンスクリット語からの訳が行われ、インドブームが唐でも起こったというが、844年 弾圧を受け衰退した。よって、インド、中国にはほとんど今は、残っていないという。

しかし、日本においては、奈良時代から遣唐使などにより、経典や図像がもたらされ、新しい情報が伝えられた。日本では、仏教は到来した宗派は今でも残されているものが多く、日本は密教美術の遺産を今に伝えている場所と言えるそうだ。

734年の帰国した留学僧が持ち帰ってきた経典や仏像を情報として興福寺西金堂の阿修羅像など八部衆が乾漆造で作られた。また、東大寺法華堂の執金剛神像や四天王像(現 戒壇堂蔵)も塑造により作られた。これらは、天平彫刻の完成形とされ、運慶ら鎌倉仏師へ影響を与えた。

1150年頃奈良に生まれた運慶にとって、東大寺、興福寺は日本における最先端の仏像を目にすることが出来る場所であったし、父親康慶の仕事も手伝い、造形のセンスを磨いていったのだろう。

1180年の平重衡による南都焼き討ちによる東大寺、興福寺の再建に関しては、1194年頃から慶派仏師集団として尽力し、その技術とセンスを存分に開花させていった。

また、804年に唐に行った空海や最澄、合わせて8人の僧が持ち帰った曼荼羅や燃え上がる火焔を光背とした五大明王のイメージも日本に新たに伝えられたことより、825年頃より、空海は京都の東寺講堂に大日如来を中心とする立体曼荼羅の諸像の造立を企てた。この東寺の諸像の補修を1197年、運慶は、手がけており、密教美術の持つ神秘的な造形にも触れたということだ。

このように運慶の見てきたものイメージしたものを推測しながら、どうしてあの彫刻が生まれたのかを自分なりに追いかけてみた。

今回の展覧会の中で、運慶が亡くなる7年前に作ったという大成徳明王像があったが、小さな像で壊れている部分もある像であったが、それまでの運慶の作像のすべてのエッセンスを封じ込めたようなパワーのある印象深い像であった。

参考にしたのは、

『インド神話入門』 長谷川明著 新潮社刊
『日本美術の歴史』 辻 惟雄著 東京大学出版刊 
『日本美術史』 美術出版社刊
『特別展 神奈川県立金沢文庫80年 運慶 中世密教と鎌倉幕府』図録
『興福寺中金堂再建記念特別展 運慶』図録 
『寺院と仏像のすべて』 藪中五白樹著 フジタ刊
『奈良の仏像(上)』 関根 俊一著 フジタ刊
『奈良の寺々』 西山 厚著 フジタ刊 

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2017年3月21日 (火)

About An Artist : ミュシャの想い

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NHKで放送された番組からアルフォンス・ミュシャの大きな作品『スラヴ叙事詩』を搬入しているシーンを見て、「これは絶対行かないと!」と思い、国立新美術館で始まった『ミュシャ展』に行ってきました。
6月5日(月)まで。

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ミュシャの作品は、1983年の日本での大回顧展を通じて、パリでのポスターをはじめとするリトグラフの作品群、素描とその後のチェコスロヴァキアでの祖国での作品群を見たことがありました。若い頃は、デザイナーとして活躍し、世界中の人から賞賛された後、故郷のチェコスロバキアのために勢力を傾けた作品を作っていったことがわかる展覧会でした

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その時の図録中で今回の展覧会で見ることのできる大作(6m×8m)の前にミュシャ自身が座っている写真が掲載されていました。『1919年、プラハ・カロリナムにおける《スラヴ叙事詩》連作の最初の11枚による展覧会風景』と書かれていました。

この時のミュシャは、第一次世界大戦後、オーストリアの支配を離れ、チェコスロヴァキア共和国が誕生したことを本当に喜んでいた時期だと思います。

実際本当に大きく、絵の隅々まで何が描かれているのかじっくりみることが出来ました。画面に近づくと、ミュシャの筆跡を見ることができました。

画材は、テンペラと油絵の具となっており、どう使い分けているのかとも思いました。ベースが油絵の具で細かい部分がテンペラ(顔料プラス卵黄)?

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これは、1983年の展覧会の時に《スラヴ叙事詩》の習作が展示された時のものです。これを今回の本作品と比較すると、大方の構図と色調は、ほぼ同じですが、個々の人物のポーズや細かな衣装、髪型、群像の人数や配置が微妙に変更になっていることがわかります。

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《スラヴ叙事詩》のための人物写真がたくさん撮影されたということが、NHKの番組でも紹介されていました。私が思うには、習作でミュシャがイメージした人物のポーズや衣装を仮に決定しておき、実際に村の人たち(制作していたズビロフ村)に演じてもらい、写真に撮り、制作の参考にしたという順序ではないかな、と推測します。写真に方眼に線が入っているものもあり、拡大した跡が伺えました。

1983年の図録の中にミュシャの息子さんの文章がありました。
『父にとって写真を撮る主たる目的は、ポーズだとか衣装の襞だとかをしっかり記憶しておくことにあった。…』

印象派の出現の前に写真機が発明され、形の記憶が可能になった19世紀末、画家の写真の活用法は、人それぞれの手にゆだねられたと思いますが、ミュシャは、このように利用したようです。

しかし、ミュシャの写真を見ていると、写真そのものにも人間の魅力を引き出したものが多く、今でいうなら、売れっ子写真家にもなれそうな感性を感じます。

《スラヴ叙事詩》の発想の原点には、チェコの作曲家スメタナの交響詩『わが祖国』があったことを知りました。昨晩、それを聞きながら、《スラヴ叙事詩》に描かれた場面を思い出し、ミュシャの表現した世界と一体化していくのを感じました。

ミュシャの亡くなる前年、1938年、ヒトラーは、チェコスロバキアの一部に対して領土要求し、1939年侵攻。それにより、現在のチェコは、保護領としてドイツの支配下になりました。

ミュシャは、民族意識が強い画家としてゲシュタボに連行され、4か月独房に入れられ、それが元で肺炎になり73歳で亡くなりました。《スラヴ叙事詩》の中の作品『スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い スラヴ民族復興』は、未完成の作品となってしまいましたが、ハープを持った娘さんと息子さんが描かれてあり、メッセージを次の世代に伝えているように感じました。

その後、1945年チェコスロヴァキアはソヴィエトの保護下で再建されましたが、1968年のプラハの春に対する弾圧もあり、苦しい時代を重ね、1989~1990年のビロード革命と呼ばれる共産党による独裁政権が終わりました。1993年スロヴァキアが分裂し、今のチェコに至っています。

ミュシャの描いた理想の世界は、画家一人のものではなく、チェコの人々の目指す世界観でもあったわけで、画家として自分が出来る最大限の仕事を果たしたいと作品を残したのだと思いました。

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2016年9月23日 (金)

About An Artist : 鈴木 其一の『朝顔図屏風』

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『朝顔図屏風』部分

9月10日から六本木サントリー美術館で始まった江戸後期の琳派の鈴木其一の展覧会に初日、行ってきました。其一については、名前はなんとなく知っていましたが、特にメトロポリタン美術館から借りている『朝顔図屏風』について、2012年にNHKのBS『極上美の饗宴』で紹介されて以来、「この絵の本物をいつか、見てみたいな。」と思っていました。

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"Morning Glories"   Suzuki Kiitsu    1795~1858   (178.2cm×379.8㎝) 

本物は、美しかった。菁々(其一の50歳を過ぎてからの雅号とかけて)堂々としていました。

朝顔の大きさは、一つの花が手のひらをひろげたくらい大きく、ゆったりと枝葉を伸ばしていく様子は、植物の持つ生長のエネルギーをそのまま写し取るように描かれていました。

朝顔のつぼみの一つひとつを見ると、「これから咲いていくのかな。」と期待しながら本物を見るように其一の絵にもそういった楽しみを感じることが出来ました。葉の形は三列に分かれており、琉球朝顔と言って、旺盛に近年繁殖している宿根性のものとは違う日本朝顔の特徴を確認して安心したり・・・。

展覧会では、其一作品を一堂に集めて、時代別に展示していましたが、この『朝顔図屏風』は、其一晩年の作品であり、私には其一が「これからは、自分の好きなように描こう。」としたような自由さを持った作品に感じられ、今回の作品群の中でやはり一番印象に残りました。

其一のそれまでの絵は、酒井抱一の後継者として注文主のオーダーの範囲で忠実に描こうとしたような、几帳面な少し個性を押し殺した絵のようにも思えたので、この屏風絵の前に来た時は、開放感でいっぱいになりました。

『極上 美の饗宴』の番組の中で、其一は「垣根を本作では、取っ払っている。」、ということを言っていたように記憶しています。番組を録画して2回ぐらいは見たのですが、その後、番組は消されてしまったようで、確認できず、情報が不確かなところもあると思いますが・・・。光琳の根津美術館の『燕子花図屏風』も八ツ橋(湿地に咲く燕子花を鑑賞するための板橋)を省略した大胆な構図と八ツ橋つきのメトロポリタン美術館所蔵の『八橋図屏風』が存在するように其一も本来、つる植物にあるべき構造物を大胆に省いていることを取り上げていました。

また、光琳の『燕子花図屏風』へのオマージュとしての金地に群青、緑青、胡粉を用いての朝顔図。琳派の絵師たちが先人をよく研究していたことが配色を見てもわかります。

この朝顔の岩絵の具、『極上 美の饗宴』では、「銅の成分の多い岩絵の具」と言っていたようです。調べると、藍銅鉱 アズライト。岩絵の具の名前では、岩群青と呼ばれるもののようです。朝顔の花びらの表面は、膠の量が極力少なく、岩絵の具の粒子がぎっしり定着するように三回以上も重ね塗りし、ヴェルベットのような質感を出した、と紹介していました。

そのような話も思い出しながら、じっとアップで見たり、離れて全体を見たり、「いったいこれをどこにどんな時に飾ったのかな?」とか、思いながら見ました。

現在の持ち主はアメリカ ニューヨークのメトロポリタン美術館。それ以前は、其一のパトロンであった松澤家伝来のものであったということです。きっと、朝顔の咲く夏の頃に、この屏風を立てて、宴を催したのでしょうか。

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今回、絵はがきを購入してきたのですが、実は、家にある博雅堂出版より出版された『〔おはなし名画シリーズ〕 琳派をめぐる三つの旅 〈宗達・光琳・抱一>』にも其一は、最後の方に紹介されています。

やはり、本物は、大きさも質感も全然違いますし、ましてやニューヨークに一体いつ行けるかも私の残された人生の中で疑問なので、今回の展覧会は、非常に満足しています。Recommend !!! です。

それから、ジョージア・オキーフの朝顔のアップの絵も思い出した。いつこの朝顔の絵がニューヨークに渡ったのか確認できませんが、オキーフもニューヨークで見ていたような気がしました。

【追記】

他の方のブログ記事を読んでいたら、この『朝顔図屏風』の構図が『風神雷神図屏風』と似ている、という話がありました。
家の中で、買ってきた絵葉書を飾っていたら、その意味がわかってきた。

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これは、博雅堂出版の『琳派をめぐる三つの旅』の中の図版と『朝顔図屏風』を比較に置いたもの。
其一の朝顔の枝の動きと図版上から3番目の抱一の雲の流れが似ています。偶然というよりも明らかに右隻、左隻とも動きが同じところがいくつかあることを確認できます。

また、画面の切り方ですが、これは、図版一番上の俵屋宗達のものと似ています。2番目の尾形光琳、3番目の酒井抱一は、風神、雷神ともの屏風の中に収めています。

この違いについては、宗達の風神、雷神の姿の切り方は、動きの激しいモチーフを一瞬、とらえたような迫力を与えているように感じます。

逆にモチーフを画面にきちんと収めることについては、人間の几帳面さ、つじつまを合わせたいという思いがあってのことだろうと思います。

画面に入れる入れないの両者が出そろったところで、鈴木其一は、宗達のモチーフの切り方、取り込み方が「いいなぁ~。」と思って、朝顔の枝の動きを上部切った形に描いたのではと思いました。

琳派の技法の集大成、そして自分も『風神雷神図』を描きたいという気持ちで描いたと思いました。

この後、時代は西欧化の明治時代へ、鈴木其一の作品がしっかりと国内で評価される間も少ない中で、この作品も渡米となったと考えました。

追記を書き終えた10月2日昼頃、今日のNHKの日曜美術館が鈴木其一であったことに気づきました。残念!

今日の朝は、TVつけないでDebbusy聴いていた!来週の再放送は見よう。

【追記二】10月9日再放送の『日曜美術館』を見ました。そして、前日10月8日に録画していた『極上 美の饗宴』も家にあり、見れました。

新たにわかったことは、アメリカに『朝顔図屏風』が渡ったのは、1954年である、ということ。
それから、鈴木其一も風神、雷神を襖絵で描いていたこと。


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2016年5月 2日 (月)

About An Artist : 若冲好み

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Paeonia suffruticosa    at Ueno Toshogu Peony Garden      Apr.30.2016

お休みなので、朝から上野の東京都美術館で行われている『若冲展』に行ってきました。お天気も良かったので、私たちと同じく気合を入れてきた方が多く、長蛇の列。一時間以上並んで、入館。丁寧に彩色された若冲の作品群が並んでいました。ここ10年ぐらい前からでしょうか(正しくは2000年に京都国立博物館での『特別展覧会 没後200年 若冲』以来、東日本大震災後のプライス コレクションの公開などTVや出版物で盛んに紹介され、それを通して知っているかのように思っていましたが、本物は、見ていなかった・・・。今回の展覧会で私もやっと、若冲自らの筆跡をゆっくり味わうことができました。

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村上隆さんが紹介されていた辻惟雄先生の『奇想の系譜』は、数年前、文庫本になっているものを入手し、読んでおりました。この1970年に出版された本での紹介も若冲について詳しく書かれており、やはりおすすめの本です。

P7160997_2Lilium 'Passion' オリエンタリス系 カノコユリより作られた系統
若冲は、カノコユリLilium speciosumを描いている。

私が育ててきた植物で若冲の描いたものと似ている植物の写真を集めてみました。

植物が好きな私が本物を見て気づいたことは、描かれた植物の品種が江戸時代でもいろいろあったのだな、ということ。特に『動植綵絵』は、斑入りの花を多く描いていました。また、一重、八重の存在する梅も八重の梅というスタンダードではない方を描いていたりして、珍種を好んで描いた趣味が伺えます。光琳の梅と言えば一重の紅、白となるところを、若冲は八重の淡いピンクの梅を取り入れたりしていた。かなりの植物通。

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Ipomoea purpurea セイヨウアサガオ 斑入り 丸葉  
若冲の描いた青の斑入りのアサガオはIpomoea nil二ホンアサガオ 葉の形が三裂 江戸時代にアサガオの突然変異種のブームがあったらしい。

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Hibiscus syriacus 八重のムクゲ 赤い斑入り 
若冲は同じアオイ科の斑入りの芙蓉(フヨウ)を描いていましたが、それも白に赤い絞り模様。

絵画のモチーフとして、スタンダードなものを入れた時と、そんでない時の差は何だろうか?視覚的には、スタンダートなものが分かりやすい色、形であり、一目でそれとわかる。=人間、何が描いてあるかとわかるとそれ以上は見ない。反対に一見、それとは思えない色、斑入りや花びらの枚数の多い珍種が描かれていると、見る人は「あれっ、これは?」と思い、背景に描かれた植物もじっと見ていく効果をもたらしているような気がしました。

本人は、本当に珍種の妙が好きで、どうせ描くならと描いたのがそもそもの動機だと思いますが、それらを描くために若冲自身も植物の手入れをしたあるいは、開花時期を熟知して、そこに写生に出かける等、園芸家のような行動(私の行動とも同じ)もかなりあったのではと思わずにはいられません。

バラもあり、一重のものは、ナニワイバラのよう。これは、牧野富太郎氏が1704年から1711年に中国から輸入されたものが、大阪で紹介されたのでナニワイバラという名前になった、と記されているようで若冲も、いろいろなものが集まってくる京都にいたので園芸文化のトレンドもキャッチしながら画題に取り入れていったことがわかります。

描かれた植物は、今でも同じようなものが市場にあり、栽培できますが、どれもセイヨウ・・・とかいう交雑種になって、日本に里帰りした植物となっています。日本の植物が若冲以降、18世紀以降、西洋に紹介され、品種改良の元になっていったわけです。鎖国状態下の日本で愛されていた時の植物の姿を留めているとも言えます。

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アオスジアゲハ                                    

これは、やっと写真に収めたアオスジアゲハです。花壇の手入れをしていた時に撮影したもの。若冲もアオスジアゲハがシャクヤクの花にとまろうとしているところを絵に描いていました。ちょうど、展覧会の帰りに寛永寺の牡丹園で若冲の絵とそっくりのリアル体験をしましたが、本当に「あれっ!」と思うほどの瞬間の出来事でした。

写真に収めるのもやっとの一瞬の昆虫の動き(鳥、小動物も含めて)や風になびく植物の姿をとらえて書き留めた若冲の観察眼と執念はすごいものだと改めて感じています。

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そんな若冲の自然を追い求める姿が伺えて、今回の若冲展は、私にとって若冲のイメージをより深めてくれるものとなりました。

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2015年11月23日 (月)

Beautiful Things : ヤドリギのペンダント ライト

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だんだん冬に近づいてきています。ずっと前に東京たてもの博物館にある三井家の邸宅に行った時に「きれいだな。」と思って写真に撮っていたライトを紹介します。

このライトは、ヤドリギの形がライトのまわりにデザインされていました。ヤドリギの実の乳白色の透明感とガラスが重なり、スーッと冬の冷気を思い出させます。

本物のヤドリギは、一度花屋さんでみかけたことがありますが、あとはイギリスのインテリア雑誌の12月号に4ページものとても美しい写真が載っていたのを、その実の美しさに溜息まじりに見とれていたのが私のヤドリギの印象。
まるでライチーの果肉のような実がなんとも不思議。今回、ブログで紹介するにあたり、調べていくと、このライトはあのルネ ラリックの作品であるということがわかり、このライトがずっと心にひっかかっていたわけがわかった気がします。ラリックのもの作りの感性はやはり素晴らしい!!

三井八郎右衛門高棟が大磯の城山荘を建てた際に使われたライトのようで、2度の移築の末、今の場所にも使われているようです。

英語でヤドリギは Mistletoe といいます。

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Viscum album                                  Jan.2008

これは、北海道のニセコ近くで撮った写真。冬に北海道をドライブしていると、こんな景色をよく見ます。車から降りて、木に登って、ヤドリギを取って、その実を直に見たい衝動にいつもなりますが、そんなことは無理。

イギリスの雑誌の文章には、ヤドリギ Mistletoe について

『ヤドリギの下でキスすることは、古代ローマの祭り Satunalia に時代を戻すと、結婚の儀式に関係している。時代を越えて、ヤドリギは奇跡的なヒーリングの力を授けるポジティブな力を持つ植物とされている。

古代GaulやCelt ケルトではドルイドの僧は、ヤドリギを一月上旬に金の鎌で木から切ると、それを受けとった人に、繁栄をもたらす「聖なる植物」として、扱っていた。』

等のヤドリギの歴史上のいわれについて紹介していました。

植物学的には、ヤドリギは、寄生植物であり、その実には毒性があるそうです。実を食べた鳥はそれをすぐに排泄します。粘性のある状態で他の木の樹皮にくっつき、栄養をもらいながら、そこで生長するようです。

木字体にはダメージを与えない。

不思議な植物ですね。また、大昔の人もその魅力に気付き、別格扱いをしてきたということが、わかり、一層、木に登って、釜でヤドリギを切りたくなってしまいました。

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2015年10月16日 (金)

About An Artist : Monet

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瀬戸内海                             Aug.10.2015

東京都美術館で開催されているマルモッタン美術館所蔵『モネ展』に行ってきました。『印象、日の出』が10月18日までの特別出展ということで、「帰ってしまう前にやはり見ておこう!」と、朝一番に行きました。本物を見たのは、初めて。

本当にきれいでした。朝もやの中にオレンジ色の光が昇ってくる静かな時間の一瞬がそこには封じ込められていました。

写真は、娘が母の家の2階から見える瀬戸内海の日の出を撮ったもの。絵を見て、この時のことを思い出しました。眠いけれど、母と娘と私で静かな日の出の時間、3人でバルコニーに手すりにつかまりながらじっと見ていました。鳥が朝の挨拶をチチ チチッと鳴く声だけが聞こえていました。

間近に、近寄って見るための列に並び、しばし、向き合った。モネのササッと描いたタッチの交差し、きらめくのを見た時、確かにモネの肉筆であるという親近感を覚えた。

モネの『印象、日の出』は、時を越え、場所を越え、私にもちゃんと日の出の頃の空気や音や色の印象を呼び覚ましてくれました。

「そこが、この絵の魅力なのだ。」と本物を見てすこーんとわかった。「それぞれの心にある日の出の印象を呼び起こす作品なのだ。」と。

モネは、写真家のようでもある。空気中の水分の量で変わる光景の一瞬の美しさをモネというフィルターを使って
キャンバスに油絵具を使って、とどめようとした。現代の描画材料に比べ、乾きにくい油絵具、迷ったらもういいと思った光景は、変化しているはずだ。それに挑み続けたモネの制作姿勢は、そう簡単に真似のできるものではない。

作品の中で最もリラックスして絵の前で幸せな気分になったのが、作品No.69の『睡蓮』。白い睡蓮が美しい深い青紫色の池に浮かんで咲いていた。水面を描くタッチと睡蓮の花、葉が水平を感じさせるのに対して、オリーブ グリーンの柳の葉陰が垂直に水面に垂れている。その縦と横の交差と色の対比が絶妙。考えてみると垂直に描ける植物は柳しかない。柳の魅力は、そこだと改めて感じた。

200×190㎝の大型画面から発せられるモネの睡蓮の世界に久しぶりにどっぷりと浸ることが出来ました。オランジェリー美術館のモネの大壁画に囲まれた時の感動をちょっぴり思い出した。

今回の展覧会の多くはジヴェルニーの家にあった作品を息子さんがマルモッタン美術館に寄贈したもので、人目に触れるとはモネ自身も思っていなかっただろうな、と思う作品もあったような気がする。

モネの眼鏡とパイプ、パレットも展示されており、とりわけ眼鏡に関しては、白内障の手術後にそれぞれの目の状態に合わせて、レンズを入れてあった。苦労してもなお、筆を置くことはなかったモネの「絵が描きたい。」という願いを伝えるものだった。

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積丹半島                                   Jan.5.2007

モネのゆかりの深い場所を静かにいつか、訪れてみたい。ノルマンディー地方のエトルタを描いた作品群は、積丹ブルーと呼ばれる美しい海の色とベージュ色の崖が美しい北海道の積丹半島の景色にも似ているし、モネの絵は、日本人である私にも、なじみのあるモチーフが多い。

父が持っていて、生前に譲ってもらった本 『パリからの小さな旅』 稲葉宏璽著には、エトルタについての文章があり、そこにモネのことが書いてあります。

『…何度もここを訪れたモネは80点以上を制作。秋になって静けさを取り戻した海岸で制作を続けていたモネの、1885年の手紙には、「エトルタにはネコの子一匹いない。ただ、モーパッサンを除いては。昨日彼を見かけた……。そして翌年、モーパッサンは「モネは対象を前に、待ち、陽光と影を見つめ、落ちていく光や通過する雲を何筆かでとらえ、……素早くキャンバスの上に置いていった。私は、彼がこうやって白い断崖の上のきらめく光が落ちていくさまをつかみ取り、この目の眩む把えようのない光の効果を、奇妙な驚くべき黄色のトーンに定着していくのを見た……。
 日の出前から夜まで、時とともに移り変わるここの風景は、まさに印象派的なのです。』

この文章を読むと、その時のことが、目に浮かぶようです。

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