2024年6月22日 (土)

About An Artist : オラファー・エリアソン

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『相互に繋がりあう瞬間が協和する周期』 Olafur Eliasson 2023

 今年3月、麻布台ヒルズギャラリーの開館記念として開催されたオラファー・エリアソンの展覧会に行ってきました。横浜トリエンナーレでも作品は見たことがあったのですが、個展としては、初めて。また2020年の東京都現代美術館での展覧会もあったのですが、日曜美術館で紹介された番組を見ただけでコロナ下ということもあり、出かけていませんでした。とにかく、「自分の目で見ておかなくちゃ。」と思いで行って来ました。

すでに展覧会は終わっていますが、麻布台ヒルズの最も高層のビル"Tower"の吹き抜け空間に常設でモビール作品が展示されていますので、興味がある方は、それをご覧になれば、彼の作品の壮大なイメージに触れることが出来ると思います。

このモビールは、合わせて4つあり、大型で自由な軌線を描き、また繋がっているという形をしています。映画で見た宇宙空間に漂う物質が軌道上に並んでいる様子にも思えます。一つひとつの多面体が隣の形とつながっているという非常によく考えられた構造なのですが、全体の動きがのびやかで頭上にあっても圧迫感がないモビールでした。

素材はリサイクルされた亜鉛で作られているそうです。亜鉛を型に入れて作った鋳造作品だと思いますが、なぜ、エリアソンが亜鉛にこだわっているのかが気になり、調べてみました。すると、亜鉛は、「沸点が低く、気化しやすい。」性質なので、大気中に最も多く存在している金属なのだそうです。人間が亜鉛を採取し使うことで工場からの排煙、車の排気ガス、摩耗したタイヤの粉塵から放出され、大気中や海洋においても有害物質となっているのだそうです。そのことをふまえ、エリアソンは、人間が亜鉛を使うことは、最終的には、人間の肺に吸われるのだということを考え、この作品に塊の形に戻すことで、人間由来の放出を少しでも減らせる、と使ったようです。

科学的な意味がしっかりあっての作品であることが分かりました。

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『呼吸のための空気』   Olafur Eliasson       2023

 展覧会で特に印象に残ったものも、亜鉛で作られたモビールの作品。今、題名の意味がようやく理解できるようになったところなのですが、会場にぶら下げられ、ゆっくり回るのだけれど、人が予想している形とは全く違う姿をにゅるにゅると見せて動くので、しばらく見ていた作品。

知っている二重螺旋構造のような形かな、と思いきや2本のパイプ状の金属が自由な曲線で渦を描きながら絡み合い、離れ、そしてどこかでつながっていて、また戻ってくる形をしていました。

床に映る影も変化して、揺らぎを感じるとてもきれいな形でした。

 最後の部屋には、エリアソンの作品がのっている本やインタビューの映像が流れていて、彼がアイスランド系のデンマーク人であり、子どもの頃から火と氷の島であるアイスランドの自然に触れる機会が多くあったことで、それを自分の作品に活かしていきたいと考えているかを語っていました。また、環境問題や社会問題に対して、彼がその時々でどうとらえ、考え、人にそれを伝えるための作品にしていくプロセスを大事にしているかも知ることができました。

彼の作品は、世界各地でその場所に合わせて考え、作られ、展示され、見る人に地球環境の貴さ、美しさを再認識させ、地球の環境の変化が危ぶまれる今、一人ひとりに問題を投げかけるアーティストとして評価されてきています。

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2024年6月17日 (月)

About An Artist : シアスタ―・ゲイツ展 アフロ民藝

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Theaster Gates AFRO-MINGEI     Mori Art Museum

 NHKの日曜美術館の展覧会の紹介コーナーで知った六本木 森美術館で開催中のシアスタ―・ゲイツの展覧会に行ってきました。

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A Heavenly Chord                                                        2022 

会場の入り口には、この作品展についての彼の序文があり、彼の考えが語られていました。ゆっくり一読して会場に入ると、彼が作った彫刻作品や壁面に飾られた立体作品、インスタレーションでその展示空間に合わせて再構成されたものがありました。よくよく見ていくと、それは、人々が踏みしめてきた床材で作られた十字架であったり、多くの人が祈りを捧げるために集った教会の椅子と讃美歌を歌うために使われたハモンド・オルガンやスピーカーであったり、彼がその時々に出会った捨てられそうなものを「意味のあるもの」として見出し、再構成した作品でした。会場の床は、この展覧会のために常滑で焼かれた微妙に焼き色が違うレンガタイルが敷き詰められていました。

 彼は、1973年、シカゴで生まれのアフリカ系アメリカ人。大学で彫刻と都市計画を学び、2004年、愛知県の常滑市で陶芸を学ぶために来日。様々な文化への理解を深める中で、特に日本の柳宗悦による民藝運動「無名の工人たちによって作られた日常的な工芸品の美しさを称える運動」が、60年代、70年代、80年代のアメリカでの ”Black is beautiful” というスローガンの元、西洋中心主義の中で自分たちのアイデンティティーであるブラック・カルチャーを自分たちが大事にしていこうとする運動と重なったといいます。それ以来、自分が陶芸の作品を作るだけではなく、今までの自分たちの文化を発掘し、再評価し再構成していくという過程を通した作品を発表しています。

彼の活動を紹介したパネル展示の中で、感心したのは、自分の作品を売ったお金で、シカゴのサウス・エンド地区の取り壊される建物を買い取り、本を収集して、本棚を作り、地域の人が集まる図書館のようなコミュニティー・スペースを作り出していったというプロジェクト。これが最初で、その後もこの地区には、少しずつ、資金を作っては、そのようにそこに住む人たちのためのスペースを作っていったそうです。

芸術がアーツと日本でも呼ばれ、テレビに映って歌う人を「アーティスト」と呼ぶようになって、何か大衆に受け、お金を稼ぎだしている人が「アーティスト」となっていることに、違和感を感じていましたが、彼の活動は、まったく違います。同じ人間として見習うべき部分がたくさんあります。いつの時代でも人間が目指してきた「人々が日々を幸せに暮らしていける世の中を作りたい。」という目標のためのアーツなのです。

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Black Library & Black Space

 展示室の天井高いっぱいまで使って作られた無垢板の本棚も、圧巻でした。思わずいいな、と思い近づくと、「自由に取って読んでいいです。」というメッセージが書かれていたので、私は、いくつか私にとって面白そうな本を、引っ張り出してみました。それは、焼き物のテクニック本で釉薬の化学的組成をレシピのようにまとめた本でした。それを見て、「釉薬の配合を変えて、焼き物を作ってみる、なんてことをやってみたいな。」なんて思ったりして、一気にまた新しい世界の扉が開かれたような気がしました。

この本は、亡くなった人の蔵書を彼が収集、保存し、彼自身もそこからヒントを得たり、多くの人に図書館のように閲覧できるようにしているコレクションでした。わざわざ、アメリカから膨大の数の本を森美術館の53階まで上げているわけですが、その昔の本は、アメリカのブラック・カルチャーを形作ってきた一翼を担うものであるし、誰かの生きていくヒントにもなった本として愛読されたもの。これから手に取る人にも何かのヒントになる可能性を持つものとして、これを保管公開し、作品として位置づけていました。

これは、まさに中国の孔子の『古きを温めて新しきを知らば、以って師となるべし』という言葉を具現化したような本棚。

 「年表」の展示では、アメリカ史と日本史の出来事と民衆の運動、工芸に関わる事項が組み合わされた形で作られた年表でした。特に印象に残ったのは、日本の民藝運動の動き、アフリカ系アメリカ人の運動の歴史が書き込まれている所。民藝運動の歴史のみをまとめた年表ではなく、ミックスさせた形で見ると、今まで自分が気づかなかったことに気付いたような気がしています。それは、今まで日本の「民藝運動」は、西欧化の反動、機械化による大量生産への警笛と考えていました。しかしそれだけではなく、日本が軍国主義に傾き、諸外国との戦争の中で両方の人間の生命が脅かされる異常な状況への反動として生まれた思想であったのではということに気付きました。きな臭い状況と時代が重なっていると思いました。戦国時代に殺伐とした戦の中、心の平安を求めるべく、真逆の文化であるわび茶を千利休が大成していったのと、同じような動き。柳らの民藝運動は美しいものを集める趣味的なものではなくて、ものを作った一人ひとりを、人間の命を大事にするという意味をも隠し込めていた運動であったのではないかと思うようになってきました。

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最後の部屋は、亡くなった常滑焼の陶芸家の方の持っていたその方の膨大な作品を保存展示した棚があり、何やら重低音のイケイケ・ビートの効いた音楽が流れ、キラキラオブジェが回る昔のディスコ (クラブ?行ったことがないけれど)のような空間でした。しかし、バー・カウンターの裏の棚には江戸時代の日本酒の徳利が天井まで並ぶ渋いコーナーになっていました。一つひとつがろくろ作りで作られ、名が筆文字で書かれていました。名もない工人の手仕事によって機能的に作られたお酒を入れるのにちょうど良い徳利の膨大なコレクションが飾られたミックス・カルチャーなこの場所は、私達自身が忘れてしまっているこの日本で懸命に生きた人々の技を今に伝えるものでした。

アーツとは本来、人が記憶をたどりながら、手を動かし、新たなものを作りだすこと。そして、それを見た人の記憶を呼び覚まし、共感を呼ぶもの。

 

 

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2023年12月 4日 (月)

About An Artist : David Hockney

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 11月5日まで東京都現代美術館で行われていた『デヴィッド・ホックニー展』に10月に行ってきました。コロナ下ですっかり美術館に行けないことに慣れてしまいましたが、この展覧会だけは「行こう。」と思っていた展覧会でした。

ホックニーを知ったのは、私が美術科の学生になった頃。図書館にあった『美術手帖』で見たのかな。そして池袋のSEIBU美術館で初めて作品を見たような気がします。

とにかくその当時、生きている人たちの作品で日本では、まだ真価が定まらないので公立の美術館はその頃は、展示していませんでした。

私は、ほぼ正方形に近い、額装もシンプル、厚みも薄い、リキテンシュタイン、ウォーホール、ホックニーなどの作品を見て、その時代の新しい作品を目の当たりにしました。学生でお金もないので図録などは、買えず、しっかり目に焼き付け、エネルギーを受け止め、うきうきして帰ったことを覚えています。それらの作品は、まだ日本で解説したものが少なく、Tom Wolfe の"THE PAINTED WORD"の日本語訳『現代美術コテンパン』(晶文社刊)や『アメリカン・アート』石崎浩一郎著(講談社現代新書刊)などがアメリカでの美術の動向を解説するもので、熟読していました。

20世紀の美術は作品だけを見ると、「なんでこうなっちゃったの?」という感じで展開していきますが、当時の背景を知ることで「なるほど。」と分かるわけですが、「だれのため?」と考えると、必ずしも「人のため」の美術ではなくなり、自分を認めてもらいたい欲求だったりします。そうなると「どうぞ、ご勝手に」と大衆からは、見られたりしていました。で30年ぐらい経ってその人たちの突っ張った作品もやっと大衆に受け入れられ、Tシャツの絵に使われたりしています。30年くらい平気で先を行っているという表現が正しいのかな。

ホックニーを初めて見た時、子どもの頃、きれいで好きだった、プールの水面に揺れる不定形の輪をつないだような光の形を作品に取り入れていたことで、「うまいな~!」なんて、思ったことを覚えています。

芝生でスプリンクラーが回っている作品も子どもの時の体験を思い出しました。水しぶきに当たって「気持ちいい!」とか。

リトグラフの作品だった思いますが、油絵の重厚さに比べ平面的で軽く、色彩は明るく、カジュアル。作品を見て「楽しい!」という気持ちを呼び起こしてくれたような作品であったことを覚えています。

そういった点で、新しく、自分の木版画やシルク・スクリーンの制作では、「何となくホックニー」的なのほほんとした作品を作ったりしました。ですから、結構、影響を受けておりました。その後、私は就職、結婚、育児に追われ、ホックニーのその後の活動は、知らなかったのですが、子どもが中学生になった時、ホックニーのコラージュの作品が資料集に取り上げられていて、作風が変わったことを知りました。一枚の写真のように人間は空間を把握していない、絶えずあちこち、視点を動かして、空間を私達は把握している、だから、こんな作品を作ってみました、というような実験的なコラージュ作品でした。

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2017年 大英博物館で行われた"Hokusai : Beyond the Great Wave" という北斎の展覧会に合わせて撮影されたドキュメンタリー映画にホックニーは、解説者のように出演。彼自身が北斎のことを画家の視点で語っていました。そこで日本の美術にも精通し研究熱心な人であることを知り、より尊敬するようになりました。

そして今回の作品展で、ホックニーが人生をかけて研究している「人は空間を平面にどう表現してきたか、またその新しい方法とは?」をまた見させてもらえ、実りの多い展覧会でした。

ちょっと、じわっと感動したのは、ホックニーがお母さんの肖像画を描いた『My Parents』という作品でした。自分も学生時代、何をキャンバスに描くか悩んだ挙句、家族一人ひとりをスケッチし、それを組み合わせて油彩画にしました。その時の気持ちは、「これ以上ない感謝の気持ち」からでした。

ですから、ホックニーが両親の肖像画を一世を風靡したロサンゼルスの作品群の後に描いていたことに自分の最も大事な家族の絵を愛情を持って描いていたことにとても人間的なものを感じました。

また、9つのカメラを車に乗せて微妙に視点と視線が違う同時撮影の道沿いの森を写した動画のコラージュ4作品は、自分がその道を本当に散歩をしているように感じさせてくれました。鳥のさえずりで樹の上の方を眺めたり、光に透ける葉の輝きを眺めたりしながら、あちこち視点をずらしながら、人が五感で空間を感じる気持ちよさを疑似体験しているようで、「またもやうまいことをするな!」と会場で笑ってしまいました。

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ホックニーの「水」の表現への探求も印象に残りました。1971年に日本に訪れた時の感想が載った本が会場の一角にありました。そこに『(その当時の日本の風景が浮世絵に描かれていた)イメージした景色とは違って(工場が立ち並び)、がっかりした。』というような記述があるのですが、『それでも日本の絵の水の表現方法は、素晴らしいものがある。」と書いてあり、ホックニー自身も「水」の表現、プール、スプリンクラー、雨、水たまり,池などの表現に今もこだわっていることがiPadで描いた作品からも伺えました。

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渋谷のBukamuraの本屋さんが閉まる前に「この本は買っておこう!」と買い求めたホックニーの『絵画の歴史 洞窟壁画からiPadまで』は、まだ読破できていないのですが、今回また、美術館で『春はまた巡る』(いすれも青幻舎刊)を買ってしまいました。

ただでさえ、Slow readerなのに、老眼も加わりどうやって本を読もうか悩む今日この頃ですが、、ホックニーのまなざしや考えを追体験しながら、読んでいきたいと思っています。

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2023年11月26日 (日)

About An Artist : レオナール・ツグハル・フジタ

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左から『三王礼拝』『十字架降下』『受胎告知』 1927年 ひろしま美術館蔵

 ひろしま美術館にあるレオナール・フジタの絵。私が美術の学生だった頃見たフジタの最初の絵であり,作者の願いと共にひろしまの地にあると思ってきた作品。

その頃の私はフジタの名前にどうしてレオナールとつくのかわからなかった。「この人はどんな人だったのだろう?」と思いながらも絵の表現しているものが聖書のシーンであることは、自分の想像していたシーンと重なり、すっと理解できた。

とにかく細い、迷いのないすーとした墨で描かれた輪郭線。こんなに自信を持ってシンプルな線をひけるなんて!とその潔さに驚いた。それを引き立てる白い肌の色。平面的なようで、薄墨で陰影をつけている。

私の家には、集英社の大判の西洋美術全集があって、今程子どもの娯楽もなく暇なときは、一人で画集を開いては、じっと見ていた。それがあってだと思うが画家ごとのタッチや色使いを感覚的に分類できるようになっているのだが、この日本人の画家のタッチや白い肌の色は、私にとっては、逆に珍しかった。むしろ、学生時代私自身が日本美術に疎かった。

「受胎告知」やクリスマスの晩の場面もあるが、とにかく中心のキリストの姿と悲しむマリア達の姿が傷ましい。

背景の仕上げが屏風絵の金箔を貼った仕上げになっていることや3枚のキャンバスが並んで、展示されていることで、屏風絵をみているように感じていた。学生時代、画題に迷い,かつての画家たちの作品を貪欲に見ていた自分には、何度も見た3枚の絵が私の中では、フジタの代表作なのにほとんど、その情報がないまま時間が経っていた。

「何がきっかけでこの絵を描いたのか?」ということが引っかかってきた。

ここ15年ぐらいであろうか、ずい分フジタに関する研究も進み紹介されるようになり、美術館や映画『foujita』、テレビ、随筆集によって、フジタの人生について知ることが出来るようになった。でも、あの3枚の絵について取り上げたものはなかった。

昨年、ポーラ美術館に行った時にフジタの展覧会の図録の見本をぱらぱらと立ち読みさせてもらった。「あの絵についての話はないか?」と探していた。すると、フジタがフランス滞在中、気に入った絵があり、それを見るためにその絵のある場所に1ヵ月滞在したという話が載っていた。

「もしや、?」と思い自分の手帳にその絵の名前を控えた。『アンゲラン・カルトン  ヴェルヌーブ・ザヴィニョンのピエタ 1455年 ルーヴル 1ヵ月滞在』と。

これを頼りに、家でルーヴル美術館のサイトで出てきたのが、

F0082_Louvre_Pietà_de_Villeneuve-lès-Avignon_RF_1569_rwk_B.jpg (4056×3018) (wikimedia.org)

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Pietà_de_Villeneuve-lès-Avignon_ 1455    Enguerrand Quarton  Louvre 

この絵が出てきた。「これだ!」と思った。

フランスのアヴィニヨンの教皇庁があった場所の対岸の場所の地名が Villeneuve-lès-Avignon であり、そこにあったピエタ(キリストの遺体を膝に抱いて悲しむ聖母マリアの図像)という題名がついており、現在ルーヴル美術館に収蔵されている絵だった。

1455年といえば、油彩画自体が珍しい頃。油彩画の創始者と言われるヤン・ファン・エイクが『ゲント祭壇画』をネーデルランド(今のベルギー)で油彩画で描いたのが1432年。ちなみにダ・ヴィンチが板に油彩で『モナ・リザ』を描いたのが1503年。

この絵のマリアやキリストの顔を見るとビザンティン美術のように人物の描写や光輪を描くことなどに形式があるようにも見えるが、その他の人物には自然なグラデーションで陰影をつけ表現できる油絵の具の特性をいかし、人物が写実的に個性的に描かれている。左の人物がネーデルランドの寄進者だそうだ。背景の金色は、人物をくっきりと引き立てながら、空間が広がっていくように見せている。遠くに描かれているのは、コンスタンティノープルの聖ソフィア寺院。1453年にビザンツ帝国がオスマン帝国に占領され、東のキリスト教国の終焉という歴史が実際にあったことを嘆いている姿にも重なっているようだ。

それまでキリスト教では、布教のためにモザイク画やフレスコ、テンペラで聖書の話を視覚化させてきているが、この頃になると画家が独自に構図やポーズに工夫を加えながら描き始めている様子がうかがえる。

そういった型にはまらない自由さをフジタはこの絵に見出し、気に入ったのかもしれない。

フジタは西洋の美術に触れながらもそのまま取り入れるのではなく、自分は日本人であるという独自性をはっきりと打ち出した作品を描き、認められたことを一つに成功体験としてこの絵もそのように仕上げたのであろう。

1925年、フランス政府よりレジオン・ド・ヌール勲章を贈られた。このことは、フジタにとって、それまでの苦労が報われた大きな喜びになったことであっただろう。 1927年上の3枚の絵を発表したわけだが、この作品がその後の人生をも暗示していた。

2つの大戦を生き、祖国に懸命に尽くしたフジタであったが、苦渋の決断の末、日本を離れた。人間は基本的に人に認めてもらい、前向きに生きたいと思って生きていこうとするものだと思う。だからフジタのことを人生で初めて認めてくれた国、フランスにもう一度戻り、1955年国籍を得、1957年にはレジオン・ドヌールのシュバリエを贈られた。自分を受け入れてくれた国、その宗教的基盤であるフレンチ・カトリックに改宗し、藤田 嗣治は、フジタレオナール・ツグハル・フジタとなった。

それから日本に帰ることはなかったが、日本人であることを大事にしていたと思う。

悲しいことに精神的に最も安心してくらせる場所を日本は、彼に与えられなかったのである。

フジタが日本に残してくれた祈りの形であるこの大作を私はこれからも心の中で大切にしていきたいと思う。

日本人が表現したキリスト教美術の絵画、フランスも認める表現、そのようなものは、私が思いつくもので今現在、世界中を探してもあの3枚の絵以外にはないのだから。

 

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2022年1月10日 (月)

Visiting a place : 神奈川沖浪裏とドビュッシー

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城ヶ島 Jyoga-shima                                Dec.30.2021

 年末に三浦半島の城ヶ島の海岸から寒さの中、強風で荒れる海を見ていたら、凄まじい景色が脳裏に焼き付いて、お正月はドビュッシーの交響詩『海』~風と海の対話~ を聞きたくなりました。

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Debbusy  ”La Mer” 1905年

音楽をかけると、その時の気分にぴったり。今までも聴いていたのに先日の冬の荒れ狂う海の景色を克明に音楽に表現できていることがわかりました。

ドビュッシーは、北斎の絵を見て ”La Mer” 交響詩『海』を作ったことは、有名ですが、日本に来ていないのにすごいなと繰り返し、聴いていました。

遠く離れた国の作品でも、人間お互い共感し、また新しい創造力で何かを生みだそうとする力が人間にはあると改めて感じました。感動がつながってより素晴らしいものができてきた。上昇らせん構造。

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遠くに富士山。

こうやって、荒々しい岩と荒れ狂う波を目の前に興奮して北斎は、下絵を現地で描いたように思います。この時の冠雪は、少し絵の時期よりも雪が多くなってきていました。

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和田長浜 佃荒崎から見た富士山       Oct.25.2021

 昨年10月に和田長浜に行った時に三浦半島南部の海岸の三崎層と呼ばれる泥岩と凝灰質砂岩、凝灰岩の互層の波で削られたゴツゴツとした岩場を歩いていると相模湾の向こうに富士山が見えました。

その時、はっと「北斎が下絵を描いたのは、このあたりかも?」という考えがよぎりました。絵を描くために座るのには、ちょうど良い岩もあり、「私ならここに座って富士のスケッチをするな。あとで、北斎の絵と比較してみよう。」などと思いながら、帰ってきました。

家でもスマホの写真なので、拡大しても画像が良くないのと、冠雪量が少なかったので、よくわかりませんでした。またもう少し雪が降った冬にいきたいな、と思いながら、12月はこの場所には行けませんでした。

しかし、今回本腰入れて絵に重ねてみることにしました。

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北斎の絵を半透明にして、2021年10月25日の写真を重ねたものです。写真は、北斎が他の絵でも行っているように実際の見え方を引き伸ばしたりする手法で縦、横に圧縮するように調整してみました。

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すると、一番白く見えるこの日の冠雪の位置に比べ、北斎の絵はもうちょっと下まで冠雪していますが、ほぼ谷の位置が同じであることがわかりました。

そして左の荒波の付け根の青く表現されている部分が箱根の山並みと重なります。

描いた場所について諸説あるようですが、なんとなくその場所の気配を感じたことから発展した一つの仮説です。

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ルーペで富士山を縦長に変形させてみたりもしました。

私が考えたのは、現地で描いたスケッチから本作をどうしようかと変更して描く自由さを北斎は持ち得ていたので、この箱根の山並み線を使って弧をいくつも描きながら、拡大させ、大波に立ち上げていくアイディアを思いついたように感じます。欄間彫刻の伊八の影響もあったことでしょう。

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右上:葛飾北斎 『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』1830~33年頃

右下:年賀状に使った主人が撮った写真 富士山と私 波のように縞模様を持つ立岩の曲線が波のよう

左下:2017年の国立西洋美術館『北斎とジャポニスム』展チラシ カミーユ・クローデル 『波』

ジャポニスムは、日本の浮世絵や工芸品がフランス中心とした西洋に影響を与えたことを言いますが、その前に、絵の表現に関して貪欲な北斎は蘭画の風景画、植物画より遠近法、陰影法、細密描写など取り入れていきました。

ここが、それまでの表現とは違う浮世絵を北斎が編み出し、西洋でも受け入れられる下地になっていることも忘れてはならないと思います。

 

 

 

 

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2021年4月 7日 (水)

Visiting a place : 日本民藝館

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日本民藝館                  Apr.6.2021

 日本民藝館が改修を終えたということを知り、早速出かけてきました。前日、銀座の無印良品で行われている『MINGEI 生活美のかたち』という展覧会(入場無料)を見せていただいた折、チラシがあり知った次第。

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Left : Tokyo Midtown 21_21 DESIGN SIGHT 2018.11-2019.2  

Right : Tokyo Atelier MUJI Ginza 2021.3-5.9 

 現在の日本民藝館の館長である深澤直人氏は、2018年にミッド タウンで行われた『民藝 Another Kind of Art』を日本民藝館の収蔵品を中心に企画されました。この時の展示は、陳列台に民藝の品が並べられているのですが、名札のようなものは、置いてありませんでした。そもそも、民藝の品々は、作者名はないのです。目録はありましたが、最初は、「えっ、どうして?」と違和感を感じました。しかし、だんだん慣れてきて、「一つひとつの形を楽しんで見ていけばいいんだ。」と思うようになりました。

確かに、子どもの時のように文字に頼らず、素朴に「何だろう?」という目でじっくり見ることが久しぶりに出来たような気がしました。

何か、ものを作る時のワクワクした気持ちや作っている時の集中した時間、出来た時の喜び、使う喜び、そういったものを一つひとつのものは感じさせてくれました。

また昔の人々の知恵や工夫と身の回りの自然の材料を上手く利用して作ったであろう品々を見ていくと、なんとひたむきに生活に役立つ品々を作ってきたことかとじわじわと心が洗われるほどに慈しみと感謝の気持ちがわいてきました。いい展覧会でした。

先日訪れた銀座の無印良品のアトリエ展示も深澤直人氏の企画キュレーションで、ミッドタウンの展示を思い出すものでした。

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さてさて、今回の改修が行われた大展示室。1926年の創建時に近い空間にしたそうです。

床が大谷石。微妙に薄緑を帯びた灰色の凝灰岩。壁には、葛布を張り替えたとのことです。

柳宗悦も座ったであろうウィンザー チェアー。国産の洋家具として作られた初期のものでしょうか。座面の材の杢の出方が、使える材を無駄なく使った感じで、今のきれいすぎる仕上がりを求める風潮に私の心に一石を投じてくれたよう。「これでいいんだ!」と言ってくれているようだった。

館内では、日本民藝館のことや柳宗悦の思想を紹介した映像も流すようになり、民藝についてわかりやすくなっていました。Img_9392

角皿       フランス  18世紀

 さてさて撮影可能だった場所のテーブルの上に「これ、何に使うのでしょう?」という四角い皿が。見ていくと・・・、「緑色になるガラス釉がかけられた焼き物だ。粘土だから自由に形が出来るので、四角く作り、取っ手がついている。あの取っ手を自分が持つとなると、こうだから、」と角度を想像すると、オーブンに出し入れしやすい角度のように思いました。左側には、焼き汁が流せるようになっている。私が思うには、この上に肉の塊をローレルなどの香草と一緒に置いて、オーブン(窯)に入れ、じっくりと焼いたのでは?というRoast pan。

ロースト ビーフかロースト ポークがこんがり焼けた塊をイメージしてしまいました。

柳宗悦は、名札に関しては、最小限度の情報のみを黒漆の板の上に朱書きで書いたものを置く、ということを世界中の博物館、美術館を巡って決定したそうです。

これは、人間が作った形は、そのもの自体がすでにその意味を語っているということだと思いました。

 昨日、一番印象に残ったものは、柳宗悦が原稿を書いていた時の机まわりのものが展示されていた中のべっ甲の眼鏡。

つやが美しく色も茶色の飴色というか本物のべっ甲の色。

形は丸形ですが、鼻づるが逆V字型になっていて、機能上なのか、おしゃれなのかわからないけれど、今の感覚からすると、ひねりがあるデザインで、「流石、柳宗悦の眼鏡だな。大事にしていたんだな。」と思って眺めました。

白内障を患った画家のモネの使った黄色いレンズの入った晩年の眼鏡を見た時もひどく感動しましたが、尊敬する人物の眼鏡に私はどうも、弱いらしい。

 

 

 

 

 

    

 

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2021年3月31日 (水)

Visiting a place : 厳島図屏風

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町屋通り                     Aug.2018

 宮島のことで数年前からあれ?っと思っていた書こうと思っています。

厳島神社を目指して歩く時、私は、フェリーを降りて、そのまま突き当り方向のトンネルを抜け、右折し、左折し町屋通りを歩きます。

昔ながらの通りで、風情があり人通りも少ないので好きなのです。杓子を作る作業所を覗いたり、新しく始めたお店を覗いたり。

ただし、仕入れの車が結構スピードを上げて走るので、気をつけながら。ぶらぶら歩き。スイスの村のように環境のために全車電気自動車、なんてことをしてれるとより、宮島の自然も喜ぶと思いながら・・・。

よく行くお茶屋さんで町屋作りの中庭の緑陰を見ながら、かき氷を食べたり、コーヒーをいただいたり、地元の情報を知ったりして楽しい。

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町屋通りの山側の脇道に前から気になっていた味のある看板があります。「魚之棚町」。地名とロケーションが合っていないのです。

この疑問の答えが数年かけて実感としてわかったことについて。

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町屋通りの山側の一件がなくなっている箇所にその意味がわかる場所がありました。上の家との高低差がこんなにあるのです。

あの高さには、山辺の小径と言われる、昔の厳島神社の参道が通っています。

テレビでも紹介され、だんだんわかってきたことなのですが、もともとこの場所は、海岸段丘であり、現在の車が止まっている高さは、海、砂浜であった、ということなのです。

それでは、この町屋通りが出来たのはいつ?というと「江戸時代初期に埋め立てられた。」ということです。そして、今のにぎわっている表参道は、江戸時代後期ということで、だんだんと自然の浜がなくなっていったようです。

広島の本屋で買った船附洋子さんの書いた「厳島新絵図』という本にこのことが書いてあり、引用させていただきます。

『厳島神社への旧参道といわれる山辺の小径。山の麓に近いのだが、不思議な事に魚の名前が付いた「魚の棚町」がある。町屋通りの宮島市民センターから入った所で、入り口は江戸期の前まで海水が押し寄せる海だった。櫓を漕ぎ、和船がやって来て、魚の荷の上げ降ろしを行っていたため魚の棚という名が付いた。魚の棚は石畳の道で魚市があったという。』               ザ メディアジョン刊

この記述で、看板の意味が「なるほど!」とわかることになりました。

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山辺の小径より眼下の町並みを見る         March.2018

しかし、高台より眼下の海だった場所をイメージしましたが、今一つ・・・と思っていましたら、

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『厳島図屏風』 17~18世紀 紙本金地着色 六曲一双 広島県立美術館蔵

2019年9月15日の日本経済新聞の日曜版にこの屏風絵が掲載されました。宮島の対岸が実家なので、四季折々の宮島の姿を眺めてきた私にとっては、昔の姿は興味深くみることが出来、しばし、隅からすみまで現在の様子との違いを確かめながら、見つめていました。

すると、気になっていた「魚之棚」あたりの様子がしっかり、描かれていることに気付きました。

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画面中央左側 船が集まり、浜があり、簡単な柱が建てられ、山裾に軒を連ねた建物があり、人の通りが多い場所があります。

右側には、秀吉の建てさせた千畳閣が海岸ぎりぎりの崖の上、塔ノ岡に建っていることがわかります。位置関係からしても町屋通りの江戸期の姿がここには、リアルな姿で描かれていることがわかりました。

魚之棚の賑わいがやっと、伝わってきました。また埋め立てがこの絵が描かれた後、現在に至るまでどんどん行われたことがわかります。

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桜の頃                     March.2018

『厳島図屏風』は、各名所の俯瞰した絵と、島の北面全体を屏風に入れるために、かなり横幅の距離は短く描いたことがわかります。それでも観光の名所は、充分伝わり、ドローンもない時代によく細かく描いたな、と思いました。

新聞の記事には、他にも宮島を描いた屏風『厳島・吉野花見図屏風』というものがあり、それはアメリカにあると紹介していましたが、図版はありませんでした。

でもよく考えれば、その屏風を私は、偶然、2018年4月箱根の岡田美術館で見たような気がします。目録もないので、確認できませんが。

その絵の様子は、あまり覚えていないのですが、当時の人々の生活の様子が描かれてあったと思いますが、山頂付近に鹿と猿が描かれていて、その当時から猿もいたことを知り、絵の前で笑ったのを覚えています。

現在では、宮島の猿は全部捕獲され、いなくなっていますが、どうも江戸前から二ホンサルも生息していたようなのです。最後に私が猿に出会ったのは、2012年の夏、包が浦の奥の浜まで車で向かう途中、道に出てきていた猿にあったのが最後でした。猿も指折り数えると400年以上、宮島に住んでいたというわけなのです。

こうして考えると絵画は、歴史を今に伝える情報として、わかりやすく文字では伝えきれていないことを伝えてくれています。

昔の文が読めれば、いいのですが、なかなか理解するのは私の能力不足でかないません。

しかしながら、絵という視覚情報なら、自分なりに知らなかったことを発見しやすいので、最近、お寺や神社などに伝わるその地域の昔の絵を見て、昔の地形をイメージするのがおもしろいと感じています。

 

 

 

 

 

 

 

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2021年1月 6日 (水)

About Pottery : 萩焼 茶碗

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元旦の朝、初日の出の見せる橋のところまで速足で行ってきました。橋の手前で、集まる人の横顔がオレンジ色に輝いていたので、その場所まで大急ぎで行くと、パーと日の出が輝いてみえました。

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雲ひとつない朝で、とてもきりっとした空気の中の日の出でした。

 

清々しい気持ちで家に帰り、初釜としてお抹茶を立てました。

といっても自己流ですが、実家からもってきた茶碗で、一人静かにいただきました。

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ふと、この茶碗、もしかしたら私が作ったもの???

という記憶の片隅に追いやられた大学時代の冬のつらかった陶芸4日間集中講義のことがよみがえってきました。

 

高台削りは、先生が陶土が少し固くなってから、やっておくからと言われ、最後まで自分で作ったものではありませんでした。

だから、焼きあがったものを手にした時に、ちょっと違和感があったような気がしたことを思い出しました。

焼くと、陶土は収縮し、作った時の大きさと違うものにもなります。

 

お嫁に持ってきていながら、なんだか母が家にあるお茶碗を勝手に持たせたとしか考えていなかったけれど・・・。

今見ると、いいじゃない・・・。

 

今、その窯のことを調べると、萩焼の窯元で修業した先生でいらっしゃった。

だから、萩で焼いたのではないけれど、萩焼き用の土で焼いた茶碗となる。

 焼き物の理想の形として、茶碗の写真集を見せてもらったことを覚えています。今だから、あれは「たぶん青井戸茶碗 銘 柴田 だったかな。」とか名前が浮かぶけれど、その頃の私には、美術史的な価値は今一つ分からず、「え~もとはご飯茶碗~だったの~!」ということと素朴な形と茶碗のヒビやしみが目に焼き付いています。

電動ろくろで井戸茶碗と筒形と作陶したが、理想の高さや径にしないといけないことに苦心しました。

隣の友人が初めてなのにやたらと上手に形が上がり、先生に褒められ、「いっそ弟子入りさせてもらったらいいのに」とジェラシーを感じながら、私は焼き物の才能はないと自覚した4日間でありました。

だから、出来上がったものもろくろく、見ていなかったのかもしれない。

 

自分の名前を裏に書いた記憶があったのだが、高台を削る時になくなったのだろう。

そう考えると、ますますこれは、私が作ったように思えてきました。

 

でも、もしかしたら、この推論はまったく違うかもしれない。

まっ、いずれにせよ、使っていこう。

 

 

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2020年9月 6日 (日)

Home Music : 阿部海太郎さんの音楽

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 夏休みに行った静岡のクレマチスの丘に併設の本屋さんで見つけたピアノの楽譜。

以前NHKの番組『世界で一番美しい瞬間』で流れていたきらきらした美しい曲の作曲家として阿部海太郎というお名前をインプットしていました。また、最近では『日曜美術館』や『京都人の秘かな愉しみ』の音楽も担当されており、その曲の味わいをじわじわと拝聴し、ファンになっていました。

娘も気になった曲だったようで、自分で『世界で一番・・・』の冒頭あたりは、数年前耳コピでピアノの前で弾いていました。

今回、楽譜を見つけ、もしかしたらあの曲入っているかも、と思ってお土産に買って帰りました。

帰って、すぐに一曲目からピアノで弾いてみました。すると2曲目。あの曲が、楽譜になっていました。

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Moments Musicaux

冒頭がきらきら木漏れ日が揺れるような感じ。そして子どもの頃の夏の思い出をなつかしく思うようなワルツの調べ。

せつない感じも加わり、夏がまた過ぎていく・・・。

そんな感じの曲。

短かった今年の夏、帰省も出来ずにいましたが、この曲を弾けるようになったことで、いつもの夏が脳裏によみがえってくるように感じ、満たされた気持ちになります。

この楽譜の中の他の曲も少しずつ紐ときながら、弾いています。

日曜美術館のテーマ曲”Reperages - for piano"や『京都人の密かな愉しみ』の”Miyako Sawafuji"もありました。

それから、新たにこの楽譜で知った今、一番のヒット曲は、”Le jardin chez M。Elzeard Bouffier".

昔、フランス プロバンズ出身のJean Giono ジャン・ジオノの原作の『木を植えた男』のアニメーションをHiroshima Animation Festivalの会場で観ました。カナダのフレデリック・バックの色鉛筆のアニメーションで、その柔らかなタッチと動き、色彩の美しさは、それまで見たことのないアニメーションでした。

ストーリーは、その頃も世界的に叫ばれていた環境問題をどうするかという中で、一人ひとりの自然を守ろうとする営みがその後の未来の世界を変えていくことを伝えた作品でした。

その話の中の主人公がエルゼアール・ブフィエ。三国廉太郎さんのナレーションで話が展開していきましたが、その名前を覚えていました。

黙々と禿山にどんぐりを埋め、長い時間をかけて、山の森を再生させていった主人公。

その曲は荘厳な響きの中、静かな感動を伝え、余韻を感じさせる曲、教会の音楽のようです。

 

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2020年8月 6日 (木)

Visiting a place : Miyajima Hotel

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Miyajima                                                         Aug.2014

数年前に広島の平和公園脇に広島おりづるタワーが改修を経てオープンしました。屋上からの眺めは素晴らしく、西の空に沈む夕日を眺めると西方浄土がそこにはある、と思える黄金の世界を見ることができます。

館内の展示で原爆ドーム(旧産業奨励館)を設計したチェコ出身のヤン・レッツェルさんのことが詳しく紹介されていました。その時、宮島のホテルを設計したことが紹介されており、写真もパネルで展示されていました。

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旧宮島ホテル  1917年  ヤン・レッツェル設計 Wikipediaより

宮島にこんな和洋折衷のホテルがあったことやどのあたりだったのか興味を持ちました。

戦後、進駐していたオーストラリア軍のものとなり、1952年 焼失してしまったということです。

母が、「今、国民宿舎があるところらしいよ。」と教えてくれましたが、なかなか、展示写真で見た場所と現在の場所が一致できないでいました。

しかし、今日、以前には写真がネット上には一枚もなかったのですが、アップされていたので、自分の写真とGoogle MapでVirtual Travel。

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Miyajima                                     Mar.2018

この写真の一番右側に映っている建物が国民宿舎です。

先ほどの写真の手前の石灯篭が現存しており、特に写真右端の大きな灯篭が位置関係を明確にしてくれました。

昔の写真では、海岸がすぐ近くですが、現在は、埋め立てされて浜までが遠くになっています。

あと、ホテルの登り口脇の樹木が現存。モミジかな~?と思いますが、現在、幹の部分は同じ形で枝葉は傷んでいるようですが、確認できました。

現在のフェリー乗り場は、昔よりもかなり東側に移動して整備されており、その当時は、このあたりに船を着けていたようです。

昔の宮島の観光ポスターにもこのホテルが描かれているのを見たことがあるので、宮島の人には当たり前の話だと思いますが。

やっと、確認できたので、うれしい。

 

 

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