2020年9月 6日 (日)

Home Music : 阿部海太郎さんの音楽

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 夏休みに行った静岡のクレマチスの丘に併設の本屋さんで見つけたピアノの楽譜。

以前NHKの番組『世界で一番美しい瞬間』で流れていたきらきらした美しい曲の作曲家として阿部海太郎というお名前をインプットしていました。また、最近では『日曜美術館』や『京都人の秘かな愉しみ』の音楽も担当されており、その曲の味わいをじわじわと拝聴し、ファンになっていました。

娘も気になった曲だったようで、自分で『世界で一番・・・』の冒頭あたりは、数年前耳コピでピアノの前で弾いていました。

今回、楽譜を見つけ、もしかしたらあの曲入っているかも、と思ってお土産に買って帰りました。

帰って、すぐに一曲目からピアノで弾いてみました。すると2曲目。あの曲が、楽譜になっていました。

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Moments Musicaux

冒頭がきらきら木漏れ日が揺れるような感じ。そして子どもの頃の夏の思い出をなつかしく思うようなワルツの調べ。

せつない感じも加わり、夏がまた過ぎていく・・・。

そんな感じの曲。

短かった今年の夏、帰省も出来ずにいましたが、この曲を弾けるようになったことで、いつもの夏が脳裏によみがえってくるように感じ、満たされた気持ちになります。

この楽譜の中の他の曲も少しずつ紐ときながら、弾いています。

日曜美術館のテーマ曲”Reperages - for piano"や『京都人の密かな愉しみ』の”Miyako Sawafuji"もありました。

それから、新たにこの楽譜で知った今、一番のヒット曲は、”Le jardin chez M。Elzeard Bouffier".

昔、フランス プロバンズ出身のJean Giono ジャン・ジオノの原作の『木を植えた男』のアニメーションをHiroshima Animation Festivalの会場で観ました。カナダのフレデリック・バックの色鉛筆のアニメーションで、その柔らかなタッチと動き、色彩の美しさは、それまで見たことのないアニメーションでした。

ストーリーは、その頃も世界的に叫ばれていた環境問題をどうするかという中で、一人ひとりの自然を守ろうとする営みがその後の未来の世界を変えていくことを伝えた作品でした。

その話の中の主人公がエルゼアール・ブフィエ。三国廉太郎さんのナレーションで話が展開していきましたが、その名前を覚えていました。

黙々と禿山にどんぐりを埋め、長い時間をかけて、山の森を再生させていった主人公。

その曲は荘厳な響きの中、静かな感動を伝え、余韻を感じさせる曲、教会の音楽のようです。

 

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2020年8月 6日 (木)

Visiting a place : Miyajima Hotel

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Miyajima                                                         Aug.2014

数年前に広島の平和公園脇に広島おりづるタワーが改修を経てオープンしました。屋上からの眺めは素晴らしく、西の空に沈む夕日を眺めると西方浄土がそこにはある、と思える黄金の世界を見ることができます。

館内の展示で原爆ドーム(旧産業奨励館)を設計したチェコ出身のヤン・レッツェルさんのことが詳しく紹介されていました。その時、宮島のホテルを設計したことが紹介されており、写真もパネルで展示されていました。

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旧宮島ホテル  1917年  ヤン・レッツェル設計 Wikipediaより

宮島にこんな和洋折衷のホテルがあったことやどのあたりだったのか興味を持ちました。

戦後、進駐していたオーストラリア軍のものとなり、1952年 焼失してしまったということです。

母が、「今、国民宿舎があるところらしいよ。」と教えてくれましたが、なかなか、展示写真で見た場所と現在の場所が一致できないでいました。

しかし、今日、以前には写真がネット上には一枚もなかったのですが、アップされていたので、自分の写真とGoogle MapでVirtual Travel。

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Miyajima                                     Mar.2018

この写真の一番右側に映っている建物が国民宿舎です。

先ほどの写真の手前の石灯篭が現存しており、特に写真右端の大きな灯篭が位置関係を明確にしてくれました。

昔の写真では、海岸がすぐ近くですが、現在は、埋め立てされて浜までが遠くになっています。

あと、ホテルの登り口脇の樹木が現存。モミジかな~?と思いますが、現在、幹の部分は同じ形で枝葉は傷んでいるようですが、確認できました。

現在のフェリー乗り場は、昔よりもかなり東側に移動して整備されており、その当時は、このあたりに船を着けていたようです。

昔の宮島の観光ポスターにもこのホテルが描かれているのを見たことがあるので、宮島の人には当たり前の話だと思いますが。

やっと、確認できたので、うれしい。

 

 

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2020年8月 5日 (水)

Visiting a place : Memorial Cathedral for World Peace in Hiroshima

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Memorial Cathedral for World Peace              Aug.2014 

明日は、原爆の日。今年は、帰省するのは無理かな、と思いながら8月6日をむかえそうです。

平和公園から北東に位置する場所に戦後、1954年に建てられた幟町世界平和記念聖堂があります。地元では「幟町教会」と呼んでいると思います。

5歳の頃、この聖堂で知り合いの結婚式にフラワーガールとして参列した時、初めてここを訪れました。ドレスも作ってもらい、祭壇までのヴァージン・ロードに花をまきました。緊張して、ほっぺが真っ赤になり、祭壇前の階段ではドレスの裾を踏んで、足が前に上がらず、困った、というはずかしかった思い出のある場所です。

本番では、背後より荘厳なパイプ・オルガンやコーラスも聞こえ、振り返ってみたい、と思いながらいい子にしていました。

自分の記憶の中では、映画に出てくるようなヨーロッパの教会そのものであったような気がしていた場所。

大人になってから、戦後、建てられたということがわかりましたが、それ以来訪れていなかったので、娘と訪問させてもらいました。

2014年に訪れた時、今まで知らなかったことが、いくつか分かりました。この日、中に入ることが出来ましたが、撮影は出来ませんでしたので、聖堂内の写真はありません。

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戦後、焦土と化した広島の地に原爆犠牲者を弔い、世界平和を祈念する場として、カトリックの聖堂として建てられました。建設にあたり、広島に布教活動のため滞在し、自らも被爆し絶望の淵にいたドイツ人の神父 フーゴ・ラッサールがせめて一つ祈りの場を作りたいと思い、力を尽くして完成させました。建設費は、国内は元より世界中からの寄付によって建てられたとうことです。

設計は、村野藤吾氏です。鉄筋コンクリート造なのですが、外壁の表面は、石を欠いたようにごつごつしています。また、鐘楼が高く、窓は小さめ。壁の厚く開口部の小さいロマネスク建築と飛梁を使い壁を支え、高い塔を持つゴシック建築が合わさったような様式です。入口の部分は光をイメージした法輪や楕円を使った装飾で飾られ、仏教的な意匠も取り入られています。型を作って、コンクリートは流し込む訳ですから、手間がかかったことでしょう。

母が、以前、この工事に携わった人の娘さんが書いたという絵本(今は、ないのですが)、苦労しながらも広島に教会を作ることの意味や希望が書かれた本でした。

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久しぶりに聖堂の中へ入ると、大きな十字架があり、モザイクやステンド・グラスの光がとても色とりどりできれいでした。

ステンド・グラスは、一窓ずつが聖書の一場面を表したものでした。そして、これは、外国(メキシコ)で作られ、ここに取り付けられたことを知りました。

遠く離れた場所で、原爆を受けた広島をを憂い、この聖堂に合うものをと作ってくれたんだと思いました。

調べると、祭壇の斬新なモザイク、パイプオルガン、鐘、私が緊張した上った大理石の祭壇、一つひとつが世界の人々から広島のためにと贈られたものと知りました。

この日は聖堂の中に、いろいろな聖堂建設に至るまでの資料が展示されていました。

その中にまったく知らなかったこの聖堂の外観写真がありました。祭壇上部は、天蓋のようになっていて、緑青色のドーム屋根がかかっており、その中央部に鳳凰が載っているということ。

鳳凰は、西洋ではフェニックス。広島が再び、甦ることを願ってとりつけられていたのです。

これは、そうたやすく観に行くことはできないけれど、ヨーロッパの教会には、たぶん載っていない、鳳凰。

キリスト教的西洋建築をそのまま、作るのではなく、東洋的なものが随所に配置されていたことに今回気付きました。

これは、ラッサール神父が日本での布教に当たり、禅を知り、カトリックとの共通点を知り、仏教についても理解も深かったことがこの建築に表れているようです。

1990年にラッサール神父は亡くなり、遺灰が聖堂に収められているということです。

 

 

 

 

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2020年7月 6日 (月)

About An Artist: Vincent van Gogh : At Eternity’s gate

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昨年11月にゴッホの映画を観に行った。昔作られたカーク・ダグラスが演じたゴッホの映画を観たが、その後作られた映画は観ていない。映画や小説でその人の人生を追うよりは、その人が残したものから、こんな風に考え描いたのではと自分なりにゆっくり考えていくのが好きだ。

今回のゴッホ役は、ウィリアム・デフォー。なんだか、二人ともマーベルの映画に敵対する役で一緒に出ていたが、確かにゴッホに顔が似ている俳優さんだ。

しかし、今回のジュリアン・シュナーベル監督の本作は、制作中のフィルムなどの公開などから、描かれた場所に行き、撮影が進められたということを知っていたので、是非、大画面で見たいと思っていた。監督自身も絵を描いていた人。

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映画の冒頭の完全にゴッホの見ていたようにカメラが動くシーン。絵の具やイーゼルを運び、家に帰ってくるシーン。

学生時代にモチーフを探しにスケッチに出かけた頃を思い出した。

手を動かせば、絵は描ける。しかし、何を自分のものとして一枚のキャンバスに残せばいいのか、迷った。

あの頃はスケッチしながら、人の評価を気にして、絵を描くのが辛い頃だった。

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ゴッホが日記のようにいろいろなものを描いたのには、決定的な評価が得られなかったためにいつも迷っていたからだと思う。

でも、サン・レミの修道院に入ってからは、スケッチに行けないので、逆に心の中にある美しい色、形を自由に表現していった。

あの時代、心の動きともとれるSchrollうねりというタッチでキャンバスの上に表した画家は、ゴッホ以外にいただろうか。

ニューヨークのMOMAにある『星月夜』は、ゴッホの残した作品のベストだと思う。色の研究によって意図したであろう補色対比である濃紺と黄色の組み合わせは、純粋に美しい色面だ。モチーフの糸杉は画面の中の垂線となり、月や星の散らばる夜空につながるように描かれている。宇宙という果てしない世界がここには描かれている。

天にも届きそうな糸杉は、ゴッホの願い「いつかは、天国に召されたい」というキリスト教的な気持ちを隠喩しているように感じる。

現実の世界では、理解してもらえないゴッホはこの絵の中に、自分の心が解放され、受け入れてもらえる自由や安心感を感じる世界を作り出した。

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映画から南仏の景色や光、風など疑似体験させてもらえたし、油絵を描く気持ちも思い出させてくれた。

パンフレットに使われていたこの黄色。

ジョーンブリアン, カドミウム イエロー? 懐かしい色名が浮かんだ。

油絵の具は顔料の違いで微妙にチューブの中の絵の具は塗った時に今、多用されているアクリル絵の具とは違う濁りを含んだ色面を作る。

展色剤として揮発性の油もあるが、一般に乾きも遅く、前に描いた絵の具がぬるぬるして、塗り重ねるのに時間がかかる。

だから、一般的に油絵は時間をかけて制作されるものだ。

ゴッホの作品の中で何度も本物で見た作品は、その常識を覆している。

ゴッホ最後の地、オーベル・シュル・オワーズでの作品、ひろしま美術館蔵の『ドービニーの庭』は、チューブからそのまま置いたのでは、と思われるぐらいパレットで混ぜた痕跡のないような絵の具が粗いタッチで置かれ、セラドン・グリーンの空の美しい色が特に印象的な作品だ。

べたつく油絵の具を乾かしては塗るということはしないで、早く完成させたいからともとれるが、今となっては、自分に残された時間がないことを悟っていたのかなとも思うと悲しい。

帰省の際に、機会があれば、ひろしま美術館を訪れ、天窓のあるドーム型の常設展示室の作品を観に行くが、やはりこの絵は上部の色とタッチを確認するように観ている。

「確かにこの絵の前でゴッホは筆を動かしたのだ。」と感じる。

 

 

 

 

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2019年10月 7日 (月)

Visiting a place : 厳島神社 

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私が実家にいた1991年、台風19号がこのあたりを襲いました。記録を見ると、カテゴリー4のスーパータイフーン。最低925hPa、最大瞬間風速58.9m/s.

夜にかけてひどくなり実家の窓が割れて、板戸で吹き込む風を必死で押さえたことを思い出します。停電になっていたので風が収まった時、懐中電灯で家のまわりを照らしてみると、瓦が家のまわりにいっぱい割れて落ちていました。玄関に入れていた犬もより安全なお風呂場に自分で逃げていました。

ショックで眠れないまま、夜が明けるとものものしくヘリコプターが2~3機宮島上空を飛んでいました。そして、宮島を見ると、いつもと違う厳島神社の様子が対岸からもわかりました。どこかがおかしい!ご近所も瓦やスレートが飛ばされ、屋根にかなりの被害が出ていました。

がっかりしながら家に戻ると、ヘリコプターからの映像がNHKの朝の番組で流れていました。屋根が落ちてぺしゃんこになっていたり、灯篭が倒れているのが上空からの映像からもわかり、被害の大きさがかなりひどいことが徐々にわかってきました。

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特にひどかった能舞台              Aug.16.2009

背後の弥山から吹きおりてきた通称「弥山おろし」によって風が巻き上がり、能舞台の屋根を下から突き上げたことにより壊れてしまいました。

それからかなりの期間、神社はいたるところがブルーシートで覆われ、時間をかけて修復が行われました。国宝に指定されている建物が多く、なるべく元の材料を使って修復するという努力が数年にわたって行われました。

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あの時のことを思うと、現在何事もなかったように世界遺産として多くの海外からの観光客を迎えながら、海上に美しい姿を見せているのを見ると、多くの人の手があるからこそと思うのです。

今も時々いろいろな修繕工事が行われていますが、あの台風以来、そういった営みに気付くようになりました。建て方で工夫している所など本などで知ったことも一緒にまとめます。

廻廊の板は、「目透張り」と呼ばれるわずかな隙間があることは有名です。下から海水が上がってきた時、水の抵抗を逃すことや、砂などを落とす役割があります。本当に海水が廻廊の板の高さまでくるということはかなり危ないのですが、改めて、1991年の台風19号の映像を見ると、海水面がどんどん上がってきた時には、この隙間にちゃぷちゃぷ海水が上がってきていました。最終的には海水面は5m近くまであがり、柱の半分ぐらいまで、水につかり、板も流されました。

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これは、2014年に訪れた時のない内侍橋という本殿に渡る橋の修理を行っていた時の板の裏側の写真ですが、ご覧の通り板の裏には墨で番号が書いてありました。台風19号の後、流された厳島神社の部材は対岸の漁師さんが神社のものとすぐにわかり戻してくれたという話がありました。

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板の裏は、根太の上に置くために欠いてありました。

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床下の柱は、礎石の上においてあるだけ。フナクイムシやフジツボがつき、傷みが出てきます。

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ですからこのように根継をして、傷んだ部分を変える補修も随所で行われています。

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平舞台を支えているのは木材ではなく、八角柱に仕上げられた赤間石が使われています。毛利輝元が寄進したそうです。

そしてこの平舞台の板の間は、隙間なく張ってあります。それは波を沈める役割を持たせ、本殿への海水の侵入を防ぐ役割を持たせているそうです。右側の青銅製の灯篭も台風19号の際、風に煽られ、倒れました。

電気があるのが普通の現代においては、灯篭の存在は、オブジェのようにも思えますが、夜間に海上から見て灯りをともす灯篭が灯台の代わりであり、安全面で必ず必要なものだったのです。

台風19号の時も参道の石灯篭もたくさん倒れました。

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西廻廊を歩いていると太鼓橋があることに気付きます。

でもどうやって渡るのだろうといつも疑問に思っていました。かなりの助走をつけなければ、登れないのでは?などおてんばだった私はあれこれ行くたびに考えていました。

皇室からの勅使専用の橋として階段付きで作られたものが使われなくなり、現在は階段を外した状態になっているということです。な~んだ!そういうことだったんだ!とついこの間、知りました。

海辺に建てたが上のメンテナンスはいつも発生していますし、台風、高潮などの数年に一度の被害もあります。

大変な維持作業だと思いますが、いつ行っても気持ちが良く過ごせるこの懐の深い厳島神社を後世にも残していってほしいです。

まだまだ、そこにあるのにすごいいわれのあるものが宮島にはいっぱいあります。紐溶きながら知りたいと思っています。

 

参考文献:『宮島』 中道 勉著 足で知る宮島学発行所 

     『厳島新絵図』 船附洋子著 ザ・テレビジョン刊 

 

 

 

 

 

 

 

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Visiting a place :厳島神社 2019 summer

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 Under constraction                                          Aug.10.2019

 今年、宮島 厳島神社の大鳥居は修理中。いつもなら、フェリーで宮島に近づいた時、この角度からは、ぐっと丹塗りの大鳥居が海や山の青緑の色の中、しっかりアクセントとなってそびえ立っている姿を見せてくれる絶好のシャッターチャンスの位置ですが、今年は、この姿。

しかし、ここ数年訪れる度に、色が薄くなり幾分蜜柑色になってきており、もうそろそろお手入れが必要だな、と思っていました。

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廻廊から鳥居を望む               Aug.9.2019  

毎年、夏に訪れていますが、宮島には知らないことがいっぱい。今回も神社に西欧の技法が使われているのでは、という指摘が宮元健次氏の『日本庭園のみかた』(学芸出版社刊)に書かれていて驚いたのでそのことについて現地で確かめてみたいと思って、訪れました。

「柱間の間隔が鳥居に向かって狭くなっている。」という指摘だったのですが、本を持たずに訪れたので、観るべきポイントを間違えていました。

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東廻廊 East corrider 国宝 National tresure   Aug.9.2016 

廻廊の柱間をみていましたが、ここではありませんでした。ちなみに廻廊の柱間は2.4m、横幅は3.6m。廻廊が直角に曲がる部分の外側の柱間は確かに広くなっていましたが、鳥居方向に柱間は一定間隔で整然と並んでいました。

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今年は満潮に近い時でしたので回廊を歩いているとゆらゆらと海面に映った反射光が天井裏に反射していました。

夏に訪れる時は、満潮の時がおすすめ。

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拝殿     管弦祭          Aug.   .2017

家に帰ってから柱間は、廻廊ではなく、本社社殿であったことに気付き、過去の写真を見てみました。これは、本殿方向に柱の列が並んでいますが、奥から4.32m、3.94m、3.03mとなっているそうです。鳥居に向かって、柱間が狭くなっている。

何度も火災や戦に遭ったので、修理されて今に至っていますが、宮元氏によれば、1555年の厳島合戦の後、1571毛利元就が修復した時に、その頃日本にも宣教師から伝わったルネサンスの透視図法が柱間にも使われたのではないか、という説でした。

このように大鳥居の中心点を消失点とし、柱間を狭くしていくと鳥居までの距離感を実際より短く感じる手法は、教会建築にも用いられており、それが伝えられたからではないか、ということです。

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祓殿より大鳥居を望む              Aug.11.2007

今まで、厳島神社は平清盛が整備した平安時代の寝殿造りを伝える建物として見ていましたが、改修の際、それぞれの時代の建築様式も積み重なって、今の建物があることに改めて気づかされました。

 

 

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2017年12月13日 (水)

About An Artist : Ryuichi Sakamoto "IS YOUR TIME"

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 12月9日(土)から新宿 オペラシティーのNTT インターコミュニケーション センター(ICC)で始った坂本龍一氏と高谷史朗氏による『設置音楽 2』を初日、聴きに行った。この日は、午後3時からトークショウもあるということで、朝早く出かけ、整理券をもらって、お話も聞きました。

会場は、昔、ICCが始まったころに、Media Artsなるものは、なんぞやとよちよちの子どもを連れて行ったことがあった。開館20周年ということで、息子も今や23歳。ひと昔経ったともいえる。

今回、お話を聞く前に作品を鑑賞させてもらった。坂本氏の音楽がICCならではの体験型アートになっていた。

トークの中で、具体的な説明を聞けたので、印象に残ったことをトークからの説明も加えて書き残したいと思う。

設置された空間は、高校の文化祭のような、暗室へと続いていた。縦長の空間(トークで25mという話が出たが、縦の長さか、横の幅なのか分からないが)の両脇にスピーカー14台の上にディスプレーが積まれ、並んでいた。いろいろな音が流れ、倍音が響いたり、鳥の声が聞こえたり・・・・オルガンの音が聴こえ、教会に行ったような感じだ。今年、出されたアルバム『async』の中で聴いたような音が聴こえ、突き当りには、ライトに照らされたグランドピアノの鍵盤がこちらを向いていた。

いきなり、祭壇のようなピアノに近づくのには、ずかずかし過ぎる気持ちだったので、ちょうど真ん中あたりに立ち止まって、暗闇に自分をならしながら、音楽を耳を傾けた。

グラス ハープのような音が重なり、倍音が生まれる心地良さに身をゆだねながら、様々な音の流れに耳を傾ける。ディスプレーの光は、目をつむると、太陽の光のようにも感じるほどの強弱もあり、音と同期して光を放っていた。

会場の床に座り込み、腰を据えて聞くことにした。すると、時々、ピアノがポーンと音を奏でる。調子が明らかにくるっている。けれど、スピーカーからの音は、すべて録音されたものなので、ピアノ自身から発せられる音は唯一、「生きている音」として、耳に響いた。つかみどころのない音の波の中で、確実な音を響かせ、心の拠り所のような存在感を持っていた。

誰もいないので、坂本氏が事前に弾いたものを自動演奏させているのかな、と思っていたら、トークで聞くと、違った。

そのピアノの音は、最近1カ月の世界で起きた地震を感知したものを圧縮したもので、地震が起きると、ピアノの上に設置された金属製の棒が下降し、鍵盤を鳴らすという仕組みをYAMAHAに協力してもらって、作ったということだった。

つまり、人為的に音楽に合わせて、ピアノの音を鳴らすというのではなく、地震の発生のタイミングを音に変えているという設定となっていた。

ひとしきり,聴いてやっとピアノに近づいた。震災で水に使ったというピアノだった。中を見ると、泥がついたままで、ピアノ線がピンピン切れていた。鍵盤を鳴らす仕組みもじっと見ていた。自動演奏の装置なんかではなく、鍵盤の上に櫓のようなもの作り、そこに鍵盤をたたく棒がたくさんつけられていた。

再び、オルガンの音が聴こえたので、一巡したな、と思い、会場を出た。一時間ちょっとぐらいであった。

聴いている間、バリエーションがいろいろあったので、聞き続けたいと思って、座り続けていた。普段の美術館のインスタレーションならば、こんなに長くは滞在しないだろう。映像や音を使った作品も今、いろいろあるが、一時間もその場を離れない作品は、たぶん、今までになかった。

音の速さのこと等、技術的な工夫について、トークで語られていたが、素地がほとんどないので、???と思いながら、聞いていたが、あの空間に合ったセッティングを調整し、設置したということだった。

また、トークでも語られていたが、やはり、教会をイメージしたというような設定だそうだ。両脇のスピーカーの列は側廊の列柱のようにも設定したようだ。

ピアノに関しては、映画『CODA』でも語られていた言葉、「津波という自然現象にさらされ、人が作ったものの多くが、自然の姿に帰っていった。ピアノも自然が調律したのだ・・・。」という坂本氏のとらえ方が印象に残った。現実に被害の状況を目の当たりにして、このアンバランスにも思える状況を別の見方からとらえていた。

あのピアノを二度と鳴らないピアノではなく、もう一度、音を奏でるようにしたのだ。私たちがその音を聞くことは、震災のことを思い出し、亡くなった方への祈りの気持ちにつながっていく。


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2017年11月30日 (木)

About An Artist : Tadao Ando : 水の教会

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 安藤忠雄氏設計による北海道にある水の教会。25年前、ここで結婚式をあげた。安藤建築が自分の住まいになることは、たぶん、残された人生の長さを考えると、ないと思う。けれど、この日だけは、これからの自分の人生のためにこの建築物があり、ここで式をあげることができたことを幸いであると思った。今でも、その思いは変わらない。

教会というと、シンメトリーな配置に設計されるのが、普通。また、祭壇には、当然、十字架が据えられるが、その向こうは、壁面となる。人が集まるための広い空間に始まり、そこに行けば天国を感じることのできる美しさを体験できる空間が作られてきた。それには、ヨーロッパに多く産する白亜紀に作られた加工しやすい石灰岩やそれがマグマの熱におって変成した大理石が使われた。それを積むという建築方法を基本に教会の建築は技術が進歩していった。

安藤建築のコンクリート造の教会建築は、それらの枠をいったん取り払い、新たな軸組工法による自由な発想の教会建築を実現させている。安藤さんがル・コルビジェが1955年に設計したロンシャン聖堂に若い頃に訪れた時、その当時、安藤さんが持っていた建築の常識を完全に覆すような自由な表現の可能性に気付く体験をしたそうだ。

このような旅の体験、本物に触れ、自分で得た感動が安藤さんのその後の仕事に大きく影響を与えているようだ。

アニミズムを信仰のベースにしていた日本人にとってのキリスト教のための教会建築に祭壇方向に空、山並みと樹木、水という景観を取り込んだ水の教会は、私たちの心にもすっとなじむ教会建築を提案した形となった。

私自身は、これがきっかけで安藤建築への興味がスタートとなった。

式が始まると、祭壇側の大きな一枚ガラスが右側にスライドしていった。これは、知らなかったので、私も皆もびっくりした。

涙で胸が詰まりそうな時間であったが、窓が開いて、外から風が吹き込んでくると、気持ちが一気に軽くなった。

おまけにかわいいチョウチョも飛んできて、なんと、私の頭につけていた花飾りの上にちょうど、とまったようだ。

家族がそれをじっと見ていたらしく、式後、「チョウチョがとまったんだよね~!」と口々に言っていた。ちょっとしたハプニングがとても楽しかったらしく、今でもその話は、思い出の一ページとなって、母が子どもたちにも話している。

あれ以来、一度も訪れてはないのだが、今回の展覧会で、水の教会の平面図やドローイングのリトグラフを見ることができた。前日に牧師さんと話をした部屋はこうなっていたのか、なんて新発見しながら見ることが出来た。

新たなスタートを自然に誓ったという思いが今でもある。


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2017年11月17日 (金)

About An Artist : Tadao Ando ゛Endeavor"

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Added Ando's Drawing in this exhibition's catalog

先日の日曜日、安藤忠雄氏の展覧会に六本木 国立新美術館に行ってきた。安藤さんの設計した水の教会で結婚式をあげてから、25年。それから、前向きな姿勢に私自身も影響されて、チャレンジすることに勇気をいただいたと改めて思う。私が最も、すごいなと思ってきたのは、夢を現実にするパワーだ。

それが、一番表れているところは、安藤さん自身だ。経歴の最初に必ず、書かれているところ。『独学で建築を学んだ。』ここだ。簡単な一文で表されているが、この言葉の裏の壮大な夢と努力に人として、敬意を払わずにはいられない。

『信ずれば、道は開ける。』と身を持って、教えてくれた方である。

実際に、お会いしたことはないが、NHKのドキュメンタリー番組や人間講座、若者との対談、書籍等で人柄を知り、大阪弁で、はっきりと話をすすめていく安藤節に勇気づけられ、すっかりファンになっていた。

今回の展覧会は、一番大きな展示場が使用され、今までの数々の建築作品のためのスケッチ、設計図、模型、写真、映像がテーマごとに並べらてれいた。美術館中庭には、光の教会の原寸 模型が作られていて、そこに入ると、都会であることを忘れ、私も周りの人々も、暗闇からもれる光の十字架を見ながら、しーんとして敬虔な気持ちになっていた。

サプライズだったのは、展示台や壁には、安藤さんが当時の現場の解決するべき点を考えながら、考えていたイメージ スケッチがマーカーでさらさらっと描かれていたところ。今でも、一つひとつの作品が昨日のことのように思い出されるのだろうな、と思った。描きながら、ベストな形、アイディアを探し続けた思索の片鱗を見せてもらったようだった。上の写真の今回の展覧会カタログの直筆サインとスケッチにも驚いた。ありがとうございます。

壁に描かれた安藤さん直筆スケッチを見ながら、「美術館は、これは捨てられないな~!」と思っていると、今年の夏訪れた直島のスケッチもあった。

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View from Chicyu arts museum                           Aug,2.2.2017

 1992年に開館した安藤忠雄氏設計による直島のベネッセハウスをはじめとする一帯の建築物を小豆島に一泊してから高松港から入って、めぐった。撮影は禁止なので、敷地から見える瀬戸内海が上の写真だ。これは、地中美術館からのもの。

水の教会もそうであったが、地中美術館にいると、自分が今どこにいるのか、わからなくなった。単に方向音痴だから、ということではなく、通常の箱状の建築物にならされているため、壁が斜めに立ちはだかっている空間や斜めに下がっていくスロープ等、あれれ、どこに行くの?という感じだった。

暗い通路を迷うような気持で歩いていると、急に空がパアーと広がって現われたり、開放感のある大きな窓から景色がドーンと表れる。そういった、ドラマチックな演出が安藤さんの建築にはある。子どもの頃見た、白昼夢のような、ありえないような空間が実在し、確かに自分がそこにいる不思議な感覚を経験した。

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At the pond near Chichu art museum Aug.2.2.2017


建物だけでもおもしろいが、展示作品、クロード・モネの『睡蓮』は、室内の展示室では見られない絵の具の輝き、特に、紫色の絵の具が非常に美しく見えた。天窓による拡散光により、久しぶりにモネを見たという気持ちになった。25年前、パリのオランジェリー美術館でみた2室の楕円形の部屋の壁面にはめ込まれたモネの睡蓮の連作の感動を思い出した。オランジェリーの天窓は、モネの提案によって作られたそうだ。やはり、外光の元で描いた印象派は、自然光の効果が分かっていたのだ。等々、展示作品にも浸りながら、時々、遠くの海の色や空の青を見ながら、優雅な一日を過ごした。外国人観光客もたくさん訪れていた。夕飯時には実家に着きたいので、島を離れることにした。

岡山の宇野港へ向かうフェリーに乗った。大して、スピードも出さずに、島沿いに船は走った。

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Naoshima 

ぼーと外を眺めていた時、この旅の最後に見た直島の姿は、痛々しく、私にどうして?と疑問を投げかけるものだった。花崗岩の島肌がむき出しになっていた。そういえば、瀬戸内海の島々を見ながら育った私にとって、美術館のまわりの植生の生育が今一つよくない感じが滞在中していた。

実家に行ってから、色々調べると、島の歴史がわかった。直島は、明治時代に精錬所を誘致し、島の産業としたが、その結果、煙害による環境汚染が進み、植物が生育できなくなってしまったのだ。

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現在、隣の豊島に不法に廃棄された阪神工業地帯からの産業廃棄物を焼却する高度な処理施設もあり、環境に害を与えない形に焼却している。今年、豊島からの最後の廃棄物が運び出された、という朝のニュースを思い出した。見えた黒い灰の山は、それだったのだ。

高度経済成長の中で、何も言わない自然環境は軽んじられてしまったのだ。私達のバランスを欠いた考え方が引き起こした結果がこのような島の姿を生みだしたと思うと、自戒の念にかられた。

安藤さんの今回の展覧会のスケッチに、「1989 Naoshima」とかかれたスケッチがあるが、最初の印象であろう、島の樹々が失われてしまった状態を「はげ山」と書き残していた。

それをクライアントとともにどうにかしたいと思い、実現させていった夢の途中が25年経過した今の直島の姿なのであった。夏以来、ずっと、アートの島として、人気を集めている直島と周辺環境のギャップに何とも言えないものを持ち続けてきたが、今回の展覧会で、解を見つけた感じがした。

自然を取り戻すのには、時間がかかる。だから、夢を描いて、一つひとつ育てよう、というのが安藤さんの頭の中にはある。建築もするけれど、木も植えるのが安藤さんだ。

だから、建物は、地中に建て、最終的には、緑に覆われた島に戻るように設計したのだった。

安藤さんは、大きな夢を描き、皆とともにその方向を示してくれた。


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2017年10月22日 (日)

About An Artist : 運慶と和田義盛

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和田海水浴場

 

東京国立博物館で開催中の『運慶』の展覧会。ぜひ、拝観したいと思っていたのが、神奈川県の三浦半島 横須賀市 浄楽寺にある阿弥陀如来坐像とその両脇侍立像だ。期間中10月21日より公開。鎌倉幕府 初代侍所別当を務めた和田義盛が運慶に作らせたという。

 

母の旧姓は和田。どこでどうつながっているのかは、本当かどうかわからないが、子どもの頃から「和田義盛」の名前は聞いていた。母も私も鎌倉から遠く離れた場所で生まれ育ったので、鎌倉、三浦半島に和田義盛ゆかりの場所がたくさん残っていることについて知らずに過ごしていた。東京にいた伯父は自分でいろいろな資料を持っていて私に話してくれたけれど、その頃の私には遠い昔の話であった。

 

知人の歴史好きの米国人が "Do you know Onna samurai ?" と聞いてきたので、「北条政子のことかな?」と思ってネットで調べているとどうも巴御前のよう。

 

巴は源義仲と戦場で別れた後、鎌倉に連れて行かれて、その身柄を和田義盛が引き取り、妻(その頃は多妻)にした・・・という話しもあることを知り、「あれれ、あの和田義盛~!」と一気に興味を持って自分で調べるようになった。ネットで調べていると、義盛の生き様は、鎌倉の歴史を調べている人々から今でも人気があるということを知り、ますます興味を持って調べていくこととなった。

 

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和田城址 三浦市の看板によれば、『巴御前が義盛に預けられここで余生を送った・・。』と書かれている。

 

それ以来、子どもの頃見た1979年のNHKの大河ドラマ『草燃ゆる』をオンデマンドで見て、和田義盛が頼朝亡き後、北条義時の謀略に耐え切れず、兵を挙げ討たれた和田合戦のシーン(総集編 第5回 尼将軍 政子)を再び見たり、江ノ電の和田塚駅の近くには、和田合戦で亡くなった人々の塚があること(地域の人が弔ってくれたもの)、若宮大路の鶴岡八幡宮に近い場所の屋敷の場所を古地図で確認し現地に行ったり、朝夷名の切り通し(義盛の三男 怪力で知られた人物)、三浦半島の浄楽寺(今回展示されている運慶仏のあるお寺)、白幡神社(義盛を祀っている)、和田城址、伝巴の塚、千葉の房総半島 和田の所領地等も数回かけて訪ねた。

 

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三浦半島 海岸段丘上の畑 義盛の頃より穀倉地帯。食糧が戦陣に送られた。

 

そこで見えてきたものは、富士山と海の見える三浦半島を拠点として船を使って海を自由に行き来し、田畑を耕し、武芸の鍛錬をし、有事に備えていた。特に弓の名手であり、源頼朝の先陣として活躍し、一族をあげて、鎌倉幕府を盛り立てていたという姿だった。

 

残された文献で義盛について書かれているものとして『平家物語第11巻 遠矢』に1185年 壇ノ浦の戦いにおける義盛(和田小太郎義盛)の様子が記述されていて、その短気な性格が表れていて、おもしろいことや周りの人々にも愛されていたことが伺えて興味深い。

 

『吾妻鏡』では、2009年に吉川弘文館から現代語訳が出版されており、1213年 5月和田合戦までの記述の中に侍所初代別当として活躍した和田義盛(和田左衛門尉義盛)の名前が随所に記録されている。

 

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由比ヶ浜 義盛 最後の地 現在は、鎌倉の頃よりも沖に海岸線が広がっている。

 

和田合戦の部分では、やるせない気持ちになって、読んだ。和田合戦の部分に『朝夷名三郎義秀〔38歳〕と数名は海辺に出て、船を出して安房国(現在の千葉県南房総)に赴いた。その軍勢は5百騎、船は六艘という。また新左衛門尉(和田)常盛〔42歳〕・・・・・・・・・・、和田新兵衛入道(朝盛)以上の大将軍六人は、戦場を逃れて逐電(逃げて行方をくらますこと)したという。』 :現代語訳 『吾妻鏡 第21 5月3日』 がある。

 

このことから和田義盛の末裔も各地に散らばったことが確認できるが、同じ名前が亡くなった人の中にリストアップされていたりして『吾妻鏡』の誤記も存在し、私と義盛とのつながりも可能性が出てくるが…等、望みを感じてはいるが、よくわからないので、現地調査にまた出かけたい。

 

和田義盛の最後は、司馬遼太郎氏が指摘した『名こそ惜しけれ』(後世に残るような恥ずかしいことをするな)の精神を貫いて、一族をあげて北条に対する抗議を形に表した形で命を落とす訳だが、多くの戦に出る中で、死に対する心構えを常に持っていたと思う。自分も多くの人の命を奪い、明日は我が身という死への不安は常に根底にはあったであろう。

 

そこで、阿弥陀如来造仏、お堂の建立を生前より準備していたと思われる。
運慶とは、北条時政が願成就院の造仏を頼んだことから、その対抗心から頼んだ、という話がある。それもあると思うが、1180年の南都焼き討ち後、1185年には源頼朝の絶大なる後援もあり大仏開眼供養、1195年には大仏殿完成供養が執り行われた。その間、何度も奈良に鎌倉から頼朝も和田義盛も出かけており、奈良仏師の技量についても目で見て確認していたからこそ、頼むことにもなったのであろう。

 

また、源頼朝も、1192年 永福寺という奥州藤原氏の作った平泉の寺院を模した寺を鎌倉に建立し、亡くなった御霊を弔う寺とし、運慶にこの寺の造仏を依頼したという。
源頼朝が父の源義朝の菩提寺として勝長寿院を作り、頼朝や政子、実朝ともこの寺に弔われたが、ここの造仏も1217年、運慶はしている。
ただ、この2つの寺院は焼失し、現在では、墓石、礎石のみ残る状態で、運慶作の仏像も今は、見ることは出来ない。しかし運慶が、源頼朝をはじめとする鎌倉の寺の造仏に関して、どれほど信頼されて仕事を行っていったかを伝えている。

 

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運慶が彫った浄楽寺の阿弥陀如来は、予想していた大きさよりもずっと大きく、和田義盛がこれを作ってもらって浄土の世界をイメージしていたかと思うとその願いの大きさに圧倒されるようだった。端正で静かな表情で鎮座している。

 

また、両脇の観音菩薩、勢至菩薩像もその姿の美しさは、静かに落ちつき、語りかけるようだった。

 

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不動明王は、「恐れや悪事を寄せ付けずに生きよ。」と言っているようだったし、毘沙門天は、「戦うからには、強くあれ。」と言っているようだった。

 

仏の顔には、和田義盛の顔の面影が入っているような気がする。運慶は、何度も和田義盛に会っているので、人柄や面影が造仏の中に入っているのでは、と思った。私の父も生前より仏師の方に頼んで、仏像を彫ってもらっていて、父の面影がその仏像の顔に入っているように思えるからだ。

 

浄楽寺には、2015年7月に訪問させていただいた。その時は、運慶の仏像はお彼岸のみの公開で見ることはかなわなかった。

 

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浄楽寺の運慶仏は、鎌倉幕府と奈良仏師運慶との強いつながりを今に残す数少ない貴重な仏像であり、五体すべてが保存状態もよいものだと思う。江戸時代に表面の金箔を修復しているそうだ。

 

和田合戦以降、和田の一族が鎌倉に二度と戻って来れなくなり、この義盛の阿弥陀如来を拝むことがかなわなかった。

 

今回やっと、義盛の残した仏像に手を合わせることが出来た。

 

追記 高知の土佐町和田訪問記

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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