2017年10月16日 (月)

About An Artist : 運慶

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チラシ、ポスターで夏前から楽しみにしていた『運慶』の展覧会。先々週金曜日、上野の東京国立博物館 平成館に行ってきた。

今回、私が特に期待していたのが、このチラシの右下の赤いお顔の像。和歌山の金剛峯寺の国宝 八大童子立像の中の制多迦童子。このアングルの表情がCARPの中崎投手の九回に登板した時の投げる前の真剣な表情と「そっくり!」と思っていて、実際この目で見たかった。

会場で目にすると、イメージしていた大きさよりも二周りぐらい小さかった。また、チラシの写真とは違う方向から見ると、別の表情を見せる。不動明王像に随侍する八体の像のうち6体が運慶によって1197年頃、作られており、その中の一体。他の像もどこかの誰かのようなお顔をして、それぞれ個性があり、見ていて自然と笑みがこぼれた。

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平安遷都1300年公式記念品 せんとくん と 伐折羅(ばさら)大将 (新薬師寺蔵 復元彩色) 

家に帰って、制多迦童子のことを話していると娘と息子は、「せんとくんに似ている!」と言っていたので、2010年に奈良に行った時のお土産をゴソゴソ見つけて、「それもそうだな。」と思う。髪型や装身具など。せんとくんは、東京芸術大学 大学院 文化財の保護修復 彫刻科の教授をされている籔内左斗司氏のデザインだが、髪型や装身具に仏像の決まり事がいかされているので、現代の作品だけれど、それらしく見えている。

隣の怖いお顔と勇ましい鎧の像は、薬師如来を守る十二神将のうち一神の像。東大寺を作った聖武天皇が病気になった時に光明皇后が病が治ることを祈るために建てた新薬師寺に収められている日本最古の十二神将。8世紀のもので、塑造であるが、日本でそれまでに誰も見たことがなかった像をよく作ったものだと今更ながら、驚く。

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運慶の作品を今回、寺院を離れ、像そのものを博物館で見ると、どこからこの形を生み出したのか?と単純に考えてしまった。

像のポーズは、腰をひねりあげ、その方向の脚に重心をかけ、反対側の脚は軽く突き出すポーズが多い。動きの途中の一瞬を固定したような感じだ。金剛力士像などもこのポーズだ。この大胆なポーズが、運慶仏の魅力の一つだ。

しかし、この発想はオリジナルなのかと言えば、そうではない。その源流を考えると古代ギリシャのヘレニズム期に表れた体をS字にくねらせたポーズにつながってくる。コントラポストというが、ギリシャから直接伝えられたということではなく、インド、唐を介してこのポーズも日本まで伝えられたのだ。

また、髪型、装身具、光背を見ると、インドのヒンドゥー教の神々との関係も明らかだ。そのつながりについて、調べてみた。

仏教は、今から2500年ほど前に釈迦が始めた宗教であり、仏像は、500年後,、起源1世紀頃、アレキサンダー大王率いるギリシャ、西アジア系の工人の子孫によって、ガンダーラ地方で初めて釈迦の像が造られた。最初は釈迦の生涯を伝えた内容が主だったが、インドの中で仏教が人々に浸透していくために古代インド神話の神や悪神、鬼神さえも釈迦の教えに触れ仏教の守護神になったとして、様々な神を取り込んだ。これがインド密教であり、またヒンドゥー教とも同根とされる。大日如来は、ヴィシュヌであり、不空羂索観音は、シヴァである。ヒンドゥー教では、釈迦をビシュヌの化身として取り込んでいる。

このインド密教は、インドでは4世紀から11世紀まで続くが、1203年イスラム教徒が最後のパーラ王朝を滅ぼし、根絶された。その間、僧により、中国 長安(唐)へ経典がもたらされ、サンスクリット語からの訳が行われ、インドブームが唐でも起こったというが、844年 弾圧を受け衰退した。よって、インド、中国にはほとんど今は、残っていないという。

しかし、日本においては、奈良時代から遣唐使などにより、経典や図像がもたらされ、新しい情報が伝えられた。日本では、仏教は到来した宗派は今でも残されているものが多く、日本は密教美術の遺産を今に伝えている場所と言えるそうだ。

734年の帰国した留学僧が持ち帰ってきた経典や仏像を情報として興福寺西金堂の阿修羅像など八部衆が乾漆造で作られた。また、東大寺法華堂の執金剛神像や四天王像(現 戒壇堂蔵)も塑造により作られた。これらは、天平彫刻の完成形とされ、運慶ら鎌倉仏師へ影響を与えた。

1150年頃奈良に生まれた運慶にとって、東大寺、興福寺は日本における最先端の仏像を目にすることが出来る場所であったし、父親康慶の仕事も手伝い、造形のセンスを磨いていったのだろう。

1180年の平重衡による南都焼き討ちによる東大寺、興福寺の再建に関しては、1194年頃から慶派仏師集団として尽力し、その技術とセンスを存分に開花させていった。

また、804年に唐に行った空海や最澄、合わせて8人の僧が持ち帰った曼荼羅や燃え上がる火焔を光背とした五大明王のイメージも日本に新たに伝えられたことより、825年頃より、空海は京都の東寺講堂に大日如来を中心とする立体曼荼羅の諸像の造立を企てた。この東寺の諸像の補修を1197年、運慶は、手がけており、密教美術の持つ神秘的な造形にも触れたということだ。

このように運慶の見てきたものイメージしたものを推測しながら、どうしてあの彫刻が生まれたのかを自分なりに追いかけてみた。

今回の展覧会の中で、運慶が亡くなる7年前に作ったという大成徳明王像があったが、小さな像で壊れている部分もある像であったが、それまでの運慶の作像のすべてのエッセンスを封じ込めたようなパワーのある印象深い像であった。

参考にしたのは、

『インド神話入門』 長谷川明著 新潮社刊
『日本美術の歴史』 辻 惟雄著 東京大学出版刊 
『日本美術史』 美術出版社刊
『特別展 神奈川県立金沢文庫80年 運慶 中世密教と鎌倉幕府』図録
『興福寺中金堂再建記念特別展 運慶』図録 
『寺院と仏像のすべて』 藪中五白樹著 フジタ刊
『奈良の仏像(上)』 関根 俊一著 フジタ刊
『奈良の寺々』 西山 厚著 フジタ刊 

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2017年3月21日 (火)

About An Artist : ミュシャの想い

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NHKで放送された番組からアルフォンス・ミュシャの大きな作品『スラヴ叙事詩』を搬入しているシーンを見て、「これは絶対行かないと!」と思い、国立新美術館で始まった『ミュシャ展』に行ってきました。
6月5日(月)まで。

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ミュシャの作品は、1983年の日本での大回顧展を通じて、パリでのポスターをはじめとするリトグラフの作品群、素描とその後のチェコスロヴァキアでの祖国での作品群を見たことがありました。若い頃は、デザイナーとして活躍し、世界中の人から賞賛された後、故郷のチェコスロバキアのために勢力を傾けた作品を作っていったことがわかる展覧会でした

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その時の図録中で今回の展覧会で見ることのできる大作(6m×8m)の前にミュシャ自身が座っている写真が掲載されていました。『1919年、プラハ・カロリナムにおける《スラヴ叙事詩》連作の最初の11枚による展覧会風景』と書かれていました。

この時のミュシャは、第一次世界大戦後、オーストリアの支配を離れ、チェコスロヴァキア共和国が誕生したことを本当に喜んでいた時期だと思います。

実際本当に大きく、絵の隅々まで何が描かれているのかじっくりみることが出来ました。画面に近づくと、ミュシャの筆跡を見ることができました。

画材は、テンペラと油絵の具となっており、どう使い分けているのかとも思いました。ベースが油絵の具で細かい部分がテンペラ(顔料プラス卵黄)?

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これは、1983年の展覧会の時に《スラヴ叙事詩》の習作が展示された時のものです。これを今回の本作品と比較すると、大方の構図と色調は、ほぼ同じですが、個々の人物のポーズや細かな衣装、髪型、群像の人数や配置が微妙に変更になっていることがわかります。

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《スラヴ叙事詩》のための人物写真がたくさん撮影されたということが、NHKの番組でも紹介されていました。私が思うには、習作でミュシャがイメージした人物のポーズや衣装を仮に決定しておき、実際に村の人たち(制作していたズビロフ村)に演じてもらい、写真に撮り、制作の参考にしたという順序ではないかな、と推測します。写真に方眼に線が入っているものもあり、拡大した跡が伺えました。

1983年の図録の中にミュシャの息子さんの文章がありました。
『父にとって写真を撮る主たる目的は、ポーズだとか衣装の襞だとかをしっかり記憶しておくことにあった。…』

印象派の出現の前に写真機が発明され、形の記憶が可能になった19世紀末、画家の写真の活用法は、人それぞれの手にゆだねられたと思いますが、ミュシャは、このように利用したようです。

しかし、ミュシャの写真を見ていると、写真そのものにも人間の魅力を引き出したものが多く、今でいうなら、売れっ子写真家にもなれそうな感性を感じます。

《スラヴ叙事詩》の発想の原点には、チェコの作曲家スメタナの交響詩『わが祖国』があったことを知りました。昨晩、それを聞きながら、《スラヴ叙事詩》に描かれた場面を思い出し、ミュシャの表現した世界と一体化していくのを感じました。

ミュシャの亡くなる前年、1938年、ヒトラーは、チェコスロバキアの一部に対して領土要求し、1939年侵攻。それにより、現在のチェコは、保護領としてドイツの支配下になりました。

ミュシャは、民族意識が強い画家としてゲシュタボに連行され、4か月独房に入れられ、それが元で肺炎になり73歳で亡くなりました。《スラヴ叙事詩》の中の作品『スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い スラヴ民族復興』は、未完成の作品となってしまいましたが、ハープを持った娘さんと息子さんが描かれてあり、メッセージを次の世代に伝えているように感じました。

その後、1945年チェコスロヴァキアはソヴィエトの保護下で再建されましたが、1968年のプラハの春に対する弾圧もあり、苦しい時代を重ね、1989~1990年のビロード革命と呼ばれる共産党による独裁政権が終わりました。1993年スロヴァキアが分裂し、今のチェコに至っています。

ミュシャの描いた理想の世界は、画家一人のものではなく、チェコの人々の目指す世界観でもあったわけで、画家として自分が出来る最大限の仕事を果たしたいと作品を残したのだと思いました。

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2016年9月23日 (金)

About An Artist : 鈴木 其一の『朝顔図屏風』

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『朝顔図屏風』部分

9月10日から六本木サントリー美術館で始まった江戸後期の琳派の鈴木其一の展覧会に初日、行ってきました。其一については、名前はなんとなく知っていましたが、特にメトロポリタン美術館から借りている『朝顔図屏風』について、2012年にNHKのBS『極上美の饗宴』で紹介されて以来、「この絵の本物をいつか、見てみたいな。」と思っていました。

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"Morning Glories"   Suzuki Kiitsu    1795~1858   (178.2cm×379.8㎝) 

本物は、美しかった。菁々(其一の50歳を過ぎてからの雅号とかけて)堂々としていました。

朝顔の大きさは、一つの花が手のひらをひろげたくらい大きく、ゆったりと枝葉を伸ばしていく様子は、植物の持つ生長のエネルギーをそのまま写し取るように描かれていました。

朝顔のつぼみの一つひとつを見ると、「これから咲いていくのかな。」と期待しながら本物を見るように其一の絵にもそういった楽しみを感じることが出来ました。葉の形は三列に分かれており、琉球朝顔と言って、旺盛に近年繁殖している宿根性のものとは違う日本朝顔の特徴を確認して安心したり・・・。

展覧会では、其一作品を一堂に集めて、時代別に展示していましたが、この『朝顔図屏風』は、其一晩年の作品であり、私には其一が「これからは、自分の好きなように描こう。」としたような自由さを持った作品に感じられ、今回の作品群の中でやはり一番印象に残りました。

其一のそれまでの絵は、酒井抱一の後継者として注文主のオーダーの範囲で忠実に描こうとしたような、几帳面な少し個性を押し殺した絵のようにも思えたので、この屏風絵の前に来た時は、開放感でいっぱいになりました。

『極上 美の饗宴』の番組の中で、其一は「垣根を本作では、取っ払っている。」、ということを言っていたように記憶しています。番組を録画して2回ぐらいは見たのですが、その後、番組は消されてしまったようで、確認できず、情報が不確かなところもあると思いますが・・・。光琳の根津美術館の『燕子花図屏風』も八ツ橋(湿地に咲く燕子花を鑑賞するための板橋)を省略した大胆な構図と八ツ橋つきのメトロポリタン美術館所蔵の『八橋図屏風』が存在するように其一も本来、つる植物にあるべき構造物を大胆に省いていることを取り上げていました。

また、光琳の『燕子花図屏風』へのオマージュとしての金地に群青、緑青、胡粉を用いての朝顔図。琳派の絵師たちが先人をよく研究していたことが配色を見てもわかります。

この朝顔の岩絵の具、『極上 美の饗宴』では、「銅の成分の多い岩絵の具」と言っていたようです。調べると、藍銅鉱 アズライト。岩絵の具の名前では、岩群青と呼ばれるもののようです。朝顔の花びらの表面は、膠の量が極力少なく、岩絵の具の粒子がぎっしり定着するように三回以上も重ね塗りし、ヴェルベットのような質感を出した、と紹介していました。

そのような話も思い出しながら、じっとアップで見たり、離れて全体を見たり、「いったいこれをどこにどんな時に飾ったのかな?」とか、思いながら見ました。

現在の持ち主はアメリカ ニューヨークのメトロポリタン美術館。それ以前は、其一のパトロンであった松澤家伝来のものであったということです。きっと、朝顔の咲く夏の頃に、この屏風を立てて、宴を催したのでしょうか。

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今回、絵はがきを購入してきたのですが、実は、家にある博雅堂出版より出版された『〔おはなし名画シリーズ〕 琳派をめぐる三つの旅 〈宗達・光琳・抱一>』にも其一は、最後の方に紹介されています。

やはり、本物は、大きさも質感も全然違いますし、ましてやニューヨークに一体いつ行けるかも私の残された人生の中で疑問なので、今回の展覧会は、非常に満足しています。Recommend !!! です。

それから、ジョージア・オキーフの朝顔のアップの絵も思い出した。いつこの朝顔の絵がニューヨークに渡ったのか確認できませんが、オキーフもニューヨークで見ていたような気がしました。

【追記】

他の方のブログ記事を読んでいたら、この『朝顔図屏風』の構図が『風神雷神図屏風』と似ている、という話がありました。
家の中で、買ってきた絵葉書を飾っていたら、その意味がわかってきた。

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これは、博雅堂出版の『琳派をめぐる三つの旅』の中の図版と『朝顔図屏風』を比較に置いたもの。
其一の朝顔の枝の動きと図版上から3番目の抱一の雲の流れが似ています。偶然というよりも明らかに右隻、左隻とも動きが同じところがいくつかあることを確認できます。

また、画面の切り方ですが、これは、図版一番上の俵屋宗達のものと似ています。2番目の尾形光琳、3番目の酒井抱一は、風神、雷神ともの屏風の中に収めています。

この違いについては、宗達の風神、雷神の姿の切り方は、動きの激しいモチーフを一瞬、とらえたような迫力を与えているように感じます。

逆にモチーフを画面にきちんと収めることについては、人間の几帳面さ、つじつまを合わせたいという思いがあってのことだろうと思います。

画面に入れる入れないの両者が出そろったところで、鈴木其一は、宗達のモチーフの切り方、取り込み方が「いいなぁ~。」と思って、朝顔の枝の動きを上部切った形に描いたのではと思いました。

琳派の技法の集大成、そして自分も『風神雷神図』を描きたいという気持ちで描いたと思いました。

この後、時代は西欧化の明治時代へ、鈴木其一の作品がしっかりと国内で評価される間も少ない中で、この作品も渡米となったと考えました。

追記を書き終えた10月2日昼頃、今日のNHKの日曜美術館が鈴木其一であったことに気づきました。残念!

今日の朝は、TVつけないでDebbusy聴いていた!来週の再放送は見よう。

【追記二】10月9日再放送の『日曜美術館』を見ました。そして、前日10月8日に録画していた『極上 美の饗宴』も家にあり、見れました。

新たにわかったことは、アメリカに『朝顔図屏風』が渡ったのは、1954年である、ということ。
それから、鈴木其一も風神、雷神を襖絵で描いていたこと。


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2016年5月 2日 (月)

About An Artist : 若冲好み

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Paeonia suffruticosa    at Ueno Toshogu Peony Garden      Apr.30.2016

お休みなので、朝から上野の東京都美術館で行われている『若冲展』に行ってきました。お天気も良かったので、私たちと同じく気合を入れてきた方が多く、長蛇の列。一時間以上並んで、入館。丁寧に彩色された若冲の作品群が並んでいました。ここ10年ぐらい前からでしょうか(正しくは2000年に京都国立博物館での『特別展覧会 没後200年 若冲』以来、東日本大震災後のプライス コレクションの公開などTVや出版物で盛んに紹介され、それを通して知っているかのように思っていましたが、本物は、見ていなかった・・・。今回の展覧会で私もやっと、若冲自らの筆跡をゆっくり味わうことができました。

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村上隆さんが紹介されていた辻惟雄先生の『奇想の系譜』は、数年前、文庫本になっているものを入手し、読んでおりました。この1970年に出版された本での紹介も若冲について詳しく書かれており、やはりおすすめの本です。

P7160997_2Lilium 'Passion' オリエンタリス系 カノコユリより作られた系統
若冲は、カノコユリLilium speciosumを描いている。

私が育ててきた植物で若冲の描いたものと似ている植物の写真を集めてみました。

植物が好きな私が本物を見て気づいたことは、描かれた植物の品種が江戸時代でもいろいろあったのだな、ということ。特に『動植綵絵』は、斑入りの花を多く描いていました。また、一重、八重の存在する梅も八重の梅というスタンダードではない方を描いていたりして、珍種を好んで描いた趣味が伺えます。光琳の梅と言えば一重の紅、白となるところを、若冲は八重の淡いピンクの梅を取り入れたりしていた。かなりの植物通。

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Ipomoea purpurea セイヨウアサガオ 斑入り 丸葉  
若冲の描いた青の斑入りのアサガオはIpomoea nil二ホンアサガオ 葉の形が三裂 江戸時代にアサガオの突然変異種のブームがあったらしい。

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Hibiscus syriacus 八重のムクゲ 赤い斑入り 
若冲は同じアオイ科の斑入りの芙蓉(フヨウ)を描いていましたが、それも白に赤い絞り模様。

絵画のモチーフとして、スタンダードなものを入れた時と、そんでない時の差は何だろうか?視覚的には、スタンダートなものが分かりやすい色、形であり、一目でそれとわかる。=人間、何が描いてあるかとわかるとそれ以上は見ない。反対に一見、それとは思えない色、斑入りや花びらの枚数の多い珍種が描かれていると、見る人は「あれっ、これは?」と思い、背景に描かれた植物もじっと見ていく効果をもたらしているような気がしました。

本人は、本当に珍種の妙が好きで、どうせ描くならと描いたのがそもそもの動機だと思いますが、それらを描くために若冲自身も植物の手入れをしたあるいは、開花時期を熟知して、そこに写生に出かける等、園芸家のような行動(私の行動とも同じ)もかなりあったのではと思わずにはいられません。

バラもあり、一重のものは、ナニワイバラのよう。これは、牧野富太郎氏が1704年から1711年に中国から輸入されたものが、大阪で紹介されたのでナニワイバラという名前になった、と記されているようで若冲も、いろいろなものが集まってくる京都にいたので園芸文化のトレンドもキャッチしながら画題に取り入れていったことがわかります。

描かれた植物は、今でも同じようなものが市場にあり、栽培できますが、どれもセイヨウ・・・とかいう交雑種になって、日本に里帰りした植物となっています。日本の植物が若冲以降、18世紀以降、西洋に紹介され、品種改良の元になっていったわけです。鎖国状態下の日本で愛されていた時の植物の姿を留めているとも言えます。

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アオスジアゲハ                                    

これは、やっと写真に収めたアオスジアゲハです。花壇の手入れをしていた時に撮影したもの。若冲もアオスジアゲハがシャクヤクの花にとまろうとしているところを絵に描いていました。ちょうど、展覧会の帰りに寛永寺の牡丹園で若冲の絵とそっくりのリアル体験をしましたが、本当に「あれっ!」と思うほどの瞬間の出来事でした。

写真に収めるのもやっとの一瞬の昆虫の動き(鳥、小動物も含めて)や風になびく植物の姿をとらえて書き留めた若冲の観察眼と執念はすごいものだと改めて感じています。

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そんな若冲の自然を追い求める姿が伺えて、今回の若冲展は、私にとって若冲のイメージをより深めてくれるものとなりました。

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2015年11月23日 (月)

Beautiful Things : ヤドリギのペンダント ライト

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だんだん冬に近づいてきています。ずっと前に東京たてもの博物館にある三井家の邸宅に行った時に「きれいだな。」と思って写真に撮っていたライトを紹介します。

このライトは、ヤドリギの形がライトのまわりにデザインされていました。ヤドリギの実の乳白色の透明感とガラスが重なり、スーッと冬の冷気を思い出させます。

本物のヤドリギは、一度花屋さんでみかけたことがありますが、あとはイギリスのインテリア雑誌の12月号に4ページものとても美しい写真が載っていたのを、その実の美しさに溜息まじりに見とれていたのが私のヤドリギの印象。
まるでライチーの果肉のような実がなんとも不思議。今回、ブログで紹介するにあたり、調べていくと、このライトはあのルネ ラリックの作品であるということがわかり、このライトがずっと心にひっかかっていたわけがわかった気がします。ラリックのもの作りの感性はやはり素晴らしい!!

三井八郎右衛門高棟が大磯の城山荘を建てた際に使われたライトのようで、2度の移築の末、今の場所にも使われているようです。

英語でヤドリギは Mistletoe といいます。

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Viscum album                                  Jan.2008

これは、北海道のニセコ近くで撮った写真。冬に北海道をドライブしていると、こんな景色をよく見ます。車から降りて、木に登って、ヤドリギを取って、その実を直に見たい衝動にいつもなりますが、そんなことは無理。

イギリスの雑誌の文章には、ヤドリギ Mistletoe について

『ヤドリギの下でキスすることは、古代ローマの祭り Satunalia に時代を戻すと、結婚の儀式に関係している。時代を越えて、ヤドリギは奇跡的なヒーリングの力を授けるポジティブな力を持つ植物とされている。

古代GaulやCelt ケルトではドルイドの僧は、ヤドリギを一月上旬に金の鎌で木から切ると、それを受けとった人に、繁栄をもたらす「聖なる植物」として、扱っていた。』

等のヤドリギの歴史上のいわれについて紹介していました。

植物学的には、ヤドリギは、寄生植物であり、その実には毒性があるそうです。実を食べた鳥はそれをすぐに排泄します。粘性のある状態で他の木の樹皮にくっつき、栄養をもらいながら、そこで生長するようです。

木字体にはダメージを与えない。

不思議な植物ですね。また、大昔の人もその魅力に気付き、別格扱いをしてきたということが、わかり、一層、木に登って、釜でヤドリギを切りたくなってしまいました。

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2015年10月16日 (金)

About An Artist : Monet

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瀬戸内海                             Aug.10.2015

東京都美術館で開催されているマルモッタン美術館所蔵『モネ展』に行ってきました。『印象、日の出』が10月18日までの特別出展ということで、「帰ってしまう前にやはり見ておこう!」と、朝一番に行きました。本物を見たのは、初めて。

本当にきれいでした。朝もやの中にオレンジ色の光が昇ってくる静かな時間の一瞬がそこには封じ込められていました。

写真は、娘が母の家の2階から見える瀬戸内海の日の出を撮ったもの。絵を見て、この時のことを思い出しました。眠いけれど、母と娘と私で静かな日の出の時間、3人でバルコニーに手すりにつかまりながらじっと見ていました。鳥が朝の挨拶をチチ チチッと鳴く声だけが聞こえていました。

間近に、近寄って見るための列に並び、しばし、向き合った。モネのササッと描いたタッチの交差し、きらめくのを見た時、確かにモネの肉筆であるという親近感を覚えた。

モネの『印象、日の出』は、時を越え、場所を越え、私にもちゃんと日の出の頃の空気や音や色の印象を呼び覚ましてくれました。

「そこが、この絵の魅力なのだ。」と本物を見てすこーんとわかった。「それぞれの心にある日の出の印象を呼び起こす作品なのだ。」と。

モネは、写真家のようでもある。空気中の水分の量で変わる光景の一瞬の美しさをモネというフィルターを使って
キャンバスに油絵具を使って、とどめようとした。現代の描画材料に比べ、乾きにくい油絵具、迷ったらもういいと思った光景は、変化しているはずだ。それに挑み続けたモネの制作姿勢は、そう簡単に真似のできるものではない。

作品の中で最もリラックスして絵の前で幸せな気分になったのが、作品No.69の『睡蓮』。白い睡蓮が美しい深い青紫色の池に浮かんで咲いていた。水面を描くタッチと睡蓮の花、葉が水平を感じさせるのに対して、オリーブ グリーンの柳の葉陰が垂直に水面に垂れている。その縦と横の交差と色の対比が絶妙。考えてみると垂直に描ける植物は柳しかない。柳の魅力は、そこだと改めて感じた。

200×190㎝の大型画面から発せられるモネの睡蓮の世界に久しぶりにどっぷりと浸ることが出来ました。オランジェリー美術館のモネの大壁画に囲まれた時の感動をちょっぴり思い出した。

今回の展覧会の多くはジヴェルニーの家にあった作品を息子さんがマルモッタン美術館に寄贈したもので、人目に触れるとはモネ自身も思っていなかっただろうな、と思う作品もあったような気がする。

モネの眼鏡とパイプ、パレットも展示されており、とりわけ眼鏡に関しては、白内障の手術後にそれぞれの目の状態に合わせて、レンズを入れてあった。苦労してもなお、筆を置くことはなかったモネの「絵が描きたい。」という願いを伝えるものだった。

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積丹半島                                   Jan.5.2007

モネのゆかりの深い場所を静かにいつか、訪れてみたい。ノルマンディー地方のエトルタを描いた作品群は、積丹ブルーと呼ばれる美しい海の色とベージュ色の崖が美しい北海道の積丹半島の景色にも似ているし、モネの絵は、日本人である私にも、なじみのあるモチーフが多い。

父が持っていて、生前に譲ってもらった本 『パリからの小さな旅』 稲葉宏璽著には、エトルタについての文章があり、そこにモネのことが書いてあります。

『…何度もここを訪れたモネは80点以上を制作。秋になって静けさを取り戻した海岸で制作を続けていたモネの、1885年の手紙には、「エトルタにはネコの子一匹いない。ただ、モーパッサンを除いては。昨日彼を見かけた……。そして翌年、モーパッサンは「モネは対象を前に、待ち、陽光と影を見つめ、落ちていく光や通過する雲を何筆かでとらえ、……素早くキャンバスの上に置いていった。私は、彼がこうやって白い断崖の上のきらめく光が落ちていくさまをつかみ取り、この目の眩む把えようのない光の効果を、奇妙な驚くべき黄色のトーンに定着していくのを見た……。
 日の出前から夜まで、時とともに移り変わるここの風景は、まさに印象派的なのです。』

この文章を読むと、その時のことが、目に浮かぶようです。

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2015年8月24日 (月)

Beautiful Things : 倉敷民芸館

Img_0806_2                                                     Aug.19.2015
かれこれ20年ぶりに岡山の倉敷に行ってきました。美観地区が近づくにつれて、わくわく。この日は、小雨。川面にたれる柳や萩が雨に濡れて一層、きれいに見えました。

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土蔵の続く美観地区の中に倉敷民芸館があります。今まで何度、訪れただろう。

パンフレットから

「民芸」とは「民衆的工芸」という意味で、大正末期に柳 宗悦らによって創られた言葉です。鑑賞を主な目的とする美術工芸品に対して、人々の暮らしの中で使われる丈夫で美しい品々のことを民芸品と呼びます。
 日常生活の中で使う物には、用途に直接結びついた美が備わっていると考えたところに「民芸」という考え方の特色があります。

なんと、清々しい物の見方なのだろう。民芸の美は、作りて手の奉仕の心、誰にも等しくその恵みをもたらす。
私にとって「民芸」をわかりやすく伝えてくれたのが、この倉敷民芸館であり、初代館長の外村 吉之介さんの言葉です。

写真の撮影をOKいただけたので、撮影させてもらいました。

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階段を上がると、蔵の二階の展示室。窓からもれる光が美観地区のタイムスリップしたような空気を伝えています。

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李朝(1392~1910年)のやきもの

白磁。お皿がふたになっているようです。椀とぴったりサイズがあっているところがていねいに作っているなぁとじっと見ていました。

NHK BSの番組 【温故希林 骨董(とう)珍道中 in ソウル】で樹木希林さんが日本民芸館にお勤めだった尾久彰三さんと骨董品を見に行く旅で、「韓国では、青っぽい白を好み、日本では、アイボリーっぽい白を好む。」という話を思い出しました。「これは、青っぽい。」

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倉敷ガラス

この倉敷ガラス、昨年夏、青山のベニヤ民芸店さんで見て、「あ~、倉敷に行きたい!」と無性に思ったガラス器。
今も昔も変わりなく、とろりとしたつやのある質感や、一つひとつ微妙に形が違うところが、人が作ったことをイメージさせます。

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この竹かごもパッと見て「すてき!」と思い、写真に撮ったのですが、よくよく見ると、かごの底面を補強するために幅広の補強の竹が縦芯に使われていたり、直接底面が床に触れないように角に丸い竹を使って、脚をつけているます。これこそ「用の美」です。

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染付の徳利

茶色に仕上がる呉須でさらっと絵付け。さらっと描くのにいったい、どれだけの絵付けをしたのでしょう。形もぽってりした胴とすっと細くなる首のあたりの自然なカーブがいいな。

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館内の壁にバウハウスの校長であったワルター グロピウスの文章が展示してありました。

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背もたれがはしごになっているラダーバック チェアやウィンザー チェアー、車輪の形がついているホイール バック チェアーなど、飴色を通り越して黒光りして美しい。娘がすぐに「座りたい!、座りたい!」と言ったのですが、展示品なので、やめておくよう言いましたが、本当は私も座りたかった。こんなセッティングの場所に入るとすっと座りたくなりますね。

他にも、私の心にビビっとくるものがいろいろありましたが、このぐらいで。

展示の仕方も多すぎず、かつ説明し過ぎず…といったところが、見るものを自由に解放してくれるような品々と空間でした。

我が家に久しぶりに戻って、即、「ものが多すぎる。」と反省。寝る前までせっせと荷物の片づけ、部屋の掃除をして、本日も食器棚の整理。私の中に倉敷民芸館訪問効果あり。

初めて倉敷に行った娘にも「『家にも同じようなものがあったな。』とか思った。」、「行ってよかったよ。」と何か今までとは違うものの見方を感じた様子。

初代館長の外村 吉之介氏の書かれた本「少年民芸館」を小学校の図書館で何度も熟読していた私にとって、倉敷民芸館は、初めて訪れた時からなつかしく、再び訪れたいと思う場所でした。

大学時代美術科の学生だった私は、ただ絵を描くことに疑問を感じていた時期で「ものをつくる」意味や「ものの価値とは」といったことを真剣に考えさせてくれ、導いてくれた場所でした。その考えは今もずっと影響を与えています。

外村氏の言葉で、私が何度も読んだ文章がホーム ページに掲載されていますので、リンクさせていただきます。民芸品の性質

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2015年5月 7日 (木)

Home Music : LA FOLLE JOURNEE

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                                                       May.3.2015
5月3日は、東京国際ファーラムで行われた『ラ フォルネ オ ジャポン』で行われたコンサートに行きました。これは、コンサートの後に見た東京駅と満月一日手前の月。寒くもなく、夜風が気持ちのよい夜でした。

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時々、国際フォーラムの横を通ると、何やら皆、わいわい屋台の料理を食べて楽しそうな雰囲気で、「何だろう?」と思っていました。
茂木健一郎さんの本を読んでいると、このフランスのナントからうまれた音楽のお祭りのについての話が書いてあり、仕組みがどうなっているのかわかった次第。

垣根の高いクラシック コンサートのイメージを変えるイベント。家族向けとなるようコンサートには3才からOKなどと明記されたものがほとんどすべて。一つのコンサートが約45分と短く、その分チケットもリーズナブル。

そして、演奏の質が高いことがこのイベントのはずせない部分だそうです。日本の演奏家の方を見ても、話題の方が出演されていることが分かりました。

クラシックコンサート初心者の私には、どこに行けばいいのか、迷いましたが、自分のスケジュールに合わせて、ぎりぎりチケットを取ることが出来ました。

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今回は、ショパンのピアノ コンチェルトを聴きたくて、このコンサートにしました。娘曰く、「のだめちゃんがヨーロッパデビューした時に演奏した曲」です。

娘が「オーケストラがすごく優雅な感じで演奏が上手だった。」と感想を言っていましたが、ピアノの小林愛実さんの演奏がそのバックの演奏と絡み合いながら曲が進んでいきました。

主人と姉と娘でコンサートを楽しみ、音楽が頭を離れないまま、月を見ながら食事をし、家路につく素敵な夜でした。
来年も行けそうだったら、早めにスケジュール表をGetして、真剣にどこに行くか決めたいと思っています。


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2015年4月14日 (火)

Visitng A Garden : Hiroshima Museum of Art

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ひろしま美術館は、街の中心地に近い場所ですが、ここを訪れると真夏でも緑陰が多く、静かな気持ちになれる場所です。数年前の時の写真ですが、ひろしま美術館の好きな場所を幾つか、紹介します。

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ひとつめは、ティー ルームから眺める株立ちのイロハモミジのある一角。ここからは、本館の白い壁とドームの緑青色の銅の屋根、マイヨールやグレコの地中海を感じさせる作品もゆっくり見えます。葉の色が透けて見えたり、スズメが遊びに来るのが見えたり、庭を楽しむことが出来るところです。

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この美術館は、原爆で人も街も文化も焼き付かされてしまった広島に美術を通して人々へ癒しをもたらしたいという願いから建てられた美術館です。設計にもいろいろな想いがあるそうです。例えば、丸い本館のまわりには、浅く水がはられています。本来ならば、美術品を展示する建物に湿気は要注意ですが、原爆の時に水を求めた人々がたくさんいたことから、その気持ちを鎮めるような意味で作ったそうです。

また、外界との間にある回廊は、まるで法隆寺の回廊を歩く時の気持ちに似ています。歩きながら、気持ちを鎮め、作品と向き合う心の準備をするような効果があるような気がします。

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円形の建物の内側の放射線状に展示室が配置されている空間は、最初の頃は、どの部屋から入ったのか、わからなくなったものですが、作品を鑑賞するのに、一つひとつを分け隔てなく、じっくり見ることが出来ると感じています。箱型の展示室とは違う鑑賞空間です。

ドームの中心からは、天窓からの自然光が入り、丸みのあるマイヨールの立像が置かれ、一部屋見終わるごとに、気分転換。

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Aescuhus × carnea

美術館の建物を出たところには、ピカソの息子 ポールさんから贈られたマロニエの木があります。私が学生時代に見た時より、子どもを連れて行った時は、より一層どっしり成長していました。パリのシャンゼリゼ通りに植えられているのもこの木ですね。葉がバサバサと大きく葉色が明るいのが特徴。大きく育てるといい木だと思います。

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Quercus robur

また、日本で大きくなっているのを見るのが珍しいヨーロッパ ブナも近くに植えてあります。いわゆるKing of Oakといわれるものがこの木です。元気そうで、夏の時期でしたが、どんぐりも一粒発見。

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実は、この木をデザインしたカーテンを我が家では使っているので、子どもたちに「これ、これ!」と言ってしっかり見せました。こちら

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美術館を出た右奥には、開館に向けて、ヨーロッパで見つけてきたという噴水がひっそりと置いてあります。これも水場を多く作りたいとの思いからであったことをあとから開館に尽力された方の本で知りました。

コレクションについても、いろいろ感想がありますが、今日はこのあたりで。


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2015年4月 5日 (日)

Beautiful Books : 美術の物語

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現在、この本の小さなソフトカバーの普及本が書店に並んでいるので、取り上げました。それを見て、思うのは、もし、本棚の余裕と予算があるのあらば、ハード カバー版がおすすめと思っています。普及版であると、図版が小さいので、この本の魅力が半減してしまうような気がしていまうからです。

図版のセレクトが、人類の文化の中で、絶対はずせないものが入れられています。ボッティチェリの『ヴィーナス誕生』やダ ヴィンチの『最後の晩餐』、ミケランジェロの『システィーナ礼拝堂の天井画』、そしてジャクソン ポロックのアクションペインティングは、ページが三つ折りになっており、24㎝×48㎝ぐらいに印刷され、家庭でも落ち着いた気持ちで、じっくり図版を見ることが出来ます。まったく知らなったものも多数あり。

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お気に入りのページは、私が子どもの時から、母が「お母さんの好きな絵はこれ!」と言って教えてくれたイタリアの1世紀ごろの壁画が図版となっているところ。何かの図版を指さして私に伝えた思うのですが、実家にも本なりの実体はありませんでした。覚えている私もまったくビジュアル系の脳をしているなと思いますが、なかなか、この絵を日本でフォーカスして見せているものは、少なかったと思います。

しかし、ゴンブリッチさんのセレクトに入っていました。描かれた女神の後ろ姿は、私にとって、野の花の好きな母のイメージと重なり、子どものころから「お母さんみたい。」と心の中で思っていた絵でした。あまりにも美しいので、お世辞にも面と向かっていえませんが・・・。
この本を通して、手元に残せたことがうれしい。「ほら、ほら」と母に見せたことがあります。

この本のもう一つの魅力は、歴史家であったエルンスト ゴンブリッジ氏が人間の歴史の流れの中で一人の人間がどんなことを思って、その作品を作っていったのか、ということをぐいぐいと氏なりの解釈で書き進めているところ。西洋だけでなく。中東に関しても詳しいし、日本についての記述もあります。

1950年に最初に出版されたので、その後の研究によって、新たな事実がわかったこともあると考えられますが、
少なくとも彼の解釈の中では、話しがまとまっており、「なるほど。」という読みやすい流れになっています。

美術史を学ぶ時にタイトルや作家名や時代、絵の内容を解説しているものもありますが、それだけでは、何か物足りないのです。どんなに大昔の人の作品であっても人間として共感できる部分を追いかけていきたいと思うのです。それをこの本は、書いていこうとしています。

Slow Reader + 本を入眠の道具にしている私にしては珍しく、美術検定のために勉強しながら、ほとんどのページを一気に読みました。まだまだ、若輩者の私にとっては、ここに書かれている多くが、分かっていないと思います。

しかし、展覧会にいった後など、「ゴンブリッチ氏は、あの時代の作品を何と書いているのだろう?」と自分の感想と比較して読んでみたくなり、何度も部分的に読み返しています。


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