About An Artist : 田中一村
Isson Tanaka 1903-1977 Tokyo Arts Musum Sep.22.2024
田中一村の絵を知ったのは、1984年のNHKで放送された日曜美術館であったと思います。子どものころから、日曜美術館をじっと見るのが好きでしたが、今までで印象に残った番組は、田中一村と香月康男(澤地久枝さん解説)の回と思っています。最近では、写真家の牛腸茂雄さんの回がテレビの前で号泣した回です。
学生時代、大学の油絵科の教授も本をアトリエに持ってきて、「アダンの海辺」などの絵を紹介してくれました。購入することはしませんでしたが、ただ一枚チラシに印刷された『アダンの海辺』を手元に置いてその魅力は、どこから来るのだろうと自分なりに読み解いていたように思います。私は、番組でその人生を知っていたので、二十歳そこらの自分には、田中一村の絵の境地に達するには、まだまだであることは、重々わかっていたような気がします。
今も思うのですが、縦長の画面にまずは、驚きました。油絵のキャンバスの縦横比は、3種類。日本の美術の歴史の中では、掛け軸の絵というものが縦長に描かれているので、一村からすれば、南画を描いていた時も含めてなじみのある比率だったと思われます。しかし戦後の美術を学んだ私にとっては、油彩画の3種類の比率のキャンバスのみが、画面であり、縦長に風景を切り取るということが、かなり斬新に思えました。
手前にはなじみのない植物の実が大きく描かれ、初めて見た時、「なんだろう?」と目が釘づけになりました。そして勢いよく広がる葉の形を見てのびやかな気持ちを味わいました。背景には、黄金色に染まり始めた夕方の光が雲間から天に向かって広がるのが見える一瞬が捉えられています。少し高台より海が見える場所で一日の終わりをほっとした気持ちで眺めているような気分にさせてくれます。
水平線上の消失点に近い位置にアダンの実があり、そこから、放射線状に広がって捉えていく視線の動きをもたらしてくれる構図となっています。本物の作品は、どこかで見た(東京都美術館?)と思いますが、今回、久しぶりにまた『アダンの海辺』を見て、感動をあらたに帰ってきました。
今回は、奄美大島に渡る前の作品も多く展示され、初めて見る作品が多かったです。
特に印象に残っているのが、『椿図屏風』(1931)などの赤い岩絵の具の美しさが際立っていた作品の数々。
斑入りのツバキと紅一色のツバキの茂みを金地の屏風の片方にいっぱいに描き、片方は、何も描かずに金地一色のみの屏風絵。葉が黒に近い緑をしていて、ぐっと赤を引き立てていました。ひっそりと自然に大きく枝を広げたその土地に自生するツバキを描いたような感じでした。
青龍社に入選を果たしたヤマボウシが天に向かって咲く中、鳥が木にとまっている様子を描いた『白い花』(1947)は、新緑のきらめきを表現した見事な作品でありました。
一村は、何でも描けるほど、絵が上手く、それを自分でもわかっていたから、並みの表現にとどまらず、『秋晴』(1948)は、日本画の画面には、珍しいほど、絵の具を盛り上げた表現をしています。また、金地に焦げ茶色の主木が途中で折れた欅の大木に、真っ白い大根が干されている描写は、単なる秋の景色としての描写ではなく、一村が肉親を相次いで亡くして心の軸が折れてしまったことを象徴した表現にも思えました。ただ、白い大根は、生の象徴であり、明日への希望にも思えます。この絵は、西洋の宗教画のような隠喩を含んだ表現にも思え、日本画のモチーフを超えた新しい試みに挑戦している作品だと思いました。この絵は、落選とされてしまいました。結局、その作品を理解してもらえなかったことで、自分から会との関係を絶つということをしました。
一方、自分を信じて、任せてもらえた仕事は、画家としてベストな仕事を残していると思いました。みんなに喜んでもらえることは、一村もうれしかったと思いました。襖絵、天井の板絵『薬草天井画』(1955)を見ていると、伊藤若冲の作品や琳派の作品とも重なってきました。
日本を代表する公募展である日展や院展では、落選。なぜだろうかと、家に帰ってから考えていると、家庭の事情で東京美術学校を2ヶ月で退学し、お金になる絵を描くことで生計をたてざるをえなかったというスタートにより、登竜門を外れた画家の作品は、画壇は、受け入れてはくれなかったのでは、と思い始めるとなんだか、暗いものを感じて悶々としてしまっていました。
認められていないという、一村の打ちひしがれた気持ちは、計り知れないものだったのです。
そして、奄美へ。染色工場で働き、清貧な暮らしの中で、自分が本当に心を動かされたものを描く、という暮らしの中、代表作となる作品が描かれていったのです。
展覧会の前書きにもありましたが、この個展が開かれている東京都美術館は、大正15年5月開館です。時を同じくして一村は、隣に位置する東京美術学校に通っていた頃で、この美術館の開館を知っていたであろうと思われます。ここは、一村ゆかりの唯一の東京の美術館ともいえます。田中一村の画業は、その後の多くの人が認めた結果であり、「最後は、東京で個展を開いて絵の決着をつけたい。」と遺した一村の思いが、時を超えてようやく実現したことは、私たちは、やるせない気持ちをこの展覧会で慰めることができると思いました。
亡くなった後に、残された自筆ノートに記されていた分が展覧会の最後に紹介されていました。
『良心に沿って生きる。』
歴史に残る作品は、時代が経ってもその作品に描いた人のエネルギーが宿っている作品。
今を生きる私たちにも伝わる魅力を持つ作品。
お墨付きとか、おすすめとかのみで、物事を判断することに終始していないか、もう一度、自分の心を澄ませて物事を見ていかなくては、と思っています。
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