2025年6月30日 (月)

About an Artist : イサム・ノグチ Isamu Noguchi

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The Isamu Noguchi Garden Museum,Takamatu    May.24,2025

 先月、香川県高松市牟礼にあるイサム・ノグチ庭園美術館に行きました。ずっと、いつか行ってみたいと思っていた場所でした。

いろいろな場所で作品や手がけた構造物を見ましたが、「ここを見ずして、イサム・ノグチを語るなかれ。」という思いがありました。

今まで出会った点在する作品をつなぐイサムの世界観をダイレクトに感じることが出来たと思っています。

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Peace bridge (1952),Hiroshima       Aug.2015

私は、父の仕事の関係で広島で生まれ育ちました。子どものころ平和公園に行ったり、その横にあった公会堂で演劇などを見に行くことが時々ありました。バスを降りて、イサムがデザインした平和大橋を渡りました。コンクリートに小石が混ざったざらざらとした手触りで陽に照らされてじんわり暖かくなった丸みのある欄干を触りながら歩くのが好きでした。観劇が終わった後は、暗い水面をのぞきながら、少し温もりの残った欄干を再び触って、帰りました。

橋の欄干の先は、反り上がっていて、先に半球のようなものがくっついている姿は、子どもの目から見ても斬新でした。橋は昭和27年に完成したものですが、私の記憶には、その頃見に行った大阪万博の太陽の塔と似ているな、関係があるのかなと思っていました。抽象という表現、原始の形、日本という土地を意識したコンクリートで大きく反り上がる曲線の橋が戦後まもなくここに作られたことは、その後の日本の構造物に大きな影響を与えたとことと思います。イサムは、抽象彫刻で有名なブランクーシの仕事を手伝ったこともあり、最先端の造形をここに見せてくれたのです。

「原爆でみな焼き尽くされたんよ。」と聞きながら、60~70年代、私が見ていた広島は、丹下健三氏による平和資料館や村野藤吾氏による世界平和大聖堂、基町の高層アパート群などが建てられ、モダンで斬新なデザインのものが新たに築かれていきました。復興のための特別な予算もかけられ、街はどんどん変貌していきました。

あまりの変容ぶりに投下後の写真を金属に焼き付けたプレートを付けた石碑が各所に設けられたことも覚えています。広島を離れた今となってそれは、夏休みに子どもたちを連れて帰った時、きれいな整備された街だけではなく、原爆によって広島の街がどんな被害にあったのかを物語ってくれ、歴史をたどるのに貴重なものだと改めて思っています。

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Peace bridge                 Aug.2015

*現在は、橋の幅が狭く、渋滞を起こしやすくなったため、写真の右側に歩行者用の橋が作られています。

私は大きくなるにつれて橋から見る川は、あの日多くの人が亡くなった川でもあることをイメージするようになり、ここからの眺めは鎮魂の念を抱かずにはいられなくなりました。また、この橋で、人が突然に「死ぬ」とは、どういうことなのだろうと考える場所にもなっていました。

最初、イサムが橋につけたタイトルは、"Ikiru (To live)"だったと広島市のホーム・ページで知りました。イサムのメッセージは「死」というものを意識して、「今をしっかり、生きていけ!」というものだったのです。

三宅一生さんも通学でこの橋を渡った思い出を語っており、世界に飛び出す勇気をもらったと語っていらっしゃいました。

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Kokeshi(1951)The Museum of Modern Art, Hayama  Oct.2021
                        

1994年に札幌テレビが制作放送した『静かなる熱狂 彫刻家イサム・ノグチと女優 李香蘭が愛した男の愛と苦悩の生涯・日米間で揺れる芸術家の魂 』を見て、イサムが平和公園の慰霊碑の設計を丹下健三氏に頼まれていたことを知りました。

その形を見てみたいと思って、時々、資料を探していたら、スケッチ、設計図、その時の話などが載っている本も出版され、かなり具体的なプランであったことがわかってきました。

2022年のNHKの番組『イサム・ノグチ 幻の原爆慰霊碑』では、随分、そのことを紹介していました。

当時の平和公園の整備の専門委員会でアメリカの落とした原爆で亡くなった人々の慰霊碑をアメリカ人の母を持つイサムの作品を採用することに反対の意見が出て土壇場でキャンセルになってしまったのです。

日本とアメリカの両親の元に生まれ、その間で苦労し、両国が戦った末、架け橋となるべく、いいえそれを超えて人間として鎮魂の気持ちを慰霊碑に込めて制作していこうとする気持ちを拒絶されてしまったのです。

戦後すぐの時代に芸術は言葉を超えて響くものであるという領分を持ち得ていなかったと思いましたし、今なら、覆す意見を言えるのか、ということも改めて考えています。

しかしイサムのビジョンは、もっと地球規模の世界を見ていたことは、確かなことでした。

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Moerenuma park, Sapporo                      Jan.2006

私は結婚して、主人の故郷である札幌に行くようになり、そこでイサムの作品に出会えました。大通公園の黒い花崗岩の『ブラック・スライド・マントラ』で子どもを遊ばせ、冬のモエレ沼公園の雪山を笑いながら登り、頂上から白い大地を眺め、そりで滑り下り、楽しみました。触れる彫刻、遊べる彫刻という要素がイサムの作ったものの最大の魅力だと思います。

それから、イサム・ノグチのAKARIのフロア・ランプも昔、使っていました。

現在、神奈川や横浜の美術館、東京の国立近代美術館にあるイサムの作品が置かれているので、時々挨拶するように近寄ってみています。そして、横浜にあるこどもの国にイサムがデザインした遊具があるということを今回初めて知りました。ここは、広大な公園で花見や子どもをポニーに乗せるために家族でよく行きましたが、イサムの遊具があったことは、知りませんでした。もしかしたら、子どもたちは遊んだかも!今度、孫が来た時に行ってみよう。

気が付けば、イサムの作品に見守られながら、私は人生を送ってきているようです。

そういった作品との出会いの中で、最も際立つこととなった作品が平和公園の中洲から川を渡って西に向かう西平和大橋です。

広島にいる時あまり、歩くことがなく、車で通ることが多かった橋でした。以前にもイサムのことを調べていた時、この橋の名前をイサムは多くの人が亡くなったこの土地で魂を送るという意味を込め最初 "Shinu(To die)"としていたことを知りました。仏教の西方浄土という言葉のイメージ、日の沈む方にあの世があるという考えとも重なり、広島もここを渡ると西に山並みがあり、だいだい色に染まる日没の景色とともに山の向こうに別世界があるように感じられる場所です。

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West peace bridge                                           May.2023                                                     

このことを知ってから、イサムのイメージした空間をもう一度見たいと思っていました。高速フェリーから見上げた時もありましたが、ある年の春先、路面電車を降りて、かつての路面電車が走っていたコースを歩いてみようと母と娘と一緒に平和公園に向かって東向きに歩いた日がありました。

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West Peace bridge                                    Mar.2023

徒歩で歩くのは、もう半世紀ぶりぐらいでした。欄干の柱頭は、曲がった角錐の先端を切った形。明らかに東の平和大橋とは、イメージを変え、欄干の桟も違いました。

その晩、「兄が亡くなった。」という知らせが翌日の早朝、入りました。

「あの時、兄が橋を渡りかけていて私たちと橋の上ですれ違い、別れを告げていったのかな。」と思い、受け入れがたい急な別れに対して、こう考えることで、少しでも心の整理をつけようとしてきました。

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The Isamu Noguchi Garden Museum,Takamatsu May,2025

今回訪れた高松の庭園美術館では、イサムが最善の形を模索しながら二度と彫りなおしのできない、簡単に動かすことができない石という素材に向かっていた覚悟、気迫、魂を感じました。

そして、言語を超えて万人の心に響く作品を目指して格闘していたことが、アトリエや石置き場の様子からもわかりました。

牟礼という場所は、源平合戦の屋島の戦いの舞台になった場所。それを挟むように東西を地質も山容も全く違う山に挟まれていました。

イサムが大好きだったという背後の高台からは、屋島の山際の向こうに瀬戸内海の青い色の水平線が望めました。

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My sketch in The Isamu Nouguchi Garden Museum     May.2025

ここは、2つの違いを統合する、包み込むことを願ったイサムの生き方と重なる場所でした。

 

これまでの私の人生でイサム・ノグチの作品から受け取ってきたメッセージは以上です。

もし、残りの人生の中でアメリカに行き、ノグチの作品を見ることができたら、光栄なことだなと思っています。

 

参考文献 『イサム・ノグチ 宿命の越境者(下)』ドウス昌代著 講談社刊     

     『石を聴くーーイサム・ノグチの芸術と生涯』ヘイデン・ヘレーラ著 北代美代子翻訳 みすず書房刊

映画  『レオニー』2010年公開 松井久子監督 

 

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2024年9月30日 (月)

About An Artist : 田中一村

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Isson Tanaka 1903-1977     Tokyo Arts Musum Sep.22.2024 

 田中一村の絵を知ったのは、1984年のNHKで放送された日曜美術館であったと思います。子どものころから、日曜美術館をじっと見るのが好きでしたが、今までで印象に残った番組は、田中一村と香月康男(澤地久枝さん解説)の回と思っています。最近では、写真家の牛腸茂雄さんの回がテレビの前で号泣した回です。

 学生時代、大学の油絵科の教授も本をアトリエに持ってきて、「アダンの海辺」などの絵を紹介してくれました。購入することはしませんでしたが、ただ一枚チラシに印刷された『アダンの海辺』を手元に置いてその魅力は、どこから来るのだろうと自分なりに読み解いていたように思います。私は、番組でその人生を知っていたので、二十歳そこらの自分には、田中一村の絵の境地に達するには、まだまだであることは、重々わかっていたような気がします。

今も思うのですが、縦長の画面にまずは、驚きました。油絵のキャンバスの縦横比は、3種類。日本の美術の歴史の中では、掛け軸の絵というものが縦長に描かれているので、一村からすれば、南画を描いていた時も含めてなじみのある比率だったと思われます。しかし戦後の美術を学んだ私にとっては、油彩画の3種類の比率のキャンバスのみが、画面であり、縦長に風景を切り取るということが、かなり斬新に思えました。

手前にはなじみのない植物の実が大きく描かれ、初めて見た時、「なんだろう?」と目が釘づけになりました。そして勢いよく広がる葉の形を見てのびやかな気持ちを味わいました。背景には、黄金色に染まり始めた夕方の光が雲間から天に向かって広がるのが見える一瞬が捉えられています。少し高台より海が見える場所で一日の終わりをほっとした気持ちで眺めているような気分にさせてくれます。

水平線上の消失点に近い位置にアダンの実があり、そこから、放射線状に広がって捉えていく視線の動きをもたらしてくれる構図となっています。本物の作品は、どこかで見た(東京都美術館?)と思いますが、今回、久しぶりにまた『アダンの海辺』を見て、感動をあらたに帰ってきました。

今回は、奄美大島に渡る前の作品も多く展示され、初めて見る作品が多かったです。

特に印象に残っているのが、『椿図屏風』(1931)などの赤い岩絵の具の美しさが際立っていた作品の数々。

斑入りのツバキと紅一色のツバキの茂みを金地の屏風の片方にいっぱいに描き、片方は、何も描かずに金地一色のみの屏風絵。葉が黒に近い緑をしていて、ぐっと赤を引き立てていました。ひっそりと自然に大きく枝を広げたその土地に自生するツバキを描いたような感じでした。

青龍社に入選を果たしたヤマボウシが天に向かって咲く中、鳥が木にとまっている様子を描いた『白い花』(1947)は、新緑のきらめきを表現した見事な作品でありました。

 一村は、何でも描けるほど、絵が上手く、それを自分でもわかっていたから、並みの表現にとどまらず、『秋晴』(1948)は、日本画の画面には、珍しいほど、絵の具を盛り上げた表現をしています。また、金地に焦げ茶色の主木が途中で折れた欅の大木に、真っ白い大根が干されている描写は、単なる秋の景色としての描写ではなく、一村が肉親を相次いで亡くして心の軸が折れてしまったことを象徴した表現にも思えました。ただ、白い大根は、生の象徴であり、明日への希望にも思えます。この絵は、西洋の宗教画のような隠喩を含んだ表現にも思え、日本画のモチーフを超えた新しい試みに挑戦している作品だと思いました。この絵は、落選とされてしまいました。結局、その作品を理解してもらえなかったことで、自分から会との関係を絶つということをしました。

一方、自分を信じて、任せてもらえた仕事は、画家としてベストな仕事を残していると思いました。みんなに喜んでもらえることは、一村もうれしかったと思いました。襖絵、天井の板絵『薬草天井画』(1955)を見ていると、伊藤若冲の作品や琳派の作品とも重なってきました。

 日本を代表する公募展である日展や院展では、落選。なぜだろうかと、家に帰ってから考えていると、家庭の事情で東京美術学校を2ヶ月で退学し、お金になる絵を描くことで生計をたてざるをえなかったというスタートにより、登竜門を外れた画家の作品は、画壇は、受け入れてはくれなかったのでは、と思い始めるとなんだか、暗いものを感じて悶々としてしまっていました。

認められていないという、一村の打ちひしがれた気持ちは、計り知れないものだったのです。

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そして、奄美へ。染色工場で働き、清貧な暮らしの中で、自分が本当に心を動かされたものを描く、という暮らしの中、代表作となる作品が描かれていったのです。

 展覧会の前書きにもありましたが、この個展が開かれている東京都美術館は、大正15年5月開館です。時を同じくして一村は、隣に位置する東京美術学校に通っていた頃で、この美術館の開館を知っていたであろうと思われます。ここは、一村ゆかりの唯一の東京の美術館ともいえます。田中一村の画業は、その後の多くの人が認めた結果であり、「最後は、東京で個展を開いて絵の決着をつけたい。」と遺した一村の思いが、時を超えてようやく実現したことは、私たちは、やるせない気持ちをこの展覧会で慰めることができると思いました。

亡くなった後に、残された自筆ノートに記されていた分が展覧会の最後に紹介されていました。

『良心に沿って生きる。』

歴史に残る作品は、時代が経ってもその作品に描いた人のエネルギーが宿っている作品。

今を生きる私たちにも伝わる魅力を持つ作品。

お墨付きとか、おすすめとかのみで、物事を判断することに終始していないか、もう一度、自分の心を澄ませて物事を見ていかなくては、と思っています。

 

 

 

 

 

 

 

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2024年6月22日 (土)

About An Artist : オラファー・エリアソン

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『相互に繋がりあう瞬間が協和する周期』 Olafur Eliasson 2023

 今年3月、麻布台ヒルズギャラリーの開館記念として開催されたオラファー・エリアソンの展覧会に行ってきました。横浜トリエンナーレでも作品は見たことがあったのですが、個展としては、初めて。また2020年の東京都現代美術館での展覧会もあったのですが、日曜美術館で紹介された番組を見ただけでコロナ下ということもあり、出かけていませんでした。とにかく、「自分の目で見ておかなくちゃ。」と思いで行って来ました。

すでに展覧会は終わっていますが、麻布台ヒルズの最も高層のビル"Tower"の吹き抜け空間に常設でモビール作品が展示されていますので、興味がある方は、それをご覧になれば、彼の作品の壮大なイメージに触れることが出来ると思います。

このモビールは、合わせて4つあり、大型で自由な軌線を描き、また繋がっているという形をしています。映画で見た宇宙空間に漂う物質が軌道上に並んでいる様子にも思えます。一つひとつの多面体が隣の形とつながっているという非常によく考えられた構造なのですが、全体の動きがのびやかで頭上にあっても圧迫感がないモビールでした。

素材はリサイクルされた亜鉛で作られているそうです。亜鉛を型に入れて作った鋳造作品だと思いますが、なぜ、エリアソンが亜鉛にこだわっているのかが気になり、調べてみました。すると、亜鉛は、「沸点が低く、気化しやすい。」性質なので、大気中に最も多く存在している金属なのだそうです。人間が亜鉛を採取し使うことで工場からの排煙、車の排気ガス、摩耗したタイヤの粉塵から放出され、大気中や海洋においても有害物質となっているのだそうです。そのことをふまえ、エリアソンは、人間が亜鉛を使うことは、最終的には、人間の肺に吸われるのだということを考え、この作品に塊の形に戻すことで、人間由来の放出を少しでも減らせる、と使ったようです。

科学的な意味がしっかりあっての作品であることが分かりました。

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『呼吸のための空気』   Olafur Eliasson       2023

 展覧会で特に印象に残ったものも、亜鉛で作られたモビールの作品。今、題名の意味がようやく理解できるようになったところなのですが、会場にぶら下げられ、ゆっくり回るのだけれど、人が予想している形とは全く違う姿をにゅるにゅると見せて動くので、しばらく見ていた作品。

知っている二重螺旋構造のような形かな、と思いきや2本のパイプ状の金属が自由な曲線で渦を描きながら絡み合い、離れ、そしてどこかでつながっていて、また戻ってくる形をしていました。

床に映る影も変化して、揺らぎを感じるとてもきれいな形でした。

 最後の部屋には、エリアソンの作品がのっている本やインタビューの映像が流れていて、彼がアイスランド系のデンマーク人であり、子どもの頃から火と氷の島であるアイスランドの自然に触れる機会が多くあったことで、それを自分の作品に活かしていきたいと考えているかを語っていました。また、環境問題や社会問題に対して、彼がその時々でどうとらえ、考え、人にそれを伝えるための作品にしていくプロセスを大事にしているかも知ることができました。

彼の作品は、世界各地でその場所に合わせて考え、作られ、展示され、見る人に地球環境の貴さ、美しさを再認識させ、地球の環境の変化が危ぶまれる今、一人ひとりに問題を投げかけるアーティストとして評価されてきています。

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2024年6月17日 (月)

About An Artist : シアスタ―・ゲイツ展 アフロ民藝

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Theaster Gates AFRO-MINGEI     Mori Art Museum

 NHKの日曜美術館の展覧会の紹介コーナーで知った六本木 森美術館で開催中のシアスタ―・ゲイツの展覧会に行ってきました。

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A Heavenly Chord                                                        2022 

会場の入り口には、この作品展についての彼の序文があり、彼の考えが語られていました。ゆっくり一読して会場に入ると、彼が作った彫刻作品や壁面に飾られた立体作品、インスタレーションでその展示空間に合わせて再構成されたものがありました。よくよく見ていくと、それは、人々が踏みしめてきた床材で作られた十字架であったり、多くの人が祈りを捧げるために集った教会の椅子と讃美歌を歌うために使われたハモンド・オルガンやスピーカーであったり、彼がその時々に出会った捨てられそうなものを「意味のあるもの」として見出し、再構成した作品でした。会場の床は、この展覧会のために常滑で焼かれた微妙に焼き色が違うレンガタイルが敷き詰められていました。

 彼は、1973年、シカゴで生まれのアフリカ系アメリカ人。大学で彫刻と都市計画を学び、2004年、愛知県の常滑市で陶芸を学ぶために来日。様々な文化への理解を深める中で、特に日本の柳宗悦による民藝運動「無名の工人たちによって作られた日常的な工芸品の美しさを称える運動」が、60年代、70年代、80年代のアメリカでの ”Black is beautiful” というスローガンの元、西洋中心主義の中で自分たちのアイデンティティーであるブラック・カルチャーを自分たちが大事にしていこうとする運動と重なったといいます。それ以来、自分が陶芸の作品を作るだけではなく、今までの自分たちの文化を発掘し、再評価し再構成していくという過程を通した作品を発表しています。

彼の活動を紹介したパネル展示の中で、感心したのは、自分の作品を売ったお金で、シカゴのサウス・エンド地区の取り壊される建物を買い取り、本を収集して、本棚を作り、地域の人が集まる図書館のようなコミュニティー・スペースを作り出していったというプロジェクト。これが最初で、その後もこの地区には、少しずつ、資金を作っては、そのようにそこに住む人たちのためのスペースを作っていったそうです。

芸術がアーツと日本でも呼ばれ、テレビに映って歌う人を「アーティスト」と呼ぶようになって、何か大衆に受け、お金を稼ぎだしている人が「アーティスト」となっていることに、違和感を感じていましたが、彼の活動は、まったく違います。同じ人間として見習うべき部分がたくさんあります。いつの時代でも人間が目指してきた「人々が日々を幸せに暮らしていける世の中を作りたい。」という目標のためのアーツなのです。

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Black Library & Black Space

 展示室の天井高いっぱいまで使って作られた無垢板の本棚も、圧巻でした。思わずいいな、と思い近づくと、「自由に取って読んでいいです。」というメッセージが書かれていたので、私は、いくつか私にとって面白そうな本を、引っ張り出してみました。それは、焼き物のテクニック本で釉薬の化学的組成をレシピのようにまとめた本でした。それを見て、「釉薬の配合を変えて、焼き物を作ってみる、なんてことをやってみたいな。」なんて思ったりして、一気にまた新しい世界の扉が開かれたような気がしました。

この本は、亡くなった人の蔵書を彼が収集、保存し、彼自身もそこからヒントを得たり、多くの人に図書館のように閲覧できるようにしているコレクションでした。わざわざ、アメリカから膨大の数の本を森美術館の53階まで上げているわけですが、その昔の本は、アメリカのブラック・カルチャーを形作ってきた一翼を担うものであるし、誰かの生きていくヒントにもなった本として愛読されたもの。これから手に取る人にも何かのヒントになる可能性を持つものとして、これを保管公開し、作品として位置づけていました。

これは、まさに中国の孔子の『古きを温めて新しきを知らば、以って師となるべし』という言葉を具現化したような本棚。

 「年表」の展示では、アメリカ史と日本史の出来事と民衆の運動、工芸に関わる事項が組み合わされた形で作られた年表でした。特に印象に残ったのは、日本の民藝運動の動き、アフリカ系アメリカ人の運動の歴史が書き込まれている所。民藝運動の歴史のみをまとめた年表ではなく、ミックスさせた形で見ると、今まで自分が気づかなかったことに気付いたような気がしています。それは、今まで日本の「民藝運動」は、西欧化の反動、機械化による大量生産への警笛と考えていました。しかしそれだけではなく、日本が軍国主義に傾き、諸外国との戦争の中で両方の人間の生命が脅かされる異常な状況への反動として生まれた思想であったのではということに気付きました。きな臭い状況と時代が重なっていると思いました。戦国時代に殺伐とした戦の中、心の平安を求めるべく、真逆の文化であるわび茶を千利休が大成していったのと、同じような動き。柳らの民藝運動は美しいものを集める趣味的なものではなくて、ものを作った一人ひとりを、人間の命を大事にするという意味をも隠し込めていた運動であったのではないかと思うようになってきました。

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最後の部屋は、亡くなった常滑焼の陶芸家の方の持っていたその方の膨大な作品を保存展示した棚があり、何やら重低音のイケイケ・ビートの効いた音楽が流れ、キラキラオブジェが回る昔のディスコ (クラブ?行ったことがないけれど)のような空間でした。しかし、バー・カウンターの裏の棚には江戸時代の日本酒の徳利が天井まで並ぶ渋いコーナーになっていました。一つひとつがろくろ作りで作られ、名が筆文字で書かれていました。名もない工人の手仕事によって機能的に作られたお酒を入れるのにちょうど良い徳利の膨大なコレクションが飾られたミックス・カルチャーなこの場所は、私達自身が忘れてしまっているこの日本で懸命に生きた人々の技を今に伝えるものでした。

アーツとは本来、人が記憶をたどりながら、手を動かし、新たなものを作りだすこと。そして、それを見た人の記憶を呼び覚まし、共感を呼ぶもの。

 

 

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2023年12月 4日 (月)

About An Artist : David Hockney

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 11月5日まで東京都現代美術館で行われていた『デヴィッド・ホックニー展』に10月に行ってきました。コロナ下ですっかり美術館に行けないことに慣れてしまいましたが、この展覧会だけは「行こう。」と思っていた展覧会でした。

ホックニーを知ったのは、私が美術科の学生になった頃。図書館にあった『美術手帖』で見たのかな。そして池袋のSEIBU美術館で初めて作品を見たような気がします。

とにかくその当時、生きている人たちの作品で日本では、まだ真価が定まらないので公立の美術館はその頃は、展示していませんでした。

私は、ほぼ正方形に近い、額装もシンプル、厚みも薄い、リキテンシュタイン、ウォーホール、ホックニーなどの作品を見て、その時代の新しい作品を目の当たりにしました。学生でお金もないので図録などは、買えず、しっかり目に焼き付け、エネルギーを受け止め、うきうきして帰ったことを覚えています。それらの作品は、まだ日本で解説したものが少なく、Tom Wolfe の"THE PAINTED WORD"の日本語訳『現代美術コテンパン』(晶文社刊)や『アメリカン・アート』石崎浩一郎著(講談社現代新書刊)などがアメリカでの美術の動向を解説するもので、熟読していました。

20世紀の美術は作品だけを見ると、「なんでこうなっちゃったの?」という感じで展開していきますが、当時の背景を知ることで「なるほど。」と分かるわけですが、「だれのため?」と考えると、必ずしも「人のため」の美術ではなくなり、自分を認めてもらいたい欲求だったりします。そうなると「どうぞ、ご勝手に」と大衆からは、見られたりしていました。で30年ぐらい経ってその人たちの突っ張った作品もやっと大衆に受け入れられ、Tシャツの絵に使われたりしています。30年くらい平気で先を行っているという表現が正しいのかな。

ホックニーを初めて見た時、子どもの頃、きれいで好きだった、プールの水面に揺れる不定形の輪をつないだような光の形を作品に取り入れていたことで、「うまいな~!」なんて、思ったことを覚えています。

芝生でスプリンクラーが回っている作品も子どもの時の体験を思い出しました。水しぶきに当たって「気持ちいい!」とか。

リトグラフの作品だった思いますが、油絵の重厚さに比べ平面的で軽く、色彩は明るく、カジュアル。作品を見て「楽しい!」という気持ちを呼び起こしてくれたような作品であったことを覚えています。

そういった点で、新しく、自分の木版画やシルク・スクリーンの制作では、「何となくホックニー」的なのほほんとした作品を作ったりしました。ですから、結構、影響を受けておりました。その後、私は就職、結婚、育児に追われ、ホックニーのその後の活動は、知らなかったのですが、子どもが中学生になった時、ホックニーのコラージュの作品が資料集に取り上げられていて、作風が変わったことを知りました。一枚の写真のように人間は空間を把握していない、絶えずあちこち、視点を動かして、空間を私達は把握している、だから、こんな作品を作ってみました、というような実験的なコラージュ作品でした。

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2017年 大英博物館で行われた"Hokusai : Beyond the Great Wave" という北斎の展覧会に合わせて撮影されたドキュメンタリー映画にホックニーは、解説者のように出演。彼自身が北斎のことを画家の視点で語っていました。そこで日本の美術にも精通し研究熱心な人であることを知り、より尊敬するようになりました。

そして今回の作品展で、ホックニーが人生をかけて研究している「人は空間を平面にどう表現してきたか、またその新しい方法とは?」をまた見させてもらえ、実りの多い展覧会でした。

ちょっと、じわっと感動したのは、ホックニーがお母さんの肖像画を描いた『My Parents』という作品でした。自分も学生時代、何をキャンバスに描くか悩んだ挙句、家族一人ひとりをスケッチし、それを組み合わせて油彩画にしました。その時の気持ちは、「これ以上ない感謝の気持ち」からでした。

ですから、ホックニーが両親の肖像画を一世を風靡したロサンゼルスの作品群の後に描いていたことに自分の最も大事な家族の絵を愛情を持って描いていたことにとても人間的なものを感じました。

また、9つのカメラを車に乗せて微妙に視点と視線が違う同時撮影の道沿いの森を写した動画のコラージュ4作品は、自分がその道を本当に散歩をしているように感じさせてくれました。鳥のさえずりで樹の上の方を眺めたり、光に透ける葉の輝きを眺めたりしながら、あちこち視点をずらしながら、人が五感で空間を感じる気持ちよさを疑似体験しているようで、「またもやうまいことをするな!」と会場で笑ってしまいました。

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ホックニーの「水」の表現への探求も印象に残りました。1971年に日本に訪れた時の感想が載った本が会場の一角にありました。そこに『(その当時の日本の風景が浮世絵に描かれていた)イメージした景色とは違って(工場が立ち並び)、がっかりした。』というような記述があるのですが、『それでも日本の絵の水の表現方法は、素晴らしいものがある。」と書いてあり、ホックニー自身も「水」の表現、プール、スプリンクラー、雨、水たまり,池などの表現に今もこだわっていることがiPadで描いた作品からも伺えました。

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渋谷のBukamuraの本屋さんが閉まる前に「この本は買っておこう!」と買い求めたホックニーの『絵画の歴史 洞窟壁画からiPadまで』は、まだ読破できていないのですが、今回また、美術館で『春はまた巡る』(いすれも青幻舎刊)を買ってしまいました。

ただでさえ、Slow readerなのに、老眼も加わりどうやって本を読もうか悩む今日この頃ですが、、ホックニーのまなざしや考えを追体験しながら、読んでいきたいと思っています。

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2023年11月26日 (日)

About An Artist : レオナール・ツグハル・フジタ

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左から『三王礼拝』『十字架降下』『受胎告知』 1927年 ひろしま美術館蔵

 ひろしま美術館にあるレオナール・フジタの絵。私が美術の学生だった頃見たフジタの最初の絵であり,作者の願いと共にひろしまの地にあると思ってきた作品。

その頃の私はフジタの名前にどうしてレオナールとつくのかわからなかった。「この人はどんな人だったのだろう?」と思いながらも絵の表現しているものが聖書のシーンであることは、自分の想像していたシーンと重なり、すっと理解できた。

とにかく細い、迷いのないすーとした墨で描かれた輪郭線。こんなに自信を持ってシンプルな線をひけるなんて!とその潔さに驚いた。それを引き立てる白い肌の色。平面的なようで、薄墨で陰影をつけている。

私の家には、集英社の大判の西洋美術全集があって、今程子どもの娯楽もなく暇なときは、一人で画集を開いては、じっと見ていた。それがあってだと思うが画家ごとのタッチや色使いを感覚的に分類できるようになっているのだが、この日本人の画家のタッチや白い肌の色は、私にとっては、逆に珍しかった。むしろ、学生時代私自身が日本美術に疎かった。

「受胎告知」やクリスマスの晩の場面もあるが、とにかく中心のキリストの姿と悲しむマリア達の姿が傷ましい。

背景の仕上げが屏風絵の金箔を貼った仕上げになっていることや3枚のキャンバスが並んで、展示されていることで、屏風絵をみているように感じていた。学生時代、画題に迷い,かつての画家たちの作品を貪欲に見ていた自分には、何度も見た3枚の絵が私の中では、フジタの代表作なのにほとんど、その情報がないまま時間が経っていた。

「何がきっかけでこの絵を描いたのか?」ということが引っかかってきた。

ここ15年ぐらいであろうか、ずい分フジタに関する研究も進み紹介されるようになり、美術館や映画『foujita』、テレビ、随筆集によって、フジタの人生について知ることが出来るようになった。でも、あの3枚の絵について取り上げたものはなかった。

昨年、ポーラ美術館に行った時にフジタの展覧会の図録の見本をぱらぱらと立ち読みさせてもらった。「あの絵についての話はないか?」と探していた。すると、フジタがフランス滞在中、気に入った絵があり、それを見るためにその絵のある場所に1ヵ月滞在したという話が載っていた。

「もしや、?」と思い自分の手帳にその絵の名前を控えた。『アンゲラン・カルトン  ヴェルヌーブ・ザヴィニョンのピエタ 1455年 ルーヴル 1ヵ月滞在』と。

これを頼りに、家でルーヴル美術館のサイトで出てきたのが、

F0082_Louvre_Pietà_de_Villeneuve-lès-Avignon_RF_1569_rwk_B.jpg (4056×3018) (wikimedia.org)

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Pietà_de_Villeneuve-lès-Avignon_ 1455    Enguerrand Quarton  Louvre 

この絵が出てきた。「これだ!」と思った。

フランスのアヴィニヨンの教皇庁があった場所の対岸の場所の地名が Villeneuve-lès-Avignon であり、そこにあったピエタ(キリストの遺体を膝に抱いて悲しむ聖母マリアの図像)という題名がついており、現在ルーヴル美術館に収蔵されている絵だった。

1455年といえば、油彩画自体が珍しい頃。油彩画の創始者と言われるヤン・ファン・エイクが『ゲント祭壇画』をネーデルランド(今のベルギー)で油彩画で描いたのが1432年。ちなみにダ・ヴィンチが板に油彩で『モナ・リザ』を描いたのが1503年。

この絵のマリアやキリストの顔を見るとビザンティン美術のように人物の描写や光輪を描くことなどに形式があるようにも見えるが、その他の人物には自然なグラデーションで陰影をつけ表現できる油絵の具の特性をいかし、人物が写実的に個性的に描かれている。左の人物がネーデルランドの寄進者だそうだ。背景の金色は、人物をくっきりと引き立てながら、空間が広がっていくように見せている。遠くに描かれているのは、コンスタンティノープルの聖ソフィア寺院。1453年にビザンツ帝国がオスマン帝国に占領され、東のキリスト教国の終焉という歴史が実際にあったことを嘆いている姿にも重なっているようだ。

それまでキリスト教では、布教のためにモザイク画やフレスコ、テンペラで聖書の話を視覚化させてきているが、この頃になると画家が独自に構図やポーズに工夫を加えながら描き始めている様子がうかがえる。

そういった型にはまらない自由さをフジタはこの絵に見出し、気に入ったのかもしれない。

フジタは西洋の美術に触れながらもそのまま取り入れるのではなく、自分は日本人であるという独自性をはっきりと打ち出した作品を描き、認められたことを一つに成功体験としてこの絵もそのように仕上げたのであろう。

1925年、フランス政府よりレジオン・ド・ヌール勲章を贈られた。このことは、フジタにとって、それまでの苦労が報われた大きな喜びになったことであっただろう。 1927年上の3枚の絵を発表したわけだが、この作品がその後の人生をも暗示していた。

2つの大戦を生き、祖国に懸命に尽くしたフジタであったが、苦渋の決断の末、日本を離れた。人間は基本的に人に認めてもらい、前向きに生きたいと思って生きていこうとするものだと思う。だからフジタのことを人生で初めて認めてくれた国、フランスにもう一度戻り、1955年国籍を得、1957年にはレジオン・ドヌールのシュバリエを贈られた。自分を受け入れてくれた国、その宗教的基盤であるフレンチ・カトリックに改宗し、藤田 嗣治は、フジタレオナール・ツグハル・フジタとなった。

それから日本に帰ることはなかったが、日本人であることを大事にしていたと思う。

悲しいことに精神的に最も安心してくらせる場所を日本は、彼に与えられなかったのである。

フジタが日本に残してくれた祈りの形であるこの大作を私はこれからも心の中で大切にしていきたいと思う。

日本人が表現したキリスト教美術の絵画、フランスも認める表現、そのようなものは、私が思いつくもので今現在、世界中を探してもあの3枚の絵以外にはないのだから。

 

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2021年6月26日 (土)

About An Artist : Sadao Watanabe 70th Anniversary Concert

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  昨日、4月29日から延期になっていた渡辺貞夫さんの70周年コンサートがサントリーホールで無事に行われました。

大変な時期にこの記念公演が重なり、大層皆さん、この日に至るまで大変であったと思い、出演者がステージで最後に挨拶のために一列に並ばれた時は、「ご苦労様でした。」と思いながら拍手しました。

渡辺貞夫さんと私の母は、同い年。88歳。昭和一桁生まれの方々は、本当に好奇心いっぱいの方が多いと帰ってから、思ったしだいです。

他界した父もそうで、少年時代を田舎で過ごし、空を飛ぶ飛行機を見て、パイロットになりたいと思いながら、終戦を迎えたそうで、戦後の民主化の中で、自分の信じた道に進み、Geographerとして、世界各地に調査に出かけ、亡くなる少し前まで仕事も引き受けていた父でした。

学校で教えられたことが、これからは違う世の中になると、大人に言われても・・・。じゃあ、何を信じればいいの?自分でしょ!とこの時代の人はなったのではないかな、と思ったりします。

ナベサダさんのBiographyの断片は、時々、伝えられ、世界中を旅して、自分の目で見て確かめてきた足跡が音楽に生かされてきており、人は旅をしなきゃ、と我が身を振り返る次第ですし、子どもたちにもそれを勧めたいと改めて思いました。

とにかく音色の温かさから、信頼感や安堵の気持ちを感じさせてもらって、数十年。Orange Express の頃は、CMの中の人でしたが、

アルバム『ELISE』の頃から、熟聴させてもらい、所属していたAmature Jazz Fusion Bandでは、数曲、演奏させてもらいました。

昨日も、ナベサダさんは若いミュージシャンとともに笑顔で合図を送りあいながら、曲の間もほぼ、休まず間髪入れずにカウントを出したりして、精力的に、楽しく演奏されていました。

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Album ”Naturally” 2015  Recorded in Brasil

My 80’s Casette tapes  "ELIS" ,"FRONT SEAT", "SWEET DEAL", "BIRDS OF PASSAGE", "KIRIN LIVE '90", "AMERICA LIVE '90"

今回の構成は、Jazz&Bossa with Strings ということで、演奏プログラムを紐解くと印象的だったのが、第2部。

Luis Bonfaの『カーニバルの朝』から始まり、決めきめの演奏で楽しそうな『Passo de Doria』等、ナベサダさんの作曲した曲を中心とした構成でした。ギターのマルセロ木村さんのつま弾く弦の調べが葉を揺らす風のようにキラキラ会場に響いて、サントリーホールにブラジルの風を吹かせていました。CDでは、小編成で録音しているものも実際にコンサートで見ることは、ほぼなかったので、しみじみAccorsticな調べを楽しませてもらいました。

アンコールの『花は咲く』は、素直にメロディーをたどるように演奏され、心の中で、歌いながら聞きました。

久しぶりの生演奏の音の響きに感動がこみ上げ、涙がじわっとでてきました。我慢してきている心の蓋を開けてもらった感じ。

拍手の時、みんなも同じ気持ちのようで、ナベサダさんを拝んでいるようにも見えました。

一緒に行った娘もClassic Saxphoneを吹き、普段は、逆にSaxphoneのコンサートは敬遠なのですが、ナベサダさんのコンサートは12歳の頃より、3回目。今回も「行きたい!」と言ってくれ、「最初から、涙が出た。」と彼女の心にも音が響き、感情を揺さぶったようでした。

「毎回、音色が変わる。」というぐらい、どんな音を出しているのか、ということやSelmerやリードのことなど、あれこれ帰った後も、気づきを言っていました。

二人で、ナベサダさんに日本の歌をシンプルに吹いてもらいたいね、と話をしました。

言葉はなくても、ナベサダさんの音には、Saudage がしみ込んでいるので。

2014年のクリスマス・コンサートの時の記事はこちら

 

 

 

 

 

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2020年7月 6日 (月)

About An Artist: Vincent van Gogh : At Eternity’s gate

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昨年11月にゴッホの映画を観に行った。昔作られたカーク・ダグラスが演じたゴッホの映画を観たが、その後作られた映画は観ていない。映画や小説でその人の人生を追うよりは、その人が残したものから、こんな風に考え描いたのではと自分なりにゆっくり考えていくのが好きだ。

今回のゴッホ役は、ウィリアム・デフォー。なんだか、二人ともマーベルの映画に敵対する役で一緒に出ていたが、確かにゴッホに顔が似ている俳優さんだ。

しかし、今回のジュリアン・シュナーベル監督の本作は、制作中のフィルムなどの公開などから、描かれた場所に行き、撮影が進められたということを知っていたので、是非、大画面で見たいと思っていた。監督自身も絵を描いていた人。

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映画の冒頭の完全にゴッホの見ていたようにカメラが動くシーン。絵の具やイーゼルを運び、家に帰ってくるシーン。

学生時代にモチーフを探しにスケッチに出かけた頃を思い出した。

手を動かせば、絵は描ける。しかし、何を自分のものとして一枚のキャンバスに残せばいいのか、迷った。

あの頃はスケッチしながら、人の評価を気にして、絵を描くのが辛い頃だった。

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ゴッホが日記のようにいろいろなものを描いたのには、決定的な評価が得られなかったためにいつも迷っていたからだと思う。

でも、サン・レミの修道院に入ってからは、スケッチに行けないので、逆に心の中にある美しい色、形を自由に表現していった。

あの時代、心の動きともとれるSchrollうねりというタッチでキャンバスの上に表した画家は、ゴッホ以外にいただろうか。

ニューヨークのMOMAにある『星月夜』は、ゴッホの残した作品のベストだと思う。色の研究によって意図したであろう補色対比である濃紺と黄色の組み合わせは、純粋に美しい色面だ。モチーフの糸杉は画面の中の垂線となり、月や星の散らばる夜空につながるように描かれている。宇宙という果てしない世界がここには描かれている。

天にも届きそうな糸杉は、ゴッホの願い「いつかは、天国に召されたい」というキリスト教的な気持ちを隠喩しているように感じる。

現実の世界では、理解してもらえないゴッホはこの絵の中に、自分の心が解放され、受け入れてもらえる自由や安心感を感じる世界を作り出した。

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映画から南仏の景色や光、風など疑似体験させてもらえたし、油絵を描く気持ちも思い出させてくれた。

パンフレットに使われていたこの黄色。

ジョーンブリアン, カドミウム イエロー? 懐かしい色名が浮かんだ。

油絵の具は顔料の違いで微妙にチューブの中の絵の具は塗った時に今、多用されているアクリル絵の具とは違う濁りを含んだ色面を作る。

展色剤として揮発性の油もあるが、一般に乾きも遅く、前に描いた絵の具がぬるぬるして、塗り重ねるのに時間がかかる。

だから、一般的に油絵は時間をかけて制作されるものだ。

ゴッホの作品の中で何度も本物で見た作品は、その常識を覆している。

ゴッホ最後の地、オーベル・シュル・オワーズでの作品、ひろしま美術館蔵の『ドービニーの庭』は、チューブからそのまま置いたのでは、と思われるぐらいパレットで混ぜた痕跡のないような絵の具が粗いタッチで置かれ、セラドン・グリーンの空の美しい色が特に印象的な作品だ。

べたつく油絵の具を乾かしては塗るということはしないで、早く完成させたいからともとれるが、今となっては、自分に残された時間がないことを悟っていたのかなとも思うと悲しい。

帰省の際に、機会があれば、ひろしま美術館を訪れ、天窓のあるドーム型の常設展示室の作品を観に行くが、やはりこの絵は上部の色とタッチを確認するように観ている。

「確かにこの絵の前でゴッホは筆を動かしたのだ。」と感じる。

 

 

 

 

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2017年12月13日 (水)

About An Artist : Ryuichi Sakamoto "IS YOUR TIME"

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 12月9日(土)から新宿 オペラシティーのNTT インターコミュニケーション センター(ICC)で始った坂本龍一氏と高谷史朗氏による『設置音楽 2』を初日、聴きに行った。この日は、午後3時からトークショウもあるということで、朝早く出かけ、整理券をもらって、お話も聞きました。

会場は、昔、ICCが始まったころに、Media Artsなるものは、なんぞやとよちよちの子どもを連れて行ったことがあった。開館20周年ということで、息子も今や23歳。ひと昔経ったともいえる。

今回、お話を聞く前に作品を鑑賞させてもらった。坂本氏の音楽がICCならではの体験型アートになっていた。

トークの中で、具体的な説明を聞けたので、印象に残ったことをトークからの説明も加えて書き残したいと思う。

設置された空間は、高校の文化祭のような、暗室へと続いていた。縦長の空間(トークで25mという話が出たが、縦の長さか、横の幅なのか分からないが)の両脇にスピーカー14台の上にディスプレーが積まれ、並んでいた。いろいろな音が流れ、倍音が響いたり、鳥の声が聞こえたり・・・・オルガンの音が聴こえ、教会に行ったような感じだ。今年、出されたアルバム『async』の中で聴いたような音が聴こえ、突き当りには、ライトに照らされたグランドピアノの鍵盤がこちらを向いていた。

いきなり、祭壇のようなピアノに近づくのには、ずかずかし過ぎる気持ちだったので、ちょうど真ん中あたりに立ち止まって、暗闇に自分をならしながら、音楽を耳を傾けた。

グラス ハープのような音が重なり、倍音が生まれる心地良さに身をゆだねながら、様々な音の流れに耳を傾ける。ディスプレーの光は、目をつむると、太陽の光のようにも感じるほどの強弱もあり、音と同期して光を放っていた。

会場の床に座り込み、腰を据えて聞くことにした。すると、時々、ピアノがポーンと音を奏でる。調子が明らかにくるっている。けれど、スピーカーからの音は、すべて録音されたものなので、ピアノ自身から発せられる音は唯一、「生きている音」として、耳に響いた。つかみどころのない音の波の中で、確実な音を響かせ、心の拠り所のような存在感を持っていた。

誰もいないので、坂本氏が事前に弾いたものを自動演奏させているのかな、と思っていたら、トークで聞くと、違った。

そのピアノの音は、最近1カ月の世界で起きた地震を感知したものを圧縮したもので、地震が起きると、ピアノの上に設置された金属製の棒が下降し、鍵盤を鳴らすという仕組みをYAMAHAに協力してもらって、作ったということだった。

つまり、人為的に音楽に合わせて、ピアノの音を鳴らすというのではなく、地震の発生のタイミングを音に変えているという設定となっていた。

ひとしきり,聴いてやっとピアノに近づいた。震災で水に使ったというピアノだった。中を見ると、泥がついたままで、ピアノ線がピンピン切れていた。鍵盤を鳴らす仕組みもじっと見ていた。自動演奏の装置なんかではなく、鍵盤の上に櫓のようなもの作り、そこに鍵盤をたたく棒がたくさんつけられていた。

再び、オルガンの音が聴こえたので、一巡したな、と思い、会場を出た。一時間ちょっとぐらいであった。

聴いている間、バリエーションがいろいろあったので、聞き続けたいと思って、座り続けていた。普段の美術館のインスタレーションならば、こんなに長くは滞在しないだろう。映像や音を使った作品も今、いろいろあるが、一時間もその場を離れない作品は、たぶん、今までになかった。

音の速さのこと等、技術的な工夫について、トークで語られていたが、素地がほとんどないので、???と思いながら、聞いていたが、あの空間に合ったセッティングを調整し、設置したということだった。

また、トークでも語られていたが、やはり、教会をイメージしたというような設定だそうだ。両脇のスピーカーの列は側廊の列柱のようにも設定したようだ。

ピアノに関しては、映画『CODA』でも語られていた言葉、「津波という自然現象にさらされ、人が作ったものの多くが、自然の姿に帰っていった。ピアノも自然が調律したのだ・・・。」という坂本氏のとらえ方が印象に残った。現実に被害の状況を目の当たりにして、このアンバランスにも思える状況を別の見方からとらえていた。

あのピアノを二度と鳴らないピアノではなく、もう一度、音を奏でるようにしたのだ。私たちがその音を聞くことは、震災のことを思い出し、亡くなった方への祈りの気持ちにつながっていく。


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2017年11月30日 (木)

About An Artist : Tadao Ando : 水の教会

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 安藤忠雄氏設計による北海道にある水の教会。25年前、ここで結婚式をあげた。安藤建築が自分の住まいになることは、たぶん、残された人生の長さを考えると、ないと思う。けれど、この日だけは、これからの自分の人生のためにこの建築物があり、ここで式をあげることができたことを幸いであると思った。今でも、その思いは変わらない。

教会というと、シンメトリーな配置に設計されるのが、普通。また、祭壇には、当然、十字架が据えられるが、その向こうは、壁面となる。人が集まるための広い空間に始まり、そこに行けば天国を感じることのできる美しさを体験できる空間が作られてきた。それには、ヨーロッパに多く産する白亜紀に作られた加工しやすい石灰岩やそれがマグマの熱におって変成した大理石が使われた。それを積むという建築方法を基本に教会の建築は技術が進歩していった。

安藤建築のコンクリート造の教会建築は、それらの枠をいったん取り払い、新たな軸組工法による自由な発想の教会建築を実現させている。安藤さんがル・コルビジェが1955年に設計したロンシャン聖堂に若い頃に訪れた時、その当時、安藤さんが持っていた建築の常識を完全に覆すような自由な表現の可能性に気付く体験をしたそうだ。

このような旅の体験、本物に触れ、自分で得た感動が安藤さんのその後の仕事に大きく影響を与えているようだ。

アニミズムを信仰のベースにしていた日本人にとってのキリスト教のための教会建築に祭壇方向に空、山並みと樹木、水という景観を取り込んだ水の教会は、私たちの心にもすっとなじむ教会建築を提案した形となった。

私自身は、これがきっかけで安藤建築への興味がスタートとなった。

式が始まると、祭壇側の大きな一枚ガラスが右側にスライドしていった。これは、知らなかったので、私も皆もびっくりした。

涙で胸が詰まりそうな時間であったが、窓が開いて、外から風が吹き込んでくると、気持ちが一気に軽くなった。

おまけにかわいいチョウチョも飛んできて、なんと、私の頭につけていた花飾りの上にちょうど、とまったようだ。

家族がそれをじっと見ていたらしく、式後、「チョウチョがとまったんだよね~!」と口々に言っていた。ちょっとしたハプニングがとても楽しかったらしく、今でもその話は、思い出の一ページとなって、母が子どもたちにも話している。

あれ以来、一度も訪れてはないのだが、今回の展覧会で、水の教会の平面図やドローイングのリトグラフを見ることができた。前日に牧師さんと話をした部屋はこうなっていたのか、なんて新発見しながら見ることが出来た。

新たなスタートを自然に誓ったという思いが今でもある。


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