2021年6月26日 (土)

About An Artist : Sadao Watanabe 70th Anniversary Concert

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  昨日、4月29日から延期になっていた渡辺貞夫さんの70周年コンサートがサントリーホールで無事に行われました。

大変な時期にこの記念公演が重なり、大層皆さん、この日に至るまで大変であったと思い、出演者がステージで最後に挨拶のために一列に並ばれた時は、「ご苦労様でした。」と思いながら拍手しました。

渡辺貞夫さんと私の母は、同い年。88歳。昭和一桁生まれの方々は、本当に好奇心いっぱいの方が多いと帰ってから、思ったしだいです。

他界した父もそうで、少年時代を田舎で過ごし、空を飛ぶ飛行機を見て、パイロットになりたいと思いながら、終戦を迎えたそうで、戦後の民主化の中で、自分の信じた道に進み、Geographerとして、世界各地に調査に出かけ、亡くなる少し前まで仕事も引き受けていた父でした。

学校で教えられたことが、これからは違う世の中になると、大人に言われても・・・。じゃあ、何を信じればいいの?自分でしょ!とこの時代の人はなったのではないかな、と思ったりします。

ナベサダさんのBiographyの断片は、時々、伝えられ、世界中を旅して、自分の目で見て確かめてきた足跡が音楽に生かされてきており、人は旅をしなきゃ、と我が身を振り返る次第ですし、子どもたちにもそれを勧めたいと改めて思いました。

とにかく音色の温かさから、信頼感や安堵の気持ちを感じさせてもらって、数十年。Orange Express の頃は、CMの中の人でしたが、

アルバム『ELISE』の頃から、熟聴させてもらい、所属していたAmature Jazz Fusion Bandでは、数曲、演奏させてもらいました。

昨日も、ナベサダさんは若いミュージシャンとともに笑顔で合図を送りあいながら、曲の間もほぼ、休まず間髪入れずにカウントを出したりして、精力的に、楽しく演奏されていました。

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Album ”Naturally” 2015  Recorded in Brasil

My 80’s Casette tapes  "ELIS" ,"FRONT SEAT", "SWEET DEAL", "BIRDS OF PASSAGE", "KIRIN LIVE '90", "AMERICA LIVE '90"

今回の構成は、Jazz&Bossa with Strings ということで、演奏プログラムを紐解くと印象的だったのが、第2部。

Luis Bonfaの『カーニバルの朝』から始まり、決めきめの演奏で楽しそうな『Passo de Doria』等、ナベサダさんの作曲した曲を中心とした構成でした。ギターのマルセロ木村さんのつま弾く弦の調べが葉を揺らす風のようにキラキラ会場に響いて、サントリーホールにブラジルの風を吹かせていました。CDでは、小編成で録音しているものも実際にコンサートで見ることは、ほぼなかったので、しみじみAccorsticな調べを楽しませてもらいました。

アンコールの『花は咲く』は、素直にメロディーをたどるように演奏され、心の中で、歌いながら聞きました。

久しぶりの生演奏の音の響きに感動がこみ上げ、涙がじわっとでてきました。我慢してきている心の蓋を開けてもらった感じ。

拍手の時、みんなも同じ気持ちのようで、ナベサダさんを拝んでいるようにも見えました。

一緒に行った娘もClassic Saxphoneを吹き、普段は、逆にSaxphoneのコンサートは敬遠なのですが、ナベサダさんのコンサートは12歳の頃より、3回目。今回も「行きたい!」と言ってくれ、「最初から、涙が出た。」と彼女の心にも音が響き、感情を揺さぶったようでした。

「毎回、音色が変わる。」というぐらい、どんな音を出しているのか、ということやSelmerやリードのことなど、あれこれ帰った後も、気づきを言っていました。

二人で、ナベサダさんに日本の歌をシンプルに吹いてもらいたいね、と話をしました。

言葉はなくても、ナベサダさんの音には、Saudage がしみ込んでいるので。

2014年のクリスマス・コンサートの時の記事はこちら

 

 

 

 

 

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2020年7月 6日 (月)

About An Artist: Vincent van Gogh : At Eternity’s gate

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昨年11月にゴッホの映画を観に行った。昔作られたカーク・ダグラスが演じたゴッホの映画を観たが、その後作られた映画は観ていない。映画や小説でその人の人生を追うよりは、その人が残したものから、こんな風に考え描いたのではと自分なりにゆっくり考えていくのが好きだ。

今回のゴッホ役は、ウィリアム・デフォー。なんだか、二人ともマーベルの映画に敵対する役で一緒に出ていたが、確かにゴッホに顔が似ている俳優さんだ。

しかし、今回のジュリアン・シュナーベル監督の本作は、制作中のフィルムなどの公開などから、描かれた場所に行き、撮影が進められたということを知っていたので、是非、大画面で見たいと思っていた。監督自身も絵を描いていた人。

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映画の冒頭の完全にゴッホの見ていたようにカメラが動くシーン。絵の具やイーゼルを運び、家に帰ってくるシーン。

学生時代にモチーフを探しにスケッチに出かけた頃を思い出した。

手を動かせば、絵は描ける。しかし、何を自分のものとして一枚のキャンバスに残せばいいのか、迷った。

あの頃はスケッチしながら、人の評価を気にして、絵を描くのが辛い頃だった。

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ゴッホが日記のようにいろいろなものを描いたのには、決定的な評価が得られなかったためにいつも迷っていたからだと思う。

でも、サン・レミの修道院に入ってからは、スケッチに行けないので、逆に心の中にある美しい色、形を自由に表現していった。

あの時代、心の動きともとれるSchrollうねりというタッチでキャンバスの上に表した画家は、ゴッホ以外にいただろうか。

ニューヨークのMOMAにある『星月夜』は、ゴッホの残した作品のベストだと思う。色の研究によって意図したであろう補色対比である濃紺と黄色の組み合わせは、純粋に美しい色面だ。モチーフの糸杉は画面の中の垂線となり、月や星の散らばる夜空につながるように描かれている。宇宙という果てしない世界がここには描かれている。

天にも届きそうな糸杉は、ゴッホの願い「いつかは、天国に召されたい」というキリスト教的な気持ちを隠喩しているように感じる。

現実の世界では、理解してもらえないゴッホはこの絵の中に、自分の心が解放され、受け入れてもらえる自由や安心感を感じる世界を作り出した。

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映画から南仏の景色や光、風など疑似体験させてもらえたし、油絵を描く気持ちも思い出させてくれた。

パンフレットに使われていたこの黄色。

ジョーンブリアン, カドミウム イエロー? 懐かしい色名が浮かんだ。

油絵の具は顔料の違いで微妙にチューブの中の絵の具は塗った時に今、多用されているアクリル絵の具とは違う濁りを含んだ色面を作る。

展色剤として揮発性の油もあるが、一般に乾きも遅く、前に描いた絵の具がぬるぬるして、塗り重ねるのに時間がかかる。

だから、一般的に油絵は時間をかけて制作されるものだ。

ゴッホの作品の中で何度も本物で見た作品は、その常識を覆している。

ゴッホ最後の地、オーベル・シュル・オワーズでの作品、ひろしま美術館蔵の『ドービニーの庭』は、チューブからそのまま置いたのでは、と思われるぐらいパレットで混ぜた痕跡のないような絵の具が粗いタッチで置かれ、セラドン・グリーンの空の美しい色が特に印象的な作品だ。

べたつく油絵の具を乾かしては塗るということはしないで、早く完成させたいからともとれるが、今となっては、自分に残された時間がないことを悟っていたのかなとも思うと悲しい。

帰省の際に、機会があれば、ひろしま美術館を訪れ、天窓のあるドーム型の常設展示室の作品を観に行くが、やはりこの絵は上部の色とタッチを確認するように観ている。

「確かにこの絵の前でゴッホは筆を動かしたのだ。」と感じる。

 

 

 

 

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2017年12月13日 (水)

About An Artist : Ryuichi Sakamoto "IS YOUR TIME"

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 12月9日(土)から新宿 オペラシティーのNTT インターコミュニケーション センター(ICC)で始った坂本龍一氏と高谷史朗氏による『設置音楽 2』を初日、聴きに行った。この日は、午後3時からトークショウもあるということで、朝早く出かけ、整理券をもらって、お話も聞きました。

会場は、昔、ICCが始まったころに、Media Artsなるものは、なんぞやとよちよちの子どもを連れて行ったことがあった。開館20周年ということで、息子も今や23歳。ひと昔経ったともいえる。

今回、お話を聞く前に作品を鑑賞させてもらった。坂本氏の音楽がICCならではの体験型アートになっていた。

トークの中で、具体的な説明を聞けたので、印象に残ったことをトークからの説明も加えて書き残したいと思う。

設置された空間は、高校の文化祭のような、暗室へと続いていた。縦長の空間(トークで25mという話が出たが、縦の長さか、横の幅なのか分からないが)の両脇にスピーカー14台の上にディスプレーが積まれ、並んでいた。いろいろな音が流れ、倍音が響いたり、鳥の声が聞こえたり・・・・オルガンの音が聴こえ、教会に行ったような感じだ。今年、出されたアルバム『async』の中で聴いたような音が聴こえ、突き当りには、ライトに照らされたグランドピアノの鍵盤がこちらを向いていた。

いきなり、祭壇のようなピアノに近づくのには、ずかずかし過ぎる気持ちだったので、ちょうど真ん中あたりに立ち止まって、暗闇に自分をならしながら、音楽を耳を傾けた。

グラス ハープのような音が重なり、倍音が生まれる心地良さに身をゆだねながら、様々な音の流れに耳を傾ける。ディスプレーの光は、目をつむると、太陽の光のようにも感じるほどの強弱もあり、音と同期して光を放っていた。

会場の床に座り込み、腰を据えて聞くことにした。すると、時々、ピアノがポーンと音を奏でる。調子が明らかにくるっている。けれど、スピーカーからの音は、すべて録音されたものなので、ピアノ自身から発せられる音は唯一、「生きている音」として、耳に響いた。つかみどころのない音の波の中で、確実な音を響かせ、心の拠り所のような存在感を持っていた。

誰もいないので、坂本氏が事前に弾いたものを自動演奏させているのかな、と思っていたら、トークで聞くと、違った。

そのピアノの音は、最近1カ月の世界で起きた地震を感知したものを圧縮したもので、地震が起きると、ピアノの上に設置された金属製の棒が下降し、鍵盤を鳴らすという仕組みをYAMAHAに協力してもらって、作ったということだった。

つまり、人為的に音楽に合わせて、ピアノの音を鳴らすというのではなく、地震の発生のタイミングを音に変えているという設定となっていた。

ひとしきり,聴いてやっとピアノに近づいた。震災で水に使ったというピアノだった。中を見ると、泥がついたままで、ピアノ線がピンピン切れていた。鍵盤を鳴らす仕組みもじっと見ていた。自動演奏の装置なんかではなく、鍵盤の上に櫓のようなもの作り、そこに鍵盤をたたく棒がたくさんつけられていた。

再び、オルガンの音が聴こえたので、一巡したな、と思い、会場を出た。一時間ちょっとぐらいであった。

聴いている間、バリエーションがいろいろあったので、聞き続けたいと思って、座り続けていた。普段の美術館のインスタレーションならば、こんなに長くは滞在しないだろう。映像や音を使った作品も今、いろいろあるが、一時間もその場を離れない作品は、たぶん、今までになかった。

音の速さのこと等、技術的な工夫について、トークで語られていたが、素地がほとんどないので、???と思いながら、聞いていたが、あの空間に合ったセッティングを調整し、設置したということだった。

また、トークでも語られていたが、やはり、教会をイメージしたというような設定だそうだ。両脇のスピーカーの列は側廊の列柱のようにも設定したようだ。

ピアノに関しては、映画『CODA』でも語られていた言葉、「津波という自然現象にさらされ、人が作ったものの多くが、自然の姿に帰っていった。ピアノも自然が調律したのだ・・・。」という坂本氏のとらえ方が印象に残った。現実に被害の状況を目の当たりにして、このアンバランスにも思える状況を別の見方からとらえていた。

あのピアノを二度と鳴らないピアノではなく、もう一度、音を奏でるようにしたのだ。私たちがその音を聞くことは、震災のことを思い出し、亡くなった方への祈りの気持ちにつながっていく。


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2017年11月30日 (木)

About An Artist : Tadao Ando : 水の教会

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 安藤忠雄氏設計による北海道にある水の教会。25年前、ここで結婚式をあげた。安藤建築が自分の住まいになることは、たぶん、残された人生の長さを考えると、ないと思う。けれど、この日だけは、これからの自分の人生のためにこの建築物があり、ここで式をあげることができたことを幸いであると思った。今でも、その思いは変わらない。

教会というと、シンメトリーな配置に設計されるのが、普通。また、祭壇には、当然、十字架が据えられるが、その向こうは、壁面となる。人が集まるための広い空間に始まり、そこに行けば天国を感じることのできる美しさを体験できる空間が作られてきた。それには、ヨーロッパに多く産する白亜紀に作られた加工しやすい石灰岩やそれがマグマの熱におって変成した大理石が使われた。それを積むという建築方法を基本に教会の建築は技術が進歩していった。

安藤建築のコンクリート造の教会建築は、それらの枠をいったん取り払い、新たな軸組工法による自由な発想の教会建築を実現させている。安藤さんがル・コルビジェが1955年に設計したロンシャン聖堂に若い頃に訪れた時、その当時、安藤さんが持っていた建築の常識を完全に覆すような自由な表現の可能性に気付く体験をしたそうだ。

このような旅の体験、本物に触れ、自分で得た感動が安藤さんのその後の仕事に大きく影響を与えているようだ。

アニミズムを信仰のベースにしていた日本人にとってのキリスト教のための教会建築に祭壇方向に空、山並みと樹木、水という景観を取り込んだ水の教会は、私たちの心にもすっとなじむ教会建築を提案した形となった。

私自身は、これがきっかけで安藤建築への興味がスタートとなった。

式が始まると、祭壇側の大きな一枚ガラスが右側にスライドしていった。これは、知らなかったので、私も皆もびっくりした。

涙で胸が詰まりそうな時間であったが、窓が開いて、外から風が吹き込んでくると、気持ちが一気に軽くなった。

おまけにかわいいチョウチョも飛んできて、なんと、私の頭につけていた花飾りの上にちょうど、とまったようだ。

家族がそれをじっと見ていたらしく、式後、「チョウチョがとまったんだよね~!」と口々に言っていた。ちょっとしたハプニングがとても楽しかったらしく、今でもその話は、思い出の一ページとなって、母が子どもたちにも話している。

あれ以来、一度も訪れてはないのだが、今回の展覧会で、水の教会の平面図やドローイングのリトグラフを見ることができた。前日に牧師さんと話をした部屋はこうなっていたのか、なんて新発見しながら見ることが出来た。

新たなスタートを自然に誓ったという思いが今でもある。


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2017年11月20日 (月)

About An Artist : Ryuichi Sakamoto :CODA

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昨日、有楽町の映画館に坂本龍一さんのドキュメンタリーを見に行った。
先週ニュースでこの映画のことを知り、どこで上映しているか、調べると、東京でも2館のみの上映で、見逃してはなかなか見られないかもしれないと思い、行ってきた。昨年は、娘が"Revenant"の試写会に抽選であたり、実は初めて坂本さんのピアノ演奏を聞くことが出来るという幸運に恵まれた。治療のため、お休みされて以来、久しぶりの映画のため作曲された作品で、ストーリーも厳しいが音楽も絶望の淵に吸い込まれそうな大変厳しい音楽であった。今回の映画でも語られていたが、やはりご本人も厳しい状況での仕事だったようだ。以前の記事はこちら

今まで、紹介されてきた活動や演奏の足跡を追ってきたTV映像なども使われ、新たな映像、もちろん音楽とともに、ご本人の回想インタヴューとともに綴られていた。

タイトルのCODAって音楽の記号。to Vide_2「コーダへ」という部分から小節の左上のVide_2Codaへ飛び、そして、曲は、終結部に入り、終わりを迎える。それまで、さんざん繰り返し記号で初めへ戻ったり、もう一度印象的な山場を演奏したりした挙句、CODAが出てくると、いよいよ終わりに近づくよ、となる印だ。Vide_2は、イタリア語で゛Vide"「見よ」という意味だそうで、それまでは、無視して演奏するが、最後はしっかり見て終結部へ向かうように楽譜の中でも目立つ形にしているらしい。

映画で時代を追いながら、見ているとどうしても自分のことも思い出された。YMOとの出会いは『ライディーン』だったが、大学時代、先輩が、バンドを学園祭に向けて、結成するという。なんでもYMOの曲をするとか、なんとか・・・。それにつられて、入り、キーボード担当で楽譜もコピー譜をもらったが、家には、アップライトのピアノしかなく、キーボードなどない。そこで、高校時代の友人のKurzweilのキーボードを借りにいった。映画の中でシーケンサーを使う場面が出てきたが、結局、説明書もなく借りたので、シーケンサーも上手く使いこなせなかった。みんなもタイトなリズムキープは出来ずにYMOのコピーは、崩壊してしまった・・・ことなど、恥ずかしいことを映画の後に思い出した。

まねしたくなるほど、私は「YMOはかっこいい!」と思っていた。

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Kamaishi port in Iwate prefecture            Aug.11.2011

震災で水に使ったピアノを坂本さんが弾くシーン。

2011年3月11日。東日本大震災の後、震災のニュース映像がテレビに映された時、倒れて、泥にまみれたピアノを見た。あのピアノを弾いていた人の普通の暮らしが津波に奪われた。突然、多くの人が津波にのまれたことを思うと、心残りであったろうと思わずにはいられなかった。

その後、8月に東北出身のGeographerであった父がこの震災の状況を私や孫たちに見せたいと被災地に連れていってくれた。それは、TVでは表現できない津波の凄まじさを私たちに伝えるものだった。

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震災後、皆、出来ることは何か考えたと思う。また、人生の終わりの日は突然訪れることも自覚したと思う。その後、父も闘病の末、他界した。極寒の地から灼熱の地まで調査に出かけた父は、今までの仕事をすべて、整理し、記録を残してくれた。まだ、全部は読むことが出来ないが、書いたものから父の考え方を知ることが出来る。1,2年のうち一晩ぐらい、笑顔の父が夢に現れ、大事なことを伝えに来てくれる。本当のことだ。

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今年4月に出たアルバム『async』にまつわるシーン。

一緒に映画に行ったパパさんは、先日、娘に「一番好きな映画は何?」と聞かれて『惑星ソラリス!』と答えたばかりだったそうで、映画の後、「すごーい。坂本さんと趣味が同じだ!」と喜んでいた。パパさんは20歳ぐらいの時に見たそうだ。そういえば、パパの撮る写真に映像が似ているような気もした。

私は、『惑星ソラリス』〈1972年 タルコフスキー)については知らなかったが、そこで、BGMにBachの゛ Ich ruf zu Dir, Herr Jesu Christ (BWV 639)"を挿入している場面を今回の映画で見た。

鳥の声など主人公のいる草むらの周辺から聞こえてくる音に耳を澄ましていると、バッハのオルガンのコラールが流れてきた。自然界の音と音楽、そして映像があっていた。不思議な感じだった。タルコフスキーがどうやって、このアイディアを思いついたのかは、わからないが、子どもの頃、Sunday schoolに行っていた私は、礼拝の初めてと終わりに演奏されるバッハなどの長めの曲をじっと聞いているのが、実はつらかった。しかし、目をつむりながら、頭の中にお話を想像するようにして聞くようにするとなんとかじっと聴けるようになった。もしかしたら、タルコフスキーも子どもの頃、こんな空想体験があったのかもしれないと思った。

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『async』の中の坂本さんの曲「solari 」は、『惑星ソラリス』のバッハのコラール(ルター派の讃美歌)に代わるものとしてとして作った、と言われていた。何か、聴いていると、私は、子どもの頃が呼び覚まされるようだった。夕焼けの中母の元に帰るようなノスタルジックな気持ちになる。それから、子どもの頃聞いた、オルガンのフガフガしたようなシンセサイザーの音色も過去の記憶を呼び覚ます。

『async』には、いろいろな音が存在している。その何かわからない音に聞き耳を立てる。聴覚は、危険を察知するために視覚より早く反射行動を起こすという。この何か得体の知れない音に注意しながら、これは何かと状況を判断しようとしている。

また、以前に知ったことなのだが、小鳥のさえずりとフルートを聴いた時と、脳は、どちらが活性化しているかというとことを調べると、小鳥のさえずりの時なのだそうだ。

こう考えると、今、音楽として限定的に使われている音は楽器や人間が可動できるかという範囲で作られたもので、その中で、喜怒哀楽を表現してヒットしたとか、上手いとか話題にしているものだ。

実は、どんな演奏家も自然の音には勝てない反応を人間の脳は示しているわけで、多くの音楽を演奏し、音を作り、作曲してきた坂本さんはそのことに気づき、何年か前より、自然界の音や町の音などを録音している。やみくもではなく、今の自分の心の風景に合う音を聴きたい、そしてそれを使いたいと探している。それは、新しい音というわけでなく、人の心に過去の記憶を掘り起こす音もある。

ラスト シーン。バッハの平均律クラヴィーア曲集 第1巻「プレリュード1ハ長調」(Das Wohltemperiertes Klavier 1 "Preludium 1 C dur" BWV846 )を一人で弾いていたシーン。

この曲を求めているんだと思うと、最後、涙が噴き出した。

自分も何か嫌なことがあってもこの曲を弾くと、脳幹に響くようで、心が安定する曲だからだ。自分自身に聴かせる曲として位置付けている。癒しの力を持つ音楽は確かに存在する。

音の持つ力を見つけ、また新しい音楽に挑戦している坂本さん。

Vide_2Codaに入ったとしても、poco a pocorit.や日没を表すというPoint_dorguesvg_2を譜面につけVide_2をじっくり感動的に演奏していってほしいと思っています。

 


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2017年11月17日 (金)

About An Artist : Tadao Ando ゛Endeavor"

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Added Ando's Drawing in this exhibition's catalog

先日の日曜日、安藤忠雄氏の展覧会に六本木 国立新美術館に行ってきた。安藤さんの設計した水の教会で結婚式をあげてから、25年。それから、前向きな姿勢に私自身も影響されて、チャレンジすることに勇気をいただいたと改めて思う。私が最も、すごいなと思ってきたのは、夢を現実にするパワーだ。

それが、一番表れているところは、安藤さん自身だ。経歴の最初に必ず、書かれているところ。『独学で建築を学んだ。』ここだ。簡単な一文で表されているが、この言葉の裏の壮大な夢と努力に人として、敬意を払わずにはいられない。

『信ずれば、道は開ける。』と身を持って、教えてくれた方である。

実際に、お会いしたことはないが、NHKのドキュメンタリー番組や人間講座、若者との対談、書籍等で人柄を知り、大阪弁で、はっきりと話をすすめていく安藤節に勇気づけられ、すっかりファンになっていた。

今回の展覧会は、一番大きな展示場が使用され、今までの数々の建築作品のためのスケッチ、設計図、模型、写真、映像がテーマごとに並べらてれいた。美術館中庭には、光の教会の原寸 模型が作られていて、そこに入ると、都会であることを忘れ、私も周りの人々も、暗闇からもれる光の十字架を見ながら、しーんとして敬虔な気持ちになっていた。

サプライズだったのは、展示台や壁には、安藤さんが当時の現場の解決するべき点を考えながら、考えていたイメージ スケッチがマーカーでさらさらっと描かれていたところ。今でも、一つひとつの作品が昨日のことのように思い出されるのだろうな、と思った。描きながら、ベストな形、アイディアを探し続けた思索の片鱗を見せてもらったようだった。上の写真の今回の展覧会カタログの直筆サインとスケッチにも驚いた。ありがとうございます。

壁に描かれた安藤さん直筆スケッチを見ながら、「美術館は、これは捨てられないな~!」と思っていると、今年の夏訪れた直島のスケッチもあった。

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View from Chicyu arts museum                           Aug,2.2.2017

 1992年に開館した安藤忠雄氏設計による直島のベネッセハウスをはじめとする一帯の建築物を小豆島に一泊してから高松港から入って、めぐった。撮影は禁止なので、敷地から見える瀬戸内海が上の写真だ。これは、地中美術館からのもの。

水の教会もそうであったが、地中美術館にいると、自分が今どこにいるのか、わからなくなった。単に方向音痴だから、ということではなく、通常の箱状の建築物にならされているため、壁が斜めに立ちはだかっている空間や斜めに下がっていくスロープ等、あれれ、どこに行くの?という感じだった。

暗い通路を迷うような気持で歩いていると、急に空がパアーと広がって現われたり、開放感のある大きな窓から景色がドーンと表れる。そういった、ドラマチックな演出が安藤さんの建築にはある。子どもの頃見た、白昼夢のような、ありえないような空間が実在し、確かに自分がそこにいる不思議な感覚を経験した。

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At the pond near Chichu art museum Aug.2.2.2017


建物だけでもおもしろいが、展示作品、クロード・モネの『睡蓮』は、室内の展示室では見られない絵の具の輝き、特に、紫色の絵の具が非常に美しく見えた。天窓による拡散光により、久しぶりにモネを見たという気持ちになった。25年前、パリのオランジェリー美術館でみた2室の楕円形の部屋の壁面にはめ込まれたモネの睡蓮の連作の感動を思い出した。オランジェリーの天窓は、モネの提案によって作られたそうだ。やはり、外光の元で描いた印象派は、自然光の効果が分かっていたのだ。等々、展示作品にも浸りながら、時々、遠くの海の色や空の青を見ながら、優雅な一日を過ごした。外国人観光客もたくさん訪れていた。夕飯時には実家に着きたいので、島を離れることにした。

岡山の宇野港へ向かうフェリーに乗った。大して、スピードも出さずに、島沿いに船は走った。

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Naoshima 

ぼーと外を眺めていた時、この旅の最後に見た直島の姿は、痛々しく、私にどうして?と疑問を投げかけるものだった。花崗岩の島肌がむき出しになっていた。そういえば、瀬戸内海の島々を見ながら育った私にとって、美術館のまわりの植生の生育が今一つよくない感じが滞在中していた。

実家に行ってから、色々調べると、島の歴史がわかった。直島は、明治時代に精錬所を誘致し、島の産業としたが、その結果、煙害による環境汚染が進み、植物が生育できなくなってしまったのだ。

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現在、隣の豊島に不法に廃棄された阪神工業地帯からの産業廃棄物を焼却する高度な処理施設もあり、環境に害を与えない形に焼却している。今年、豊島からの最後の廃棄物が運び出された、という朝のニュースを思い出した。見えた黒い灰の山は、それだったのだ。

高度経済成長の中で、何も言わない自然環境は軽んじられてしまったのだ。私達のバランスを欠いた考え方が引き起こした結果がこのような島の姿を生みだしたと思うと、自戒の念にかられた。

安藤さんの今回の展覧会のスケッチに、「1989 Naoshima」とかかれたスケッチがあるが、最初の印象であろう、島の樹々が失われてしまった状態を「はげ山」と書き残していた。

それをクライアントとともにどうにかしたいと思い、実現させていった夢の途中が25年経過した今の直島の姿なのであった。夏以来、ずっと、アートの島として、人気を集めている直島と周辺環境のギャップに何とも言えないものを持ち続けてきたが、今回の展覧会で、解を見つけた感じがした。

自然を取り戻すのには、時間がかかる。だから、夢を描いて、一つひとつ育てよう、というのが安藤さんの頭の中にはある。建築もするけれど、木も植えるのが安藤さんだ。

だから、建物は、地中に建て、最終的には、緑に覆われた島に戻るように設計したのだった。

安藤さんは、大きな夢を描き、皆とともにその方向を示してくれた。


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2017年10月22日 (日)

About An Artist : 運慶と和田義盛

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和田海水浴場

 

東京国立博物館で開催中の『運慶』の展覧会。ぜひ、拝観したいと思っていたのが、神奈川県の三浦半島 横須賀市 浄楽寺にある阿弥陀如来坐像とその両脇侍立像だ。期間中10月21日より公開。鎌倉幕府 初代侍所別当を務めた和田義盛が運慶に作らせたという。

 

母の旧姓は和田。どこでどうつながっているのかは、本当かどうかわからないが、子どもの頃から「和田義盛」の名前は聞いていた。母も私も鎌倉から遠く離れた場所で生まれ育ったので、鎌倉、三浦半島に和田義盛ゆかりの場所がたくさん残っていることについて知らずに過ごしていた。東京にいた伯父は自分でいろいろな資料を持っていて私に話してくれたけれど、その頃の私には遠い昔の話であった。

 

知人の歴史好きの米国人が "Do you know Onna samurai ?" と聞いてきたので、「北条政子のことかな?」と思ってネットで調べているとどうも巴御前のよう。

 

巴は源義仲と戦場で別れた後、鎌倉に連れて行かれて、その身柄を和田義盛が引き取り、妻(その頃は多妻)にした・・・という話しもあることを知り、「あれれ、あの和田義盛~!」と一気に興味を持って自分で調べるようになった。ネットで調べていると、義盛の生き様は、鎌倉の歴史を調べている人々から今でも人気があるということを知り、ますます興味を持って調べていくこととなった。

 

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和田城址 三浦市の看板によれば、『巴御前が義盛に預けられここで余生を送った・・。』と書かれている。

 

それ以来、子どもの頃見た1979年のNHKの大河ドラマ『草燃ゆる』をオンデマンドで見て、和田義盛が頼朝亡き後、北条義時の謀略に耐え切れず、兵を挙げ討たれた和田合戦のシーン(総集編 第5回 尼将軍 政子)を再び見たり、江ノ電の和田塚駅の近くには、和田合戦で亡くなった人々の塚があること(地域の人が弔ってくれたもの)、若宮大路の鶴岡八幡宮に近い場所の屋敷の場所を古地図で確認し現地に行ったり、朝夷名の切り通し(義盛の三男 怪力で知られた人物)、三浦半島の浄楽寺(今回展示されている運慶仏のあるお寺)、白幡神社(義盛を祀っている)、和田城址、伝巴の塚、千葉の房総半島 和田の所領地等も数回かけて訪ねた。

 

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三浦半島 海岸段丘上の畑 義盛の頃より穀倉地帯。食糧が戦陣に送られた。

 

そこで見えてきたものは、富士山と海の見える三浦半島を拠点として船を使って海を自由に行き来し、田畑を耕し、武芸の鍛錬をし、有事に備えていた。特に弓の名手であり、源頼朝の先陣として活躍し、一族をあげて、鎌倉幕府を盛り立てていたという姿だった。

 

残された文献で義盛について書かれているものとして『平家物語第11巻 遠矢』に1185年 壇ノ浦の戦いにおける義盛(和田小太郎義盛)の様子が記述されていて、その短気な性格が表れていて、おもしろいことや周りの人々にも愛されていたことが伺えて興味深い。

 

『吾妻鏡』では、2009年に吉川弘文館から現代語訳が出版されており、1213年 5月和田合戦までの記述の中に侍所初代別当として活躍した和田義盛(和田左衛門尉義盛)の名前が随所に記録されている。

 

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由比ヶ浜 義盛 最後の地 現在は、鎌倉の頃よりも沖に海岸線が広がっている。

 

和田合戦の部分では、やるせない気持ちになって、読んだ。和田合戦の部分に『朝夷名三郎義秀〔38歳〕と数名は海辺に出て、船を出して安房国(現在の千葉県南房総)に赴いた。その軍勢は5百騎、船は六艘という。また新左衛門尉(和田)常盛〔42歳〕・・・・・・・・・・、和田新兵衛入道(朝盛)以上の大将軍六人は、戦場を逃れて逐電(逃げて行方をくらますこと)したという。』 :現代語訳 『吾妻鏡 第21 5月3日』 がある。

 

このことから和田義盛の末裔も各地に散らばったことが確認できるが、同じ名前が亡くなった人の中にリストアップされていたりして『吾妻鏡』の誤記も存在し、私と義盛とのつながりも可能性が出てくるが…等、望みを感じてはいるが、よくわからないので、現地調査にまた出かけたい。

 

和田義盛の最後は、司馬遼太郎氏が指摘した『名こそ惜しけれ』(後世に残るような恥ずかしいことをするな)の精神を貫いて、一族をあげて北条に対する抗議を形に表した形で命を落とす訳だが、多くの戦に出る中で、死に対する心構えを常に持っていたと思う。自分も多くの人の命を奪い、明日は我が身という死への不安は常に根底にはあったであろう。

 

そこで、阿弥陀如来造仏、お堂の建立を生前より準備していたと思われる。
運慶とは、北条時政が願成就院の造仏を頼んだことから、その対抗心から頼んだ、という話がある。それもあると思うが、1180年の南都焼き討ち後、1185年には源頼朝の絶大なる後援もあり大仏開眼供養、1195年には大仏殿完成供養が執り行われた。その間、何度も奈良に鎌倉から頼朝も和田義盛も出かけており、奈良仏師の技量についても目で見て確認していたからこそ、頼むことにもなったのであろう。

 

また、源頼朝も、1192年 永福寺という奥州藤原氏の作った平泉の寺院を模した寺を鎌倉に建立し、亡くなった御霊を弔う寺とし、運慶にこの寺の造仏を依頼したという。
源頼朝が父の源義朝の菩提寺として勝長寿院を作り、頼朝や政子、実朝ともこの寺に弔われたが、ここの造仏も1217年、運慶はしている。
ただ、この2つの寺院は焼失し、現在では、墓石、礎石のみ残る状態で、運慶作の仏像も今は、見ることは出来ない。しかし運慶が、源頼朝をはじめとする鎌倉の寺の造仏に関して、どれほど信頼されて仕事を行っていったかを伝えている。

 

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運慶が彫った浄楽寺の阿弥陀如来は、予想していた大きさよりもずっと大きく、和田義盛がこれを作ってもらって浄土の世界をイメージしていたかと思うとその願いの大きさに圧倒されるようだった。端正で静かな表情で鎮座している。

 

また、両脇の観音菩薩、勢至菩薩像もその姿の美しさは、静かに落ちつき、語りかけるようだった。

 

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不動明王は、「恐れや悪事を寄せ付けずに生きよ。」と言っているようだったし、毘沙門天は、「戦うからには、強くあれ。」と言っているようだった。

 

仏の顔には、和田義盛の顔の面影が入っているような気がする。運慶は、何度も和田義盛に会っているので、人柄や面影が造仏の中に入っているのでは、と思った。私の父も生前より仏師の方に頼んで、仏像を彫ってもらっていて、父の面影がその仏像の顔に入っているように思えるからだ。

 

浄楽寺には、2015年7月に訪問させていただいた。その時は、運慶の仏像はお彼岸のみの公開で見ることはかなわなかった。

 

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浄楽寺の運慶仏は、鎌倉幕府と奈良仏師運慶との強いつながりを今に残す数少ない貴重な仏像であり、五体すべてが保存状態もよいものだと思う。江戸時代に表面の金箔を修復しているそうだ。

 

和田合戦以降、和田の一族が鎌倉に二度と戻って来れなくなり、この義盛の阿弥陀如来を拝むことがかなわなかった。

 

今回やっと、義盛の残した仏像に手を合わせることが出来た。

 

追記 高知の土佐町和田訪問記

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2017年10月16日 (月)

About An Artist : 運慶

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チラシ、ポスターで夏前から楽しみにしていた『運慶』の展覧会。先々週金曜日、上野の東京国立博物館 平成館に行ってきた。

今回、私が特に期待していたのが、このチラシの右下の赤いお顔の像。和歌山の金剛峯寺の国宝 八大童子立像の中の制多迦童子。このアングルの表情がCARPの中崎投手の九回に登板した時の投げる前の真剣な表情と「そっくり!」と思っていて、実際この目で見たかった。

会場で目にすると、イメージしていた大きさよりも二周りぐらい小さかった。また、チラシの写真とは違う方向から見ると、別の表情を見せる。不動明王像に随侍する八体の像のうち6体が運慶によって1197年頃、作られており、その中の一体。他の像もどこかの誰かのようなお顔をして、それぞれ個性があり、見ていて自然と笑みがこぼれた。

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平安遷都1300年公式記念品 せんとくん と 伐折羅(ばさら)大将 (新薬師寺蔵 復元彩色) 

家に帰って、制多迦童子のことを話していると娘と息子は、「せんとくんに似ている!」と言っていたので、2010年に奈良に行った時のお土産をゴソゴソ見つけて、「それもそうだな。」と思う。髪型や装身具など。せんとくんは、東京芸術大学 大学院 文化財の保護修復 彫刻科の教授をされている籔内左斗司氏のデザインだが、髪型や装身具に仏像の決まり事がいかされているので、現代の作品だけれど、それらしく見えている。

隣の怖いお顔と勇ましい鎧の像は、薬師如来を守る十二神将のうち一神の像。東大寺を作った聖武天皇が病気になった時に光明皇后が病が治ることを祈るために建てた新薬師寺に収められている日本最古の十二神将。8世紀のもので、塑造であるが、日本でそれまでに誰も見たことがなかった像をよく作ったものだと今更ながら、驚く。

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運慶の作品を今回、寺院を離れ、像そのものを博物館で見ると、どこからこの形を生み出したのか?と単純に考えてしまった。

像のポーズは、腰をひねりあげ、その方向の脚に重心をかけ、反対側の脚は軽く突き出すポーズが多い。動きの途中の一瞬を固定したような感じだ。金剛力士像などもこのポーズだ。この大胆なポーズが、運慶仏の魅力の一つだ。

しかし、この発想はオリジナルなのかと言えば、そうではない。その源流を考えると古代ギリシャのヘレニズム期に表れた体をS字にくねらせたポーズにつながってくる。コントラポストというが、ギリシャから直接伝えられたということではなく、インド、唐を介してこのポーズも日本まで伝えられたのだ。

また、髪型、装身具、光背を見ると、インドのヒンドゥー教の神々との関係も明らかだ。そのつながりについて、調べてみた。

仏教は、今から2500年ほど前に釈迦が始めた宗教であり、仏像は、500年後,、起源1世紀頃、アレキサンダー大王率いるギリシャ、西アジア系の工人の子孫によって、ガンダーラ地方で初めて釈迦の像が造られた。最初は釈迦の生涯を伝えた内容が主だったが、インドの中で仏教が人々に浸透していくために古代インド神話の神や悪神、鬼神さえも釈迦の教えに触れ仏教の守護神になったとして、様々な神を取り込んだ。これがインド密教であり、またヒンドゥー教とも同根とされる。大日如来は、ヴィシュヌであり、不空羂索観音は、シヴァである。ヒンドゥー教では、釈迦をビシュヌの化身として取り込んでいる。

このインド密教は、インドでは4世紀から11世紀まで続くが、1203年イスラム教徒が最後のパーラ王朝を滅ぼし、根絶された。その間、僧により、中国 長安(唐)へ経典がもたらされ、サンスクリット語からの訳が行われ、インドブームが唐でも起こったというが、844年 弾圧を受け衰退した。よって、インド、中国にはほとんど今は、残っていないという。

しかし、日本においては、奈良時代から遣唐使などにより、経典や図像がもたらされ、新しい情報が伝えられた。日本では、仏教は到来した宗派は今でも残されているものが多く、日本は密教美術の遺産を今に伝えている場所と言えるそうだ。

734年の帰国した留学僧が持ち帰ってきた経典や仏像を情報として興福寺西金堂の阿修羅像など八部衆が乾漆造で作られた。また、東大寺法華堂の執金剛神像や四天王像(現 戒壇堂蔵)も塑造により作られた。これらは、天平彫刻の完成形とされ、運慶ら鎌倉仏師へ影響を与えた。

1150年頃奈良に生まれた運慶にとって、東大寺、興福寺は日本における最先端の仏像を目にすることが出来る場所であったし、父親康慶の仕事も手伝い、造形のセンスを磨いていったのだろう。

1180年の平重衡による南都焼き討ちによる東大寺、興福寺の再建に関しては、1194年頃から慶派仏師集団として尽力し、その技術とセンスを存分に開花させていった。

また、804年に唐に行った空海や最澄、合わせて8人の僧が持ち帰った曼荼羅や燃え上がる火焔を光背とした五大明王のイメージも日本に新たに伝えられたことより、825年頃より、空海は京都の東寺講堂に大日如来を中心とする立体曼荼羅の諸像の造立を企てた。この東寺の諸像の補修を1197年、運慶は、手がけており、密教美術の持つ神秘的な造形にも触れたということだ。

このように運慶の見てきたものイメージしたものを推測しながら、どうしてあの彫刻が生まれたのかを自分なりに追いかけてみた。

今回の展覧会の中で、運慶が亡くなる7年前に作ったという大成徳明王像があったが、小さな像で壊れている部分もある像であったが、それまでの運慶の作像のすべてのエッセンスを封じ込めたようなパワーのある印象深い像であった。

参考にしたのは、

『インド神話入門』 長谷川明著 新潮社刊
『日本美術の歴史』 辻 惟雄著 東京大学出版刊 
『日本美術史』 美術出版社刊
『特別展 神奈川県立金沢文庫80年 運慶 中世密教と鎌倉幕府』図録
『興福寺中金堂再建記念特別展 運慶』図録 
『寺院と仏像のすべて』 藪中五白樹著 フジタ刊
『奈良の仏像(上)』 関根 俊一著 フジタ刊
『奈良の寺々』 西山 厚著 フジタ刊 

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2017年3月21日 (火)

About An Artist : ミュシャの想い

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NHKで放送された番組からアルフォンス・ミュシャの大きな作品『スラヴ叙事詩』を搬入しているシーンを見て、「これは絶対行かないと!」と思い、国立新美術館で始まった『ミュシャ展』に行ってきました。
6月5日(月)まで。

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ミュシャの作品は、1983年の日本での大回顧展を通じて、パリでのポスターをはじめとするリトグラフの作品群、素描とその後のチェコスロヴァキアでの祖国での作品群を見たことがありました。若い頃は、デザイナーとして活躍し、世界中の人から賞賛された後、故郷のチェコスロバキアのために勢力を傾けた作品を作っていったことがわかる展覧会でした

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その時の図録中で今回の展覧会で見ることのできる大作(6m×8m)の前にミュシャ自身が座っている写真が掲載されていました。『1919年、プラハ・カロリナムにおける《スラヴ叙事詩》連作の最初の11枚による展覧会風景』と書かれていました。

この時のミュシャは、第一次世界大戦後、オーストリアの支配を離れ、チェコスロヴァキア共和国が誕生したことを本当に喜んでいた時期だと思います。

実際本当に大きく、絵の隅々まで何が描かれているのかじっくりみることが出来ました。画面に近づくと、ミュシャの筆跡を見ることができました。

画材は、テンペラと油絵の具となっており、どう使い分けているのかとも思いました。ベースが油絵の具で細かい部分がテンペラ(顔料プラス卵黄)?

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これは、1983年の展覧会の時に《スラヴ叙事詩》の習作が展示された時のものです。これを今回の本作品と比較すると、大方の構図と色調は、ほぼ同じですが、個々の人物のポーズや細かな衣装、髪型、群像の人数や配置が微妙に変更になっていることがわかります。

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《スラヴ叙事詩》のための人物写真がたくさん撮影されたということが、NHKの番組でも紹介されていました。私が思うには、習作でミュシャがイメージした人物のポーズや衣装を仮に決定しておき、実際に村の人たち(制作していたズビロフ村)に演じてもらい、写真に撮り、制作の参考にしたという順序ではないかな、と推測します。写真に方眼に線が入っているものもあり、拡大した跡が伺えました。

1983年の図録の中にミュシャの息子さんの文章がありました。
『父にとって写真を撮る主たる目的は、ポーズだとか衣装の襞だとかをしっかり記憶しておくことにあった。…』

印象派の出現の前に写真機が発明され、形の記憶が可能になった19世紀末、画家の写真の活用法は、人それぞれの手にゆだねられたと思いますが、ミュシャは、このように利用したようです。

しかし、ミュシャの写真を見ていると、写真そのものにも人間の魅力を引き出したものが多く、今でいうなら、売れっ子写真家にもなれそうな感性を感じます。

《スラヴ叙事詩》の発想の原点には、チェコの作曲家スメタナの交響詩『わが祖国』があったことを知りました。昨晩、それを聞きながら、《スラヴ叙事詩》に描かれた場面を思い出し、ミュシャの表現した世界と一体化していくのを感じました。

ミュシャの亡くなる前年、1938年、ヒトラーは、チェコスロバキアの一部に対して領土要求し、1939年侵攻。それにより、現在のチェコは、保護領としてドイツの支配下になりました。

ミュシャは、民族意識が強い画家としてゲシュタボに連行され、4か月独房に入れられ、それが元で肺炎になり73歳で亡くなりました。《スラヴ叙事詩》の中の作品『スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い スラヴ民族復興』は、未完成の作品となってしまいましたが、ハープを持った娘さんと息子さんが描かれてあり、メッセージを次の世代に伝えているように感じました。

その後、1945年チェコスロヴァキアはソヴィエトの保護下で再建されましたが、1968年のプラハの春に対する弾圧もあり、苦しい時代を重ね、1989~1990年のビロード革命と呼ばれる共産党による独裁政権が終わりました。1993年スロヴァキアが分裂し、今のチェコに至っています。

ミュシャの描いた理想の世界は、画家一人のものではなく、チェコの人々の目指す世界観でもあったわけで、画家として自分が出来る最大限の仕事を果たしたいと作品を残したのだと思いました。

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2016年9月23日 (金)

About An Artist : 鈴木 其一の『朝顔図屏風』

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『朝顔図屏風』部分

9月10日から六本木サントリー美術館で始まった江戸後期の琳派の鈴木其一の展覧会に初日、行ってきました。其一については、名前はなんとなく知っていましたが、特にメトロポリタン美術館から借りている『朝顔図屏風』について、2012年にNHKのBS『極上美の饗宴』で紹介されて以来、「この絵の本物をいつか、見てみたいな。」と思っていました。

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"Morning Glories"   Suzuki Kiitsu    1795~1858   (178.2cm×379.8㎝) 

本物は、美しかった。菁々(其一の50歳を過ぎてからの雅号とかけて)堂々としていました。

朝顔の大きさは、一つの花が手のひらをひろげたくらい大きく、ゆったりと枝葉を伸ばしていく様子は、植物の持つ生長のエネルギーをそのまま写し取るように描かれていました。

朝顔のつぼみの一つひとつを見ると、「これから咲いていくのかな。」と期待しながら本物を見るように其一の絵にもそういった楽しみを感じることが出来ました。葉の形は三列に分かれており、琉球朝顔と言って、旺盛に近年繁殖している宿根性のものとは違う日本朝顔の特徴を確認して安心したり・・・。

展覧会では、其一作品を一堂に集めて、時代別に展示していましたが、この『朝顔図屏風』は、其一晩年の作品であり、私には其一が「これからは、自分の好きなように描こう。」としたような自由さを持った作品に感じられ、今回の作品群の中でやはり一番印象に残りました。

其一のそれまでの絵は、酒井抱一の後継者として注文主のオーダーの範囲で忠実に描こうとしたような、几帳面な少し個性を押し殺した絵のようにも思えたので、この屏風絵の前に来た時は、開放感でいっぱいになりました。

『極上 美の饗宴』の番組の中で、其一は「垣根を本作では、取っ払っている。」、ということを言っていたように記憶しています。番組を録画して2回ぐらいは見たのですが、その後、番組は消されてしまったようで、確認できず、情報が不確かなところもあると思いますが・・・。光琳の根津美術館の『燕子花図屏風』も八ツ橋(湿地に咲く燕子花を鑑賞するための板橋)を省略した大胆な構図と八ツ橋つきのメトロポリタン美術館所蔵の『八橋図屏風』が存在するように其一も本来、つる植物にあるべき構造物を大胆に省いていることを取り上げていました。

また、光琳の『燕子花図屏風』へのオマージュとしての金地に群青、緑青、胡粉を用いての朝顔図。琳派の絵師たちが先人をよく研究していたことが配色を見てもわかります。

この朝顔の岩絵の具、『極上 美の饗宴』では、「銅の成分の多い岩絵の具」と言っていたようです。調べると、藍銅鉱 アズライト。岩絵の具の名前では、岩群青と呼ばれるもののようです。朝顔の花びらの表面は、膠の量が極力少なく、岩絵の具の粒子がぎっしり定着するように三回以上も重ね塗りし、ヴェルベットのような質感を出した、と紹介していました。

そのような話も思い出しながら、じっとアップで見たり、離れて全体を見たり、「いったいこれをどこにどんな時に飾ったのかな?」とか、思いながら見ました。

現在の持ち主はアメリカ ニューヨークのメトロポリタン美術館。それ以前は、其一のパトロンであった松澤家伝来のものであったということです。きっと、朝顔の咲く夏の頃に、この屏風を立てて、宴を催したのでしょうか。

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今回、絵はがきを購入してきたのですが、実は、家にある博雅堂出版より出版された『〔おはなし名画シリーズ〕 琳派をめぐる三つの旅 〈宗達・光琳・抱一>』にも其一は、最後の方に紹介されています。

やはり、本物は、大きさも質感も全然違いますし、ましてやニューヨークに一体いつ行けるかも私の残された人生の中で疑問なので、今回の展覧会は、非常に満足しています。Recommend !!! です。

それから、ジョージア・オキーフの朝顔のアップの絵も思い出した。いつこの朝顔の絵がニューヨークに渡ったのか確認できませんが、オキーフもニューヨークで見ていたような気がしました。

【追記】

他の方のブログ記事を読んでいたら、この『朝顔図屏風』の構図が『風神雷神図屏風』と似ている、という話がありました。
家の中で、買ってきた絵葉書を飾っていたら、その意味がわかってきた。

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これは、博雅堂出版の『琳派をめぐる三つの旅』の中の図版と『朝顔図屏風』を比較に置いたもの。
其一の朝顔の枝の動きと図版上から3番目の抱一の雲の流れが似ています。偶然というよりも明らかに右隻、左隻とも動きが同じところがいくつかあることを確認できます。

また、画面の切り方ですが、これは、図版一番上の俵屋宗達のものと似ています。2番目の尾形光琳、3番目の酒井抱一は、風神、雷神ともの屏風の中に収めています。

この違いについては、宗達の風神、雷神の姿の切り方は、動きの激しいモチーフを一瞬、とらえたような迫力を与えているように感じます。

逆にモチーフを画面にきちんと収めることについては、人間の几帳面さ、つじつまを合わせたいという思いがあってのことだろうと思います。

画面に入れる入れないの両者が出そろったところで、鈴木其一は、宗達のモチーフの切り方、取り込み方が「いいなぁ~。」と思って、朝顔の枝の動きを上部切った形に描いたのではと思いました。

琳派の技法の集大成、そして自分も『風神雷神図』を描きたいという気持ちで描いたと思いました。

この後、時代は西欧化の明治時代へ、鈴木其一の作品がしっかりと国内で評価される間も少ない中で、この作品も渡米となったと考えました。

追記を書き終えた10月2日昼頃、今日のNHKの日曜美術館が鈴木其一であったことに気づきました。残念!

今日の朝は、TVつけないでDebbusy聴いていた!来週の再放送は見よう。

【追記二】10月9日再放送の『日曜美術館』を見ました。そして、前日10月8日に録画していた『極上 美の饗宴』も家にあり、見れました。

新たにわかったことは、アメリカに『朝顔図屏風』が渡ったのは、1954年である、ということ。
それから、鈴木其一も風神、雷神を襖絵で描いていたこと。


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