2017年10月16日 (月)

About An Artist : 運慶

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チラシ、ポスターで夏前から楽しみにしていた『運慶』の展覧会。先々週金曜日、上野の東京国立博物館 平成館に行ってきた。

今回、私が特に期待していたのが、このチラシの右下の赤いお顔の像。和歌山の金剛峯寺の国宝 八大童子立像の中の制多迦童子。このアングルの表情がCARPの中崎投手の九回に登板した時の投げる前の真剣な表情と「そっくり!」と思っていて、実際この目で見たかった。

会場で目にすると、イメージしていた大きさよりも二周りぐらい小さかった。また、チラシの写真とは違う方向から見ると、別の表情を見せる。不動明王像に随侍する八体の像のうち6体が運慶によって1197年頃、作られており、その中の一体。他の像もどこかの誰かのようなお顔をして、それぞれ個性があり、見ていて自然と笑みがこぼれた。

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平安遷都1300年公式記念品 せんとくん と 伐折羅(ばさら)大将 (新薬師寺蔵 復元彩色) 

家に帰って、制多迦童子のことを話していると娘と息子は、「せんとくんに似ている!」と言っていたので、2010年に奈良に行った時のお土産をゴソゴソ見つけて、「それもそうだな。」と思う。髪型や装身具など。せんとくんは、東京芸術大学 大学院 文化財の保護修復 彫刻科の教授をされている籔内左斗司氏のデザインだが、髪型や装身具に仏像の決まり事がいかされているので、現代の作品だけれど、それらしく見えている。

隣の怖いお顔と勇ましい鎧の像は、薬師如来を守る十二神将のうち一神の像。東大寺を作った聖武天皇が病気になった時に光明皇后が病が治ることを祈るために建てた新薬師寺に収められている日本最古の十二神将。8世紀のもので、塑造であるが、日本でそれまでに誰も見たことがなかった像をよく作ったものだと今更ながら、驚く。

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運慶の作品を今回、寺院を離れ、像そのものを博物館で見ると、どこからこの形を生み出したのか?と単純に考えてしまった。

像のポーズは、腰をひねりあげ、その方向の脚に重心をかけ、反対側の脚は軽く突き出すポーズが多い。動きの途中の一瞬を固定したような感じだ。金剛力士像などもこのポーズだ。この大胆なポーズが、運慶仏の魅力の一つだ。

しかし、この発想はオリジナルなのかと言えば、そうではない。その源流を考えると古代ギリシャのヘレニズム期に表れた体をS字にくねらせたポーズにつながってくる。コントラポストというが、ギリシャから直接伝えられたということではなく、インド、唐を介してこのポーズも日本まで伝えられたのだ。

また、髪型、装身具、光背を見ると、インドのヒンドゥー教の神々との関係も明らかだ。そのつながりについて、調べてみた。

仏教は、今から2500年ほど前に釈迦が始めた宗教であり、仏像は、500年後,、起源1世紀頃、アレキサンダー大王率いるギリシャ、西アジア系の工人の子孫によって、ガンダーラ地方で初めて釈迦の像が造られた。最初は釈迦の生涯を伝えた内容が主だったが、インドの中で仏教が人々に浸透していくために古代インド神話の神や悪神、鬼神さえも釈迦の教えに触れ仏教の守護神になったとして、様々な神を取り込んだ。これがインド密教であり、またヒンドゥー教とも同根とされる。大日如来は、ヴィシュヌであり、不空羂索観音は、シヴァである。ヒンドゥー教では、釈迦をビシュヌの化身として取り込んでいる。

このインド密教は、インドでは4世紀から11世紀まで続くが、1203年イスラム教徒が最後のパーラ王朝を滅ぼし、根絶された。その間、僧により、中国 長安(唐)へ経典がもたらされ、サンスクリット語からの訳が行われ、インドブームが唐でも起こったというが、844年 弾圧を受け衰退した。よって、インド、中国にはほとんど今は、残っていないという。

しかし、日本においては、奈良時代から遣唐使などにより、経典や図像がもたらされ、新しい情報が伝えられた。日本では、仏教は到来した宗派は今でも残されているものが多く、日本は密教美術の遺産を今に伝えている場所と言えるそうだ。

734年の帰国した留学僧が持ち帰ってきた経典や仏像を情報として興福寺西金堂の阿修羅像など八部衆が乾漆造で作られた。また、東大寺法華堂の執金剛神像や四天王像(現 戒壇堂蔵)も塑造により作られた。これらは、天平彫刻の完成形とされ、運慶ら鎌倉仏師へ影響を与えた。

1150年頃奈良に生まれた運慶にとって、東大寺、興福寺は日本における最先端の仏像を目にすることが出来る場所であったし、父親康慶の仕事も手伝い、造形のセンスを磨いていったのだろう。

1180年の平重衡による南都焼き討ちによる東大寺、興福寺の再建に関しては、1194年頃から慶派仏師集団として尽力し、その技術とセンスを存分に開花させていった。

また、804年に唐に行った空海や最澄、合わせて8人の僧が持ち帰った曼荼羅や燃え上がる火焔を光背とした五大明王のイメージも日本に新たに伝えられたことより、825年頃より、空海は京都の東寺講堂に大日如来を中心とする立体曼荼羅の諸像の造立を企てた。この東寺の諸像の補修を1197年、運慶は、手がけており、密教美術の持つ神秘的な造形にも触れたということだ。

このように運慶の見てきたものイメージしたものを推測しながら、どうしてあの彫刻が生まれたのかを自分なりに追いかけてみた。

今回の展覧会の中で、運慶が亡くなる7年前に作ったという大成徳明王像があったが、小さな像で壊れている部分もある像であったが、それまでの運慶の作像のすべてのエッセンスを封じ込めたようなパワーのある印象深い像であった。

参考にしたのは、

『インド神話入門』 長谷川明著 新潮社刊
『日本美術の歴史』 辻 惟雄著 東京大学出版刊 
『日本美術史』 美術出版社刊
『特別展 神奈川県立金沢文庫80年 運慶 中世密教と鎌倉幕府』図録
『興福寺中金堂再建記念特別展 運慶』図録 
『寺院と仏像のすべて』 藪中五白樹著 フジタ刊
『奈良の仏像(上)』 関根 俊一著 フジタ刊
『奈良の寺々』 西山 厚著 フジタ刊 

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2017年3月21日 (火)

About An Artist : ミュシャの想い

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NHKで放送された番組からアルフォンス・ミュシャの大きな作品『スラヴ叙事詩』を搬入しているシーンを見て、「これは絶対行かないと!」と思い、国立新美術館で始まった『ミュシャ展』に行ってきました。
6月5日(月)まで。

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ミュシャの作品は、1983年の日本での大回顧展を通じて、パリでのポスターをはじめとするリトグラフの作品群、素描とその後のチェコスロヴァキアでの祖国での作品群を見たことがありました。若い頃は、デザイナーとして活躍し、世界中の人から賞賛された後、故郷のチェコスロバキアのために勢力を傾けた作品を作っていったことがわかる展覧会でした

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その時の図録中で今回の展覧会で見ることのできる大作(6m×8m)の前にミュシャ自身が座っている写真が掲載されていました。『1919年、プラハ・カロリナムにおける《スラヴ叙事詩》連作の最初の11枚による展覧会風景』と書かれていました。

この時のミュシャは、第一次世界大戦後、オーストリアの支配を離れ、チェコスロヴァキア共和国が誕生したことを本当に喜んでいた時期だと思います。

実際本当に大きく、絵の隅々まで何が描かれているのかじっくりみることが出来ました。画面に近づくと、ミュシャの筆跡を見ることができました。

画材は、テンペラと油絵の具となっており、どう使い分けているのかとも思いました。ベースが油絵の具で細かい部分がテンペラ(顔料プラス卵黄)?

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これは、1983年の展覧会の時に《スラヴ叙事詩》の習作が展示された時のものです。これを今回の本作品と比較すると、大方の構図と色調は、ほぼ同じですが、個々の人物のポーズや細かな衣装、髪型、群像の人数や配置が微妙に変更になっていることがわかります。

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《スラヴ叙事詩》のための人物写真がたくさん撮影されたということが、NHKの番組でも紹介されていました。私が思うには、習作でミュシャがイメージした人物のポーズや衣装を仮に決定しておき、実際に村の人たち(制作していたズビロフ村)に演じてもらい、写真に撮り、制作の参考にしたという順序ではないかな、と推測します。写真に方眼に線が入っているものもあり、拡大した跡が伺えました。

1983年の図録の中にミュシャの息子さんの文章がありました。
『父にとって写真を撮る主たる目的は、ポーズだとか衣装の襞だとかをしっかり記憶しておくことにあった。…』

印象派の出現の前に写真機が発明され、形の記憶が可能になった19世紀末、画家の写真の活用法は、人それぞれの手にゆだねられたと思いますが、ミュシャは、このように利用したようです。

しかし、ミュシャの写真を見ていると、写真そのものにも人間の魅力を引き出したものが多く、今でいうなら、売れっ子写真家にもなれそうな感性を感じます。

《スラヴ叙事詩》の発想の原点には、チェコの作曲家スメタナの交響詩『わが祖国』があったことを知りました。昨晩、それを聞きながら、《スラヴ叙事詩》に描かれた場面を思い出し、ミュシャの表現した世界と一体化していくのを感じました。

ミュシャの亡くなる前年、1938年、ヒトラーは、チェコスロバキアの一部に対して領土要求し、1939年侵攻。それにより、現在のチェコは、保護領としてドイツの支配下になりました。

ミュシャは、民族意識が強い画家としてゲシュタボに連行され、4か月独房に入れられ、それが元で肺炎になり73歳で亡くなりました。《スラヴ叙事詩》の中の作品『スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い スラヴ民族復興』は、未完成の作品となってしまいましたが、ハープを持った娘さんと息子さんが描かれてあり、メッセージを次の世代に伝えているように感じました。

その後、1945年チェコスロヴァキアはソヴィエトの保護下で再建されましたが、1968年のプラハの春に対する弾圧もあり、苦しい時代を重ね、1989~1990年のビロード革命と呼ばれる共産党による独裁政権が終わりました。1993年スロヴァキアが分裂し、今のチェコに至っています。

ミュシャの描いた理想の世界は、画家一人のものではなく、チェコの人々の目指す世界観でもあったわけで、画家として自分が出来る最大限の仕事を果たしたいと作品を残したのだと思いました。

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2016年9月23日 (金)

About An Artist : 鈴木 其一の『朝顔図屏風』

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『朝顔図屏風』部分

9月10日から六本木サントリー美術館で始まった江戸後期の琳派の鈴木其一の展覧会に初日、行ってきました。其一については、名前はなんとなく知っていましたが、特にメトロポリタン美術館から借りている『朝顔図屏風』について、2012年にNHKのBS『極上美の饗宴』で紹介されて以来、「この絵の本物をいつか、見てみたいな。」と思っていました。

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"Morning Glories"   Suzuki Kiitsu    1795~1858   (178.2cm×379.8㎝) 

本物は、美しかった。菁々(其一の50歳を過ぎてからの雅号とかけて)堂々としていました。

朝顔の大きさは、一つの花が手のひらをひろげたくらい大きく、ゆったりと枝葉を伸ばしていく様子は、植物の持つ生長のエネルギーをそのまま写し取るように描かれていました。

朝顔のつぼみの一つひとつを見ると、「これから咲いていくのかな。」と期待しながら本物を見るように其一の絵にもそういった楽しみを感じることが出来ました。葉の形は三列に分かれており、琉球朝顔と言って、旺盛に近年繁殖している宿根性のものとは違う日本朝顔の特徴を確認して安心したり・・・。

展覧会では、其一作品を一堂に集めて、時代別に展示していましたが、この『朝顔図屏風』は、其一晩年の作品であり、私には其一が「これからは、自分の好きなように描こう。」としたような自由さを持った作品に感じられ、今回の作品群の中でやはり一番印象に残りました。

其一のそれまでの絵は、酒井抱一の後継者として注文主のオーダーの範囲で忠実に描こうとしたような、几帳面な少し個性を押し殺した絵のようにも思えたので、この屏風絵の前に来た時は、開放感でいっぱいになりました。

『極上 美の饗宴』の番組の中で、其一は「垣根を本作では、取っ払っている。」、ということを言っていたように記憶しています。番組を録画して2回ぐらいは見たのですが、その後、番組は消されてしまったようで、確認できず、情報が不確かなところもあると思いますが・・・。光琳の根津美術館の『燕子花図屏風』も八ツ橋(湿地に咲く燕子花を鑑賞するための板橋)を省略した大胆な構図と八ツ橋つきのメトロポリタン美術館所蔵の『八橋図屏風』が存在するように其一も本来、つる植物にあるべき構造物を大胆に省いていることを取り上げていました。

また、光琳の『燕子花図屏風』へのオマージュとしての金地に群青、緑青、胡粉を用いての朝顔図。琳派の絵師たちが先人をよく研究していたことが配色を見てもわかります。

この朝顔の岩絵の具、『極上 美の饗宴』では、「銅の成分の多い岩絵の具」と言っていたようです。調べると、藍銅鉱 アズライト。岩絵の具の名前では、岩群青と呼ばれるもののようです。朝顔の花びらの表面は、膠の量が極力少なく、岩絵の具の粒子がぎっしり定着するように三回以上も重ね塗りし、ヴェルベットのような質感を出した、と紹介していました。

そのような話も思い出しながら、じっとアップで見たり、離れて全体を見たり、「いったいこれをどこにどんな時に飾ったのかな?」とか、思いながら見ました。

現在の持ち主はアメリカ ニューヨークのメトロポリタン美術館。それ以前は、其一のパトロンであった松澤家伝来のものであったということです。きっと、朝顔の咲く夏の頃に、この屏風を立てて、宴を催したのでしょうか。

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今回、絵はがきを購入してきたのですが、実は、家にある博雅堂出版より出版された『〔おはなし名画シリーズ〕 琳派をめぐる三つの旅 〈宗達・光琳・抱一>』にも其一は、最後の方に紹介されています。

やはり、本物は、大きさも質感も全然違いますし、ましてやニューヨークに一体いつ行けるかも私の残された人生の中で疑問なので、今回の展覧会は、非常に満足しています。Recommend !!! です。

それから、ジョージア・オキーフの朝顔のアップの絵も思い出した。いつこの朝顔の絵がニューヨークに渡ったのか確認できませんが、オキーフもニューヨークで見ていたような気がしました。

【追記】

他の方のブログ記事を読んでいたら、この『朝顔図屏風』の構図が『風神雷神図屏風』と似ている、という話がありました。
家の中で、買ってきた絵葉書を飾っていたら、その意味がわかってきた。

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これは、博雅堂出版の『琳派をめぐる三つの旅』の中の図版と『朝顔図屏風』を比較に置いたもの。
其一の朝顔の枝の動きと図版上から3番目の抱一の雲の流れが似ています。偶然というよりも明らかに右隻、左隻とも動きが同じところがいくつかあることを確認できます。

また、画面の切り方ですが、これは、図版一番上の俵屋宗達のものと似ています。2番目の尾形光琳、3番目の酒井抱一は、風神、雷神ともの屏風の中に収めています。

この違いについては、宗達の風神、雷神の姿の切り方は、動きの激しいモチーフを一瞬、とらえたような迫力を与えているように感じます。

逆にモチーフを画面にきちんと収めることについては、人間の几帳面さ、つじつまを合わせたいという思いがあってのことだろうと思います。

画面に入れる入れないの両者が出そろったところで、鈴木其一は、宗達のモチーフの切り方、取り込み方が「いいなぁ~。」と思って、朝顔の枝の動きを上部切った形に描いたのではと思いました。

琳派の技法の集大成、そして自分も『風神雷神図』を描きたいという気持ちで描いたと思いました。

この後、時代は西欧化の明治時代へ、鈴木其一の作品がしっかりと国内で評価される間も少ない中で、この作品も渡米となったと考えました。

追記を書き終えた10月2日昼頃、今日のNHKの日曜美術館が鈴木其一であったことに気づきました。残念!

今日の朝は、TVつけないでDebbusy聴いていた!来週の再放送は見よう。

【追記二】10月9日再放送の『日曜美術館』を見ました。そして、前日10月8日に録画していた『極上 美の饗宴』も家にあり、見れました。

新たにわかったことは、アメリカに『朝顔図屏風』が渡ったのは、1954年である、ということ。
それから、鈴木其一も風神、雷神を襖絵で描いていたこと。


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2016年5月 2日 (月)

About An Artist : 若冲好み

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Paeonia suffruticosa    at Ueno Toshogu Peony Garden      Apr.30.2016

お休みなので、朝から上野の東京都美術館で行われている『若冲展』に行ってきました。お天気も良かったので、私たちと同じく気合を入れてきた方が多く、長蛇の列。一時間以上並んで、入館。丁寧に彩色された若冲の作品群が並んでいました。ここ10年ぐらい前からでしょうか(正しくは2000年に京都国立博物館での『特別展覧会 没後200年 若冲』以来、東日本大震災後のプライス コレクションの公開などTVや出版物で盛んに紹介され、それを通して知っているかのように思っていましたが、本物は、見ていなかった・・・。今回の展覧会で私もやっと、若冲自らの筆跡をゆっくり味わうことができました。

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村上隆さんが紹介されていた辻惟雄先生の『奇想の系譜』は、数年前、文庫本になっているものを入手し、読んでおりました。この1970年に出版された本での紹介も若冲について詳しく書かれており、やはりおすすめの本です。

P7160997_2Lilium 'Passion' オリエンタリス系 カノコユリより作られた系統
若冲は、カノコユリLilium speciosumを描いている。

私が育ててきた植物で若冲の描いたものと似ている植物の写真を集めてみました。

植物が好きな私が本物を見て気づいたことは、描かれた植物の品種が江戸時代でもいろいろあったのだな、ということ。特に『動植綵絵』は、斑入りの花を多く描いていました。また、一重、八重の存在する梅も八重の梅というスタンダードではない方を描いていたりして、珍種を好んで描いた趣味が伺えます。光琳の梅と言えば一重の紅、白となるところを、若冲は八重の淡いピンクの梅を取り入れたりしていた。かなりの植物通。

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Ipomoea purpurea セイヨウアサガオ 斑入り 丸葉  
若冲の描いた青の斑入りのアサガオはIpomoea nil二ホンアサガオ 葉の形が三裂 江戸時代にアサガオの突然変異種のブームがあったらしい。

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Hibiscus syriacus 八重のムクゲ 赤い斑入り 
若冲は同じアオイ科の斑入りの芙蓉(フヨウ)を描いていましたが、それも白に赤い絞り模様。

絵画のモチーフとして、スタンダードなものを入れた時と、そんでない時の差は何だろうか?視覚的には、スタンダートなものが分かりやすい色、形であり、一目でそれとわかる。=人間、何が描いてあるかとわかるとそれ以上は見ない。反対に一見、それとは思えない色、斑入りや花びらの枚数の多い珍種が描かれていると、見る人は「あれっ、これは?」と思い、背景に描かれた植物もじっと見ていく効果をもたらしているような気がしました。

本人は、本当に珍種の妙が好きで、どうせ描くならと描いたのがそもそもの動機だと思いますが、それらを描くために若冲自身も植物の手入れをしたあるいは、開花時期を熟知して、そこに写生に出かける等、園芸家のような行動(私の行動とも同じ)もかなりあったのではと思わずにはいられません。

バラもあり、一重のものは、ナニワイバラのよう。これは、牧野富太郎氏が1704年から1711年に中国から輸入されたものが、大阪で紹介されたのでナニワイバラという名前になった、と記されているようで若冲も、いろいろなものが集まってくる京都にいたので園芸文化のトレンドもキャッチしながら画題に取り入れていったことがわかります。

描かれた植物は、今でも同じようなものが市場にあり、栽培できますが、どれもセイヨウ・・・とかいう交雑種になって、日本に里帰りした植物となっています。日本の植物が若冲以降、18世紀以降、西洋に紹介され、品種改良の元になっていったわけです。鎖国状態下の日本で愛されていた時の植物の姿を留めているとも言えます。

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アオスジアゲハ                                    

これは、やっと写真に収めたアオスジアゲハです。花壇の手入れをしていた時に撮影したもの。若冲もアオスジアゲハがシャクヤクの花にとまろうとしているところを絵に描いていました。ちょうど、展覧会の帰りに寛永寺の牡丹園で若冲の絵とそっくりのリアル体験をしましたが、本当に「あれっ!」と思うほどの瞬間の出来事でした。

写真に収めるのもやっとの一瞬の昆虫の動き(鳥、小動物も含めて)や風になびく植物の姿をとらえて書き留めた若冲の観察眼と執念はすごいものだと改めて感じています。

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そんな若冲の自然を追い求める姿が伺えて、今回の若冲展は、私にとって若冲のイメージをより深めてくれるものとなりました。

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2015年10月16日 (金)

About An Artist : Monet

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瀬戸内海                             Aug.10.2015

東京都美術館で開催されているマルモッタン美術館所蔵『モネ展』に行ってきました。『印象、日の出』が10月18日までの特別出展ということで、「帰ってしまう前にやはり見ておこう!」と、朝一番に行きました。本物を見たのは、初めて。

本当にきれいでした。朝もやの中にオレンジ色の光が昇ってくる静かな時間の一瞬がそこには封じ込められていました。

写真は、娘が母の家の2階から見える瀬戸内海の日の出を撮ったもの。絵を見て、この時のことを思い出しました。眠いけれど、母と娘と私で静かな日の出の時間、3人でバルコニーに手すりにつかまりながらじっと見ていました。鳥が朝の挨拶をチチ チチッと鳴く声だけが聞こえていました。

間近に、近寄って見るための列に並び、しばし、向き合った。モネのササッと描いたタッチの交差し、きらめくのを見た時、確かにモネの肉筆であるという親近感を覚えた。

モネの『印象、日の出』は、時を越え、場所を越え、私にもちゃんと日の出の頃の空気や音や色の印象を呼び覚ましてくれました。

「そこが、この絵の魅力なのだ。」と本物を見てすこーんとわかった。「それぞれの心にある日の出の印象を呼び起こす作品なのだ。」と。

モネは、写真家のようでもある。空気中の水分の量で変わる光景の一瞬の美しさをモネというフィルターを使って
キャンバスに油絵具を使って、とどめようとした。現代の描画材料に比べ、乾きにくい油絵具、迷ったらもういいと思った光景は、変化しているはずだ。それに挑み続けたモネの制作姿勢は、そう簡単に真似のできるものではない。

作品の中で最もリラックスして絵の前で幸せな気分になったのが、作品No.69の『睡蓮』。白い睡蓮が美しい深い青紫色の池に浮かんで咲いていた。水面を描くタッチと睡蓮の花、葉が水平を感じさせるのに対して、オリーブ グリーンの柳の葉陰が垂直に水面に垂れている。その縦と横の交差と色の対比が絶妙。考えてみると垂直に描ける植物は柳しかない。柳の魅力は、そこだと改めて感じた。

200×190㎝の大型画面から発せられるモネの睡蓮の世界に久しぶりにどっぷりと浸ることが出来ました。オランジェリー美術館のモネの大壁画に囲まれた時の感動をちょっぴり思い出した。

今回の展覧会の多くはジヴェルニーの家にあった作品を息子さんがマルモッタン美術館に寄贈したもので、人目に触れるとはモネ自身も思っていなかっただろうな、と思う作品もあったような気がする。

モネの眼鏡とパイプ、パレットも展示されており、とりわけ眼鏡に関しては、白内障の手術後にそれぞれの目の状態に合わせて、レンズを入れてあった。苦労してもなお、筆を置くことはなかったモネの「絵が描きたい。」という願いを伝えるものだった。

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積丹半島                                   Jan.5.2007

モネのゆかりの深い場所を静かにいつか、訪れてみたい。ノルマンディー地方のエトルタを描いた作品群は、積丹ブルーと呼ばれる美しい海の色とベージュ色の崖が美しい北海道の積丹半島の景色にも似ているし、モネの絵は、日本人である私にも、なじみのあるモチーフが多い。

父が持っていて、生前に譲ってもらった本 『パリからの小さな旅』 稲葉宏璽著には、エトルタについての文章があり、そこにモネのことが書いてあります。

『…何度もここを訪れたモネは80点以上を制作。秋になって静けさを取り戻した海岸で制作を続けていたモネの、1885年の手紙には、「エトルタにはネコの子一匹いない。ただ、モーパッサンを除いては。昨日彼を見かけた……。そして翌年、モーパッサンは「モネは対象を前に、待ち、陽光と影を見つめ、落ちていく光や通過する雲を何筆かでとらえ、……素早くキャンバスの上に置いていった。私は、彼がこうやって白い断崖の上のきらめく光が落ちていくさまをつかみ取り、この目の眩む把えようのない光の効果を、奇妙な驚くべき黄色のトーンに定着していくのを見た……。
 日の出前から夜まで、時とともに移り変わるここの風景は、まさに印象派的なのです。』

この文章を読むと、その時のことが、目に浮かぶようです。

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2015年10月 1日 (木)

About An Artist : Ryuichi Sakamoto

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坂本龍一さんの楽譜で時々、ピアノを弾いています。ピアノの楽譜はいろいろ持っていますが、坂本さんの音楽の響きは、不思議な魅力があります。落ち込んでしまいそうな時は、自分の弾いているピアノの響きでさえ、癒してくれる音楽なのです。

父が他界した年も私は、ピアノを弾いて自分を慰め、ぽっかり空いた心の隙間を音の響きで埋め合わせしていました。

東日本大震災の後もそうだった。こんな時に癒しを含んだ曲は、と思い返せば、バッハ、坂本龍一さん。特に、あの年のクリスマスに坂本さんが銀座のYAMAHAで演奏したものを東北の各地のピアノに伝え、自動演奏させた催しは、感動しました。雑踏の師走の街角に置かれたピアノから『戦場のメリークリスマス』が流れているテレビの映像は、こんなひどい災害にあった方々にも心に灯を届けたいというメッセージが伝わってきました。聞く気持ちになれない人もいたでしょう。でも、思いかけず、足をとめて、聴いて見ようと思った人たちの心に音が染み入っていくような映像を見ました。

私自身、キリスト教の幼稚園や日曜学校に通っていたせいもあり、クリスマスにただサンタクロースがくるからうれしい、と思っている人間ではなく、困っている人のためにこの時期に何かできないかと思う方。

坂本氏の取り組みは、そんな自分の気持ちにもぴったり合って映像を見ながら涙、涙・・・。

私自身が何もできないもどかしさを打ち破ってくれたような気がしました。ありがとうございます。

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その後、病気の治療で活動を休まれていましたが、つい最近活動再開、ということでまた新しい音楽を作られていることを楽しみにしているところです。

古くは、YMOの頃より、「この音楽、かっこいい~」と音大のピアノ科に進んだ友達と選んだ『ライディーン』を体育祭の応援団のBGMに使って、はまってしまった頃からのファンでありました。

写真の楽譜は、坂本龍一完全責任編集としてRITTO MUSICより出版された『/05』もの。ちょっとした音も重なりも他の方が採譜したものと違うと弾けばひくほど価値を置くようになってきました。

本屋さんでもう一冊オレンジ色の『/04』もあったのですが、他の方の採譜の楽譜でも持っていた『戦場のメリークリスマス』等が入っていたので、そちらは買わないでいました。

でも今は、後悔。今欲しいと思っても、どうも値段が吊り上がってしまって、ちょっと入手できないのです。

願わくば、RITTO MUSUICさんがもう一度、印刷してくれるといいな~と密かに思っている私です。


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2015年3月22日 (日)

About An Artist : Botticelli のまなざし

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Part of "La Primavera " Botticelli 

昔使ったスケッチ ブックに入っていたモノクロの三美神。いいなぁと思って、このページは残しておいたもの。

東京では、昨年からボッティチェリの作品が世界中から集められて展覧会が開催されています。

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昨日も渋谷のBunkamura ザ ミュージアムで始まった『ボッティチェリとルネサンス』に行ってきました。

本物をいっぱい見て、やっぱりいいなあと思っています。何がいいかというと。女性をあたたかなまなざしで美しく大らかに描いているから。衣装も女性の美しさが引き出されるふわっとしているけれどシンプルなところ。それから、自然の表現、植物、空、海!地球上の美をボッティチェリなりの表現で表しているところ。これこそ、ルネッサンスの精神そのもの。

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昨年の東京都美術館で行われた「ウフィツィ美術館展」も写真の≪パラスとケンタウロス≫のパラスの美しさと植物で飾られた衣装がかっこよかった。植物は、平和のシンボル、オリーブ。王冠の中心やドレスにダイヤモンドのリングがあしらわれている。そんなドレス、信じられない!!、これは、神話の一シーン。

パラスとは、聞きなれない神様ですが、調べるとアテナのことでした。アテナは、ゼウスの子ですが、「やがて、ゼウスをしのぐ。」と予言されたために、産まれる前に母ごとゼウスにのみ込まれてしまったそうです。そこで、鍛冶の神へパイストスがゼウスの頭を割って、アテナを産みだしたことから、武装して産まれてきたそうです。

展覧会の後、なかなか日本ではこれまで本物を見る機会が少ないボッティチェリに関する本が欲しくて、Museum shop で探してみつけてのが、この本。

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 『ボッティチェリと花の都フィレンツェ』       〔おはなし名画シリーズ〕   博雅堂出版

このシリーズは、大判サイズなので、図版が大きくかつ代表的な作品は、網羅され、説明も子ども向けなので、分かりやすい。他の画家もこのシリーズをいくつか持っていますが、色眼鏡なしにこの本をボッティチェリの本に関しても選らびました。

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この本でわかったことは、《春》も《ヴィーナス誕生》もそして、おそらく《パラスとケンタウロス》も女性のモデルがシモネッタという若くして亡くなったジュリアーノ メディチの恋人であったということです。

ボッティチェリは、彼女が病気であることを知り、その美しさを永遠にのこす絵を描こうとして、詩人ポリツィアーノの書いた『ヴィーナスの王国』の世界を描く中に彼女の姿を描き込んでいったということです。

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シモネッタさんのお顔は、現代でいうとCool Beauty。楚々とした雰囲気。そして、病気のせいだったのでしょう、何か悲しげです。目の下のくまのあたりの薄い皮膚の表現が人間の皮膚感を漂わせています。そういう、よく見せようとするのとは、反対の嘘偽りない表現が心を打ちます。

メディチ家の没落とともに、花の都は輝きを失い、ダ ヴィンチもフィレンツェを後にしました。だけど、ボッティチェリは残り、その後の修道僧サボナローラの倹約的な政治下の時代にも耐え、制作をしました。しかし最後は、ほとんど絵を描かなくなり、65歳の生涯を終えたそうです。お墓は、シモネッタも眠る教会にあるそうです。

そんな、ボッティチェリの人間らしい一生に共感。

私たちは、人間が生み出した芸術の歴史を一気に振り返って比較してみることが出来るけれど、いつも感動するのは、人ひとりの想い。何を想って手を動かしていったのか、というところです。


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2013年2月24日 (日)

About An Artist : Leonard da Vinchi   レオナルド ダ ヴィンチ

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子どものころから、やはり何かこの絵は違う!と思っていたレオナルド ダ ヴィンチの『モナ リザ』。先日(2013年2月14日)の日経の夕刊で昨年、日本でも公開された『若き日のモナ リザ又は、アイルワースのモナ リザ』が本物であることを裏付ける新しい証拠が発表された、との記事が掲載されていました。

描かれたキャンバスの枠材の放射性の炭素14の濃度分析から、1410~55年のものと判定されたとこと。それが何を意味するのかというと、どうもルーブルの『モナ リザ』よりも前に描かれたものではないか、ということです。

『若き日のモナ リザ』の載った雑誌が手元にちょうどあったので、開いてみると確かに「レオナルドによる1503年の未完成作説あり」と書かれています。ルーヴルのモナ リザよりモデルの女性が若い頃の肖像画とすれば、2つの絵のつながりがスムーズです。なるほど、と思いながら、最近のモナリザを巡る報道が何件があったのを整理してみました。

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この『若き日のモナリザ』は2012年日本で開催された『レオナルド ダ ヴィンチ 美の理想展』に世界初公開で展示されていました。今思えば、残念、行っておけばよかった・・・。その後、9月27日スイス ジュネーブのモナリザ財団が「ダ ヴィンチの描いたものである。」という研究結果を発表し、世界中で話題になっています。

この財団のホームページには詳しくその根拠となった理由が掲載されています。

異論を唱えている人には、モナ リザ研究で有名なイギリスの研究者 マーティン ケンプ氏がいます。この方は、近年『美しき姫君』というべラム(羊皮紙…本当は仔牛の皮)に描かれた少女の横顔の肖像画がレオナルドの作品であるとした人です。これに対しても異論を唱えている人がいるようですが。

その他、2005年にドイツのハイデルベルグ図書館で発見された1503年にフィレツェの役人の書いたメモに 『レオナルド ダ ヴィンチはリザ デル ジョコンドの肖像画を制作中である。』との記述があったことで、具体的なモデルになった女性が確定され、2011年には、リザの埋葬された修道院がつきとめられ、現在それと思われる遺骨が発掘されたようです。生前の姿の復元をも試みているようで、ここ最近、モナ リザの研究は、いろいろなことが分かってきています。

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『若き日のモナ リザ』の真贋をめぐる説の中で、私が、一番本物ではないかと思ったのは、ラファエロがダ ヴィンチの工房を1504年に訪れた時にダヴィンチが制作中の絵をスケッチしたものが残されており、このスケッチとの比較において。ラファエロはこのスケッチをもとに『一角獣を抱いた貴婦人』(日本で2010年にボルゲーゼコレクション展で展示 これは、見ました。)を1505~06年に制作しています。

スケッチには、背景の両側に柱が描かれ、地平線のラインもルーヴルのモナ リザよりも低い位置に描かれています。また、表情もプリッとした目力のある若さ輝く女性が描かれています。

この話は、ボルゲーゼ コレクション展の時に聞いたこともあったのですが、「ずいぶんルーヴルのモナ リザと違う。」と思ったものでした。ラファエロの見た絵が『若き日のモナ リザ』であれば、スケッチと一致するのです。

今までは、1504年ラファエロが見たのもルーヴルのモナ リザで、そこからダ ヴィンチの亡くなった1519年までの間、絵は手元に置かれ、加筆され続けていたというのが、一般的だったのですが、このラファエロのスケッチとの比較においてもつじつまが合わない部分があった所がすっきりしてきます。

それから、ダ ヴィンチにリザ デル ジョコンドの肖像画を依頼した人物が2名いた、ということが近年わかってきています。

一人目は、『芸術家列伝』を書いたヴァザーリの記述に『フランチェスコ デル ジョコンドの依頼で妻の肖像画に取り掛かっている。まだ未完成のままだが。』という部分にあるリザの夫からの肖像画依頼についての記録

二人目は、1517年に書かれた枢機卿の秘書の書いた『旅行記』の中にあった部分。フランスにいたダ ヴィンチに会った時の記録として「ダヴィンチが故ジュリア―ノ デ メディチ からの依頼の肖像画を持っていた。」という部分。

『若き日のモナ リザ』がダヴィンチの作だとすると、1503年ごろ描いていたのが『若き日のモナ リザ』
それ以降、ジュリア―ノの1513年から1516年の間、フィレンツェを治めていた時に依頼されたのがルーヴル版という説も成り立ってきます。

1516年ジュリア―ノが亡くなり、絵を渡せないまま、ダ ヴィンチはフランスまで持っていき、1519年、レオナルドも亡くなりました。それから、ルーヴルの『モナ リザ』は、フランスの宝として今に至る訳です。

これから、もっと知りたいことは、『若き日のモナ リザ』が本物であるならば、1500年から1900年までどこにあったのか?ということです。

ここが、はっきりすれば、本物だと言えるのでは?


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2013年2月10日 (日)

About An Artist : Bernard Palissy ベルナール パリシ― 

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12月に上野の東京都美術館行われていた『メトロポリタン美術館展』に行きました。コレクションの幅広さは百科事典のようですごかった。展示は、例えば「海と人間」というテーマの元、コレクションの中からメトロポリタンの担当者が選りすぐった作品を日本に持ってきたということでした。見る側としては、まったく時代の異なる作品が隣同志に飾られており、おもしろい体験。歴史や美術史を思い出したり、関連作品を思い出したりと頭の体操となりました。いつかアメリカのメトロポリタンに行ってみたい。

今回特に、興味深かったのは、数年前から気になっていたベルナール パリシ―の陶器の実物を見ることが出来たこと。

ぬめっとした蛇やカエルが皿の上に。初めは、びっくりするが、よく見ると本物をよく観察して作られていることに感心。山の中の沢の側を歩いている時、ふと足元を見た時の景色のようで思わず、じっと見つめてしまいました。

特に美しいのは、それぞれの動植物ならではの色や質感がキラキラ光るつるっとした色ガラス釉で表現されていること。

私が、はじめてパリシーについて、知ったのは、アンティークをリプロした Barbotine という製法で作られた皿を購入してから。これは、緑色のガラス釉がレリーフの凹凸に入リ濃淡が出来て美しいもので、その製法を調べていて、彼の名前に行きつきました。

パリシ―は16世紀のフランスで色ガラスの釉薬の研究をした人物とされている。レリーフについては、実物の動植物から型取りし、作陶しているとのこと。Slipcastingという液状にした粘土を流し込み、水分を飛ばし、型からはずす製法と私は考えます。

当時のフランスでは、キリスト教のプロテスタントが入ってきて、パリシ―も改宗。しかし、プロテスタントへの国王側からの弾圧が行われ、最終的には、パリシ―も投獄の末、そこで病気のため亡くなりました。

けれど、彼の作品は、弾圧側のアンヌ ド モンモランシ‐元帥やアンリ2世の妃のカトリーヌ ド メディシスにも認められ、彼らの庇護を受け作陶しました。おもしろいのは庭園の一部である陶製洞窟(エクアン)を依頼されていること。

そのことを裏付ける事実として1983年から1990年に行われたルーヴル美術館の大工事の際、パリシ―の工房が発見され、たくさんの陶片の中に、エクアン用の装飾用陶片もたくさん発掘されたそうです。

パリシ―の工房で作られたエクアンなんて、ぎょっとしそうな空間となっていたでしょう。

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今、『陶工パリシ―の博物問答』というパリシ―自身が1572年に書いた本の翻訳本を読んでいます。
化学や地学、生物学などが現代のように確立されていなかった時代に自然をよく観察し、「どうして?」と疑問を持ちながら探究していく姿がその文章から伺え、人間として親近感を持ちながら、読み進めています。

今回のMetのコレクションのようにパリシ―の作品は、ルーヴルやエルミタージュなどにもコレクションされているようです。

いつか日本でも『フレンチ ルネッサンス ベルナール パリシ―の世界』なる展覧会が開かれると面白いと思っています。

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2012年9月21日 (金)

About An Artist : ジャン シメオン シャルダン

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『シャルダン展 静寂の巨匠』     Jean Siméon Chardin

先日、東京駅の復元工事がほぼ完了したというニュースを聞いて、見に行こうと丸の内へ。

だけど、東京駅を見る前にこのシャルダン展のポスターを見てしまい、「あっ!私、シャルダン好きだった!」と脳の中に押し込まれていた記憶がよみがえり、三菱一号館美術展館で行なわれている展覧会へ。

日本では、初の回顧展だそうです。

丸の内にある写真の絵は、飴色になった柳のバスケットに山盛りに積まれた木いちごと手前に置かれた白いカーネーション。グラスに入っているのは、水それとも白ワイン?それから桃、サクランボ。

画面の中で大きな割合を占めるいちごの色がとても美しく、みずみずしさや甘酸っぱが伝わってきました。

カーネーションがもう一枚の絵にも登場していたけれど、その頃、露地栽培で手に入ったのかな?とか、ここでバラの花でないのが「シャルダンらしい。」のかもと思いながら見ていました。バラだったら、オランダ絵画かロココになる・・・。

同じ時代のロココの絵画が今から見ても派手さが際立っているのに対して、つつましいという言葉が浮かぶシャルダン。

絵を描くテクニックが確かなことは、わかりますが、「モチーフの選び方」という点でも画家の個性がちゃんと反映され、それをまわりが認めていたという点で、人間として恵まれていた方ではないかと思いました。

時代が変わるフランス革命前にルーヴル宮の一室で80歳で亡くなっています。

人物画は、庶民の姿が見る人に共感を与えるようなテーマで象徴的に描かれており、その後のミレーにも影響を与えたことがよくわかりました。

印象派へつながる絵画の橋渡しを確かに担っていたシャルダン。作品数が少なく、なかなか知られていなかったけれど、じわっと今の私達にも伝わる良さを持っている画家だと改めて思いました。

モチーフに描かれている台所用具も雑貨好きの人にはおすすめだと思います。Museum shopのフランスの雑貨類が集められているのも楽しかったし、一号館のクラシックな雰囲気の中、日常からエスケープし、「油の静物画」に浸るのも学生だった頃を思い出しました。

宝物を再発掘したような気分で満足して帰ってきました。

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