2024年6月22日 (土)

About An Artist : オラファー・エリアソン

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『相互に繋がりあう瞬間が協和する周期』 Olafur Eliasson 2023

 今年3月、麻布台ヒルズギャラリーの開館記念として開催されたオラファー・エリアソンの展覧会に行ってきました。横浜トリエンナーレでも作品は見たことがあったのですが、個展としては、初めて。また2020年の東京都現代美術館での展覧会もあったのですが、日曜美術館で紹介された番組を見ただけでコロナ下ということもあり、出かけていませんでした。とにかく、「自分の目で見ておかなくちゃ。」と思いで行って来ました。

すでに展覧会は終わっていますが、麻布台ヒルズの最も高層のビル"Tower"の吹き抜け空間に常設でモビール作品が展示されていますので、興味がある方は、それをご覧になれば、彼の作品の壮大なイメージに触れることが出来ると思います。

このモビールは、合わせて4つあり、大型で自由な軌線を描き、また繋がっているという形をしています。映画で見た宇宙空間に漂う物質が軌道上に並んでいる様子にも思えます。一つひとつの多面体が隣の形とつながっているという非常によく考えられた構造なのですが、全体の動きがのびやかで頭上にあっても圧迫感がないモビールでした。

素材はリサイクルされた亜鉛で作られているそうです。亜鉛を型に入れて作った鋳造作品だと思いますが、なぜ、エリアソンが亜鉛にこだわっているのかが気になり、調べてみました。すると、亜鉛は、「沸点が低く、気化しやすい。」性質なので、大気中に最も多く存在している金属なのだそうです。人間が亜鉛を採取し使うことで工場からの排煙、車の排気ガス、摩耗したタイヤの粉塵から放出され、大気中や海洋においても有害物質となっているのだそうです。そのことをふまえ、エリアソンは、人間が亜鉛を使うことは、最終的には、人間の肺に吸われるのだということを考え、この作品に塊の形に戻すことで、人間由来の放出を少しでも減らせる、と使ったようです。

科学的な意味がしっかりあっての作品であることが分かりました。

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『呼吸のための空気』   Olafur Eliasson       2023

 展覧会で特に印象に残ったものも、亜鉛で作られたモビールの作品。今、題名の意味がようやく理解できるようになったところなのですが、会場にぶら下げられ、ゆっくり回るのだけれど、人が予想している形とは全く違う姿をにゅるにゅると見せて動くので、しばらく見ていた作品。

知っている二重螺旋構造のような形かな、と思いきや2本のパイプ状の金属が自由な曲線で渦を描きながら絡み合い、離れ、そしてどこかでつながっていて、また戻ってくる形をしていました。

床に映る影も変化して、揺らぎを感じるとてもきれいな形でした。

 最後の部屋には、エリアソンの作品がのっている本やインタビューの映像が流れていて、彼がアイスランド系のデンマーク人であり、子どもの頃から火と氷の島であるアイスランドの自然に触れる機会が多くあったことで、それを自分の作品に活かしていきたいと考えているかを語っていました。また、環境問題や社会問題に対して、彼がその時々でどうとらえ、考え、人にそれを伝えるための作品にしていくプロセスを大事にしているかも知ることができました。

彼の作品は、世界各地でその場所に合わせて考え、作られ、展示され、見る人に地球環境の貴さ、美しさを再認識させ、地球の環境の変化が危ぶまれる今、一人ひとりに問題を投げかけるアーティストとして評価されてきています。

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2024年6月17日 (月)

About An Artist : シアスタ―・ゲイツ展 アフロ民藝

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Theaster Gates AFRO-MINGEI     Mori Art Museum

 NHKの日曜美術館の展覧会の紹介コーナーで知った六本木 森美術館で開催中のシアスタ―・ゲイツの展覧会に行ってきました。

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A Heavenly Chord                                                        2022 

会場の入り口には、この作品展についての彼の序文があり、彼の考えが語られていました。ゆっくり一読して会場に入ると、彼が作った彫刻作品や壁面に飾られた立体作品、インスタレーションでその展示空間に合わせて再構成されたものがありました。よくよく見ていくと、それは、人々が踏みしめてきた床材で作られた十字架であったり、多くの人が祈りを捧げるために集った教会の椅子と讃美歌を歌うために使われたハモンド・オルガンやスピーカーであったり、彼がその時々に出会った捨てられそうなものを「意味のあるもの」として見出し、再構成した作品でした。会場の床は、この展覧会のために常滑で焼かれた微妙に焼き色が違うレンガタイルが敷き詰められていました。

 彼は、1973年、シカゴで生まれのアフリカ系アメリカ人。大学で彫刻と都市計画を学び、2004年、愛知県の常滑市で陶芸を学ぶために来日。様々な文化への理解を深める中で、特に日本の柳宗悦による民藝運動「無名の工人たちによって作られた日常的な工芸品の美しさを称える運動」が、60年代、70年代、80年代のアメリカでの ”Black is beautiful” というスローガンの元、西洋中心主義の中で自分たちのアイデンティティーであるブラック・カルチャーを自分たちが大事にしていこうとする運動と重なったといいます。それ以来、自分が陶芸の作品を作るだけではなく、今までの自分たちの文化を発掘し、再評価し再構成していくという過程を通した作品を発表しています。

彼の活動を紹介したパネル展示の中で、感心したのは、自分の作品を売ったお金で、シカゴのサウス・エンド地区の取り壊される建物を買い取り、本を収集して、本棚を作り、地域の人が集まる図書館のようなコミュニティー・スペースを作り出していったというプロジェクト。これが最初で、その後もこの地区には、少しずつ、資金を作っては、そのようにそこに住む人たちのためのスペースを作っていったそうです。

芸術がアーツと日本でも呼ばれ、テレビに映って歌う人を「アーティスト」と呼ぶようになって、何か大衆に受け、お金を稼ぎだしている人が「アーティスト」となっていることに、違和感を感じていましたが、彼の活動は、まったく違います。同じ人間として見習うべき部分がたくさんあります。いつの時代でも人間が目指してきた「人々が日々を幸せに暮らしていける世の中を作りたい。」という目標のためのアーツなのです。

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Black Library & Black Space

 展示室の天井高いっぱいまで使って作られた無垢板の本棚も、圧巻でした。思わずいいな、と思い近づくと、「自由に取って読んでいいです。」というメッセージが書かれていたので、私は、いくつか私にとって面白そうな本を、引っ張り出してみました。それは、焼き物のテクニック本で釉薬の化学的組成をレシピのようにまとめた本でした。それを見て、「釉薬の配合を変えて、焼き物を作ってみる、なんてことをやってみたいな。」なんて思ったりして、一気にまた新しい世界の扉が開かれたような気がしました。

この本は、亡くなった人の蔵書を彼が収集、保存し、彼自身もそこからヒントを得たり、多くの人に図書館のように閲覧できるようにしているコレクションでした。わざわざ、アメリカから膨大の数の本を森美術館の53階まで上げているわけですが、その昔の本は、アメリカのブラック・カルチャーを形作ってきた一翼を担うものであるし、誰かの生きていくヒントにもなった本として愛読されたもの。これから手に取る人にも何かのヒントになる可能性を持つものとして、これを保管公開し、作品として位置づけていました。

これは、まさに中国の孔子の『古きを温めて新しきを知らば、以って師となるべし』という言葉を具現化したような本棚。

 「年表」の展示では、アメリカ史と日本史の出来事と民衆の運動、工芸に関わる事項が組み合わされた形で作られた年表でした。特に印象に残ったのは、日本の民藝運動の動き、アフリカ系アメリカ人の運動の歴史が書き込まれている所。民藝運動の歴史のみをまとめた年表ではなく、ミックスさせた形で見ると、今まで自分が気づかなかったことに気付いたような気がしています。それは、今まで日本の「民藝運動」は、西欧化の反動、機械化による大量生産への警笛と考えていました。しかしそれだけではなく、日本が軍国主義に傾き、諸外国との戦争の中で両方の人間の生命が脅かされる異常な状況への反動として生まれた思想であったのではということに気付きました。きな臭い状況と時代が重なっていると思いました。戦国時代に殺伐とした戦の中、心の平安を求めるべく、真逆の文化であるわび茶を千利休が大成していったのと、同じような動き。柳らの民藝運動は美しいものを集める趣味的なものではなくて、ものを作った一人ひとりを、人間の命を大事にするという意味をも隠し込めていた運動であったのではないかと思うようになってきました。

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最後の部屋は、亡くなった常滑焼の陶芸家の方の持っていたその方の膨大な作品を保存展示した棚があり、何やら重低音のイケイケ・ビートの効いた音楽が流れ、キラキラオブジェが回る昔のディスコ (クラブ?行ったことがないけれど)のような空間でした。しかし、バー・カウンターの裏の棚には江戸時代の日本酒の徳利が天井まで並ぶ渋いコーナーになっていました。一つひとつがろくろ作りで作られ、名が筆文字で書かれていました。名もない工人の手仕事によって機能的に作られたお酒を入れるのにちょうど良い徳利の膨大なコレクションが飾られたミックス・カルチャーなこの場所は、私達自身が忘れてしまっているこの日本で懸命に生きた人々の技を今に伝えるものでした。

アーツとは本来、人が記憶をたどりながら、手を動かし、新たなものを作りだすこと。そして、それを見た人の記憶を呼び覚まし、共感を呼ぶもの。

 

 

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2023年12月 4日 (月)

About An Artist : David Hockney

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 11月5日まで東京都現代美術館で行われていた『デヴィッド・ホックニー展』に10月に行ってきました。コロナ下ですっかり美術館に行けないことに慣れてしまいましたが、この展覧会だけは「行こう。」と思っていた展覧会でした。

ホックニーを知ったのは、私が美術科の学生になった頃。図書館にあった『美術手帖』で見たのかな。そして池袋のSEIBU美術館で初めて作品を見たような気がします。

とにかくその当時、生きている人たちの作品で日本では、まだ真価が定まらないので公立の美術館はその頃は、展示していませんでした。

私は、ほぼ正方形に近い、額装もシンプル、厚みも薄い、リキテンシュタイン、ウォーホール、ホックニーなどの作品を見て、その時代の新しい作品を目の当たりにしました。学生でお金もないので図録などは、買えず、しっかり目に焼き付け、エネルギーを受け止め、うきうきして帰ったことを覚えています。それらの作品は、まだ日本で解説したものが少なく、Tom Wolfe の"THE PAINTED WORD"の日本語訳『現代美術コテンパン』(晶文社刊)や『アメリカン・アート』石崎浩一郎著(講談社現代新書刊)などがアメリカでの美術の動向を解説するもので、熟読していました。

20世紀の美術は作品だけを見ると、「なんでこうなっちゃったの?」という感じで展開していきますが、当時の背景を知ることで「なるほど。」と分かるわけですが、「だれのため?」と考えると、必ずしも「人のため」の美術ではなくなり、自分を認めてもらいたい欲求だったりします。そうなると「どうぞ、ご勝手に」と大衆からは、見られたりしていました。で30年ぐらい経ってその人たちの突っ張った作品もやっと大衆に受け入れられ、Tシャツの絵に使われたりしています。30年くらい平気で先を行っているという表現が正しいのかな。

ホックニーを初めて見た時、子どもの頃、きれいで好きだった、プールの水面に揺れる不定形の輪をつないだような光の形を作品に取り入れていたことで、「うまいな~!」なんて、思ったことを覚えています。

芝生でスプリンクラーが回っている作品も子どもの時の体験を思い出しました。水しぶきに当たって「気持ちいい!」とか。

リトグラフの作品だった思いますが、油絵の重厚さに比べ平面的で軽く、色彩は明るく、カジュアル。作品を見て「楽しい!」という気持ちを呼び起こしてくれたような作品であったことを覚えています。

そういった点で、新しく、自分の木版画やシルク・スクリーンの制作では、「何となくホックニー」的なのほほんとした作品を作ったりしました。ですから、結構、影響を受けておりました。その後、私は就職、結婚、育児に追われ、ホックニーのその後の活動は、知らなかったのですが、子どもが中学生になった時、ホックニーのコラージュの作品が資料集に取り上げられていて、作風が変わったことを知りました。一枚の写真のように人間は空間を把握していない、絶えずあちこち、視点を動かして、空間を私達は把握している、だから、こんな作品を作ってみました、というような実験的なコラージュ作品でした。

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2017年 大英博物館で行われた"Hokusai : Beyond the Great Wave" という北斎の展覧会に合わせて撮影されたドキュメンタリー映画にホックニーは、解説者のように出演。彼自身が北斎のことを画家の視点で語っていました。そこで日本の美術にも精通し研究熱心な人であることを知り、より尊敬するようになりました。

そして今回の作品展で、ホックニーが人生をかけて研究している「人は空間を平面にどう表現してきたか、またその新しい方法とは?」をまた見させてもらえ、実りの多い展覧会でした。

ちょっと、じわっと感動したのは、ホックニーがお母さんの肖像画を描いた『My Parents』という作品でした。自分も学生時代、何をキャンバスに描くか悩んだ挙句、家族一人ひとりをスケッチし、それを組み合わせて油彩画にしました。その時の気持ちは、「これ以上ない感謝の気持ち」からでした。

ですから、ホックニーが両親の肖像画を一世を風靡したロサンゼルスの作品群の後に描いていたことに自分の最も大事な家族の絵を愛情を持って描いていたことにとても人間的なものを感じました。

また、9つのカメラを車に乗せて微妙に視点と視線が違う同時撮影の道沿いの森を写した動画のコラージュ4作品は、自分がその道を本当に散歩をしているように感じさせてくれました。鳥のさえずりで樹の上の方を眺めたり、光に透ける葉の輝きを眺めたりしながら、あちこち視点をずらしながら、人が五感で空間を感じる気持ちよさを疑似体験しているようで、「またもやうまいことをするな!」と会場で笑ってしまいました。

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ホックニーの「水」の表現への探求も印象に残りました。1971年に日本に訪れた時の感想が載った本が会場の一角にありました。そこに『(その当時の日本の風景が浮世絵に描かれていた)イメージした景色とは違って(工場が立ち並び)、がっかりした。』というような記述があるのですが、『それでも日本の絵の水の表現方法は、素晴らしいものがある。」と書いてあり、ホックニー自身も「水」の表現、プール、スプリンクラー、雨、水たまり,池などの表現に今もこだわっていることがiPadで描いた作品からも伺えました。

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渋谷のBukamuraの本屋さんが閉まる前に「この本は買っておこう!」と買い求めたホックニーの『絵画の歴史 洞窟壁画からiPadまで』は、まだ読破できていないのですが、今回また、美術館で『春はまた巡る』(いすれも青幻舎刊)を買ってしまいました。

ただでさえ、Slow readerなのに、老眼も加わりどうやって本を読もうか悩む今日この頃ですが、、ホックニーのまなざしや考えを追体験しながら、読んでいきたいと思っています。

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2023年11月26日 (日)

About An Artist : レオナール・ツグハル・フジタ

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左から『三王礼拝』『十字架降下』『受胎告知』 1927年 ひろしま美術館蔵

 ひろしま美術館にあるレオナール・フジタの絵。私が美術の学生だった頃見たフジタの最初の絵であり,作者の願いと共にひろしまの地にあると思ってきた作品。

その頃の私はフジタの名前にどうしてレオナールとつくのかわからなかった。「この人はどんな人だったのだろう?」と思いながらも絵の表現しているものが聖書のシーンであることは、自分の想像していたシーンと重なり、すっと理解できた。

とにかく細い、迷いのないすーとした墨で描かれた輪郭線。こんなに自信を持ってシンプルな線をひけるなんて!とその潔さに驚いた。それを引き立てる白い肌の色。平面的なようで、薄墨で陰影をつけている。

私の家には、集英社の大判の西洋美術全集があって、今程子どもの娯楽もなく暇なときは、一人で画集を開いては、じっと見ていた。それがあってだと思うが画家ごとのタッチや色使いを感覚的に分類できるようになっているのだが、この日本人の画家のタッチや白い肌の色は、私にとっては、逆に珍しかった。むしろ、学生時代私自身が日本美術に疎かった。

「受胎告知」やクリスマスの晩の場面もあるが、とにかく中心のキリストの姿と悲しむマリア達の姿が傷ましい。

背景の仕上げが屏風絵の金箔を貼った仕上げになっていることや3枚のキャンバスが並んで、展示されていることで、屏風絵をみているように感じていた。学生時代、画題に迷い,かつての画家たちの作品を貪欲に見ていた自分には、何度も見た3枚の絵が私の中では、フジタの代表作なのにほとんど、その情報がないまま時間が経っていた。

「何がきっかけでこの絵を描いたのか?」ということが引っかかってきた。

ここ15年ぐらいであろうか、ずい分フジタに関する研究も進み紹介されるようになり、美術館や映画『foujita』、テレビ、随筆集によって、フジタの人生について知ることが出来るようになった。でも、あの3枚の絵について取り上げたものはなかった。

昨年、ポーラ美術館に行った時にフジタの展覧会の図録の見本をぱらぱらと立ち読みさせてもらった。「あの絵についての話はないか?」と探していた。すると、フジタがフランス滞在中、気に入った絵があり、それを見るためにその絵のある場所に1ヵ月滞在したという話が載っていた。

「もしや、?」と思い自分の手帳にその絵の名前を控えた。『アンゲラン・カルトン  ヴェルヌーブ・ザヴィニョンのピエタ 1455年 ルーヴル 1ヵ月滞在』と。

これを頼りに、家でルーヴル美術館のサイトで出てきたのが、

F0082_Louvre_Pietà_de_Villeneuve-lès-Avignon_RF_1569_rwk_B.jpg (4056×3018) (wikimedia.org)

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Pietà_de_Villeneuve-lès-Avignon_ 1455    Enguerrand Quarton  Louvre 

この絵が出てきた。「これだ!」と思った。

フランスのアヴィニヨンの教皇庁があった場所の対岸の場所の地名が Villeneuve-lès-Avignon であり、そこにあったピエタ(キリストの遺体を膝に抱いて悲しむ聖母マリアの図像)という題名がついており、現在ルーヴル美術館に収蔵されている絵だった。

1455年といえば、油彩画自体が珍しい頃。油彩画の創始者と言われるヤン・ファン・エイクが『ゲント祭壇画』をネーデルランド(今のベルギー)で油彩画で描いたのが1432年。ちなみにダ・ヴィンチが板に油彩で『モナ・リザ』を描いたのが1503年。

この絵のマリアやキリストの顔を見るとビザンティン美術のように人物の描写や光輪を描くことなどに形式があるようにも見えるが、その他の人物には自然なグラデーションで陰影をつけ表現できる油絵の具の特性をいかし、人物が写実的に個性的に描かれている。左の人物がネーデルランドの寄進者だそうだ。背景の金色は、人物をくっきりと引き立てながら、空間が広がっていくように見せている。遠くに描かれているのは、コンスタンティノープルの聖ソフィア寺院。1453年にビザンツ帝国がオスマン帝国に占領され、東のキリスト教国の終焉という歴史が実際にあったことを嘆いている姿にも重なっているようだ。

それまでキリスト教では、布教のためにモザイク画やフレスコ、テンペラで聖書の話を視覚化させてきているが、この頃になると画家が独自に構図やポーズに工夫を加えながら描き始めている様子がうかがえる。

そういった型にはまらない自由さをフジタはこの絵に見出し、気に入ったのかもしれない。

フジタは西洋の美術に触れながらもそのまま取り入れるのではなく、自分は日本人であるという独自性をはっきりと打ち出した作品を描き、認められたことを一つに成功体験としてこの絵もそのように仕上げたのであろう。

1925年、フランス政府よりレジオン・ド・ヌール勲章を贈られた。このことは、フジタにとって、それまでの苦労が報われた大きな喜びになったことであっただろう。 1927年上の3枚の絵を発表したわけだが、この作品がその後の人生をも暗示していた。

2つの大戦を生き、祖国に懸命に尽くしたフジタであったが、苦渋の決断の末、日本を離れた。人間は基本的に人に認めてもらい、前向きに生きたいと思って生きていこうとするものだと思う。だからフジタのことを人生で初めて認めてくれた国、フランスにもう一度戻り、1955年国籍を得、1957年にはレジオン・ドヌールのシュバリエを贈られた。自分を受け入れてくれた国、その宗教的基盤であるフレンチ・カトリックに改宗し、藤田 嗣治は、フジタレオナール・ツグハル・フジタとなった。

それから日本に帰ることはなかったが、日本人であることを大事にしていたと思う。

悲しいことに精神的に最も安心してくらせる場所を日本は、彼に与えられなかったのである。

フジタが日本に残してくれた祈りの形であるこの大作を私はこれからも心の中で大切にしていきたいと思う。

日本人が表現したキリスト教美術の絵画、フランスも認める表現、そのようなものは、私が思いつくもので今現在、世界中を探してもあの3枚の絵以外にはないのだから。

 

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2021年6月26日 (土)

About An Artist : Sadao Watanabe 70th Anniversary Concert

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  昨日、4月29日から延期になっていた渡辺貞夫さんの70周年コンサートがサントリーホールで無事に行われました。

大変な時期にこの記念公演が重なり、大層皆さん、この日に至るまで大変であったと思い、出演者がステージで最後に挨拶のために一列に並ばれた時は、「ご苦労様でした。」と思いながら拍手しました。

渡辺貞夫さんと私の母は、同い年。88歳。昭和一桁生まれの方々は、本当に好奇心いっぱいの方が多いと帰ってから、思ったしだいです。

他界した父もそうで、少年時代を田舎で過ごし、空を飛ぶ飛行機を見て、パイロットになりたいと思いながら、終戦を迎えたそうで、戦後の民主化の中で、自分の信じた道に進み、Geographerとして、世界各地に調査に出かけ、亡くなる少し前まで仕事も引き受けていた父でした。

学校で教えられたことが、これからは違う世の中になると、大人に言われても・・・。じゃあ、何を信じればいいの?自分でしょ!とこの時代の人はなったのではないかな、と思ったりします。

ナベサダさんのBiographyの断片は、時々、伝えられ、世界中を旅して、自分の目で見て確かめてきた足跡が音楽に生かされてきており、人は旅をしなきゃ、と我が身を振り返る次第ですし、子どもたちにもそれを勧めたいと改めて思いました。

とにかく音色の温かさから、信頼感や安堵の気持ちを感じさせてもらって、数十年。Orange Express の頃は、CMの中の人でしたが、

アルバム『ELISE』の頃から、熟聴させてもらい、所属していたAmature Jazz Fusion Bandでは、数曲、演奏させてもらいました。

昨日も、ナベサダさんは若いミュージシャンとともに笑顔で合図を送りあいながら、曲の間もほぼ、休まず間髪入れずにカウントを出したりして、精力的に、楽しく演奏されていました。

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Album ”Naturally” 2015  Recorded in Brasil

My 80’s Casette tapes  "ELIS" ,"FRONT SEAT", "SWEET DEAL", "BIRDS OF PASSAGE", "KIRIN LIVE '90", "AMERICA LIVE '90"

今回の構成は、Jazz&Bossa with Strings ということで、演奏プログラムを紐解くと印象的だったのが、第2部。

Luis Bonfaの『カーニバルの朝』から始まり、決めきめの演奏で楽しそうな『Passo de Doria』等、ナベサダさんの作曲した曲を中心とした構成でした。ギターのマルセロ木村さんのつま弾く弦の調べが葉を揺らす風のようにキラキラ会場に響いて、サントリーホールにブラジルの風を吹かせていました。CDでは、小編成で録音しているものも実際にコンサートで見ることは、ほぼなかったので、しみじみAccorsticな調べを楽しませてもらいました。

アンコールの『花は咲く』は、素直にメロディーをたどるように演奏され、心の中で、歌いながら聞きました。

久しぶりの生演奏の音の響きに感動がこみ上げ、涙がじわっとでてきました。我慢してきている心の蓋を開けてもらった感じ。

拍手の時、みんなも同じ気持ちのようで、ナベサダさんを拝んでいるようにも見えました。

一緒に行った娘もClassic Saxphoneを吹き、普段は、逆にSaxphoneのコンサートは敬遠なのですが、ナベサダさんのコンサートは12歳の頃より、3回目。今回も「行きたい!」と言ってくれ、「最初から、涙が出た。」と彼女の心にも音が響き、感情を揺さぶったようでした。

「毎回、音色が変わる。」というぐらい、どんな音を出しているのか、ということやSelmerやリードのことなど、あれこれ帰った後も、気づきを言っていました。

二人で、ナベサダさんに日本の歌をシンプルに吹いてもらいたいね、と話をしました。

言葉はなくても、ナベサダさんの音には、Saudage がしみ込んでいるので。

2014年のクリスマス・コンサートの時の記事はこちら

 

 

 

 

 

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2020年7月 6日 (月)

About An Artist: Vincent van Gogh : At Eternity’s gate

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昨年11月にゴッホの映画を観に行った。昔作られたカーク・ダグラスが演じたゴッホの映画を観たが、その後作られた映画は観ていない。映画や小説でその人の人生を追うよりは、その人が残したものから、こんな風に考え描いたのではと自分なりにゆっくり考えていくのが好きだ。

今回のゴッホ役は、ウィリアム・デフォー。なんだか、二人ともマーベルの映画に敵対する役で一緒に出ていたが、確かにゴッホに顔が似ている俳優さんだ。

しかし、今回のジュリアン・シュナーベル監督の本作は、制作中のフィルムなどの公開などから、描かれた場所に行き、撮影が進められたということを知っていたので、是非、大画面で見たいと思っていた。監督自身も絵を描いていた人。

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映画の冒頭の完全にゴッホの見ていたようにカメラが動くシーン。絵の具やイーゼルを運び、家に帰ってくるシーン。

学生時代にモチーフを探しにスケッチに出かけた頃を思い出した。

手を動かせば、絵は描ける。しかし、何を自分のものとして一枚のキャンバスに残せばいいのか、迷った。

あの頃はスケッチしながら、人の評価を気にして、絵を描くのが辛い頃だった。

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ゴッホが日記のようにいろいろなものを描いたのには、決定的な評価が得られなかったためにいつも迷っていたからだと思う。

でも、サン・レミの修道院に入ってからは、スケッチに行けないので、逆に心の中にある美しい色、形を自由に表現していった。

あの時代、心の動きともとれるSchrollうねりというタッチでキャンバスの上に表した画家は、ゴッホ以外にいただろうか。

ニューヨークのMOMAにある『星月夜』は、ゴッホの残した作品のベストだと思う。色の研究によって意図したであろう補色対比である濃紺と黄色の組み合わせは、純粋に美しい色面だ。モチーフの糸杉は画面の中の垂線となり、月や星の散らばる夜空につながるように描かれている。宇宙という果てしない世界がここには描かれている。

天にも届きそうな糸杉は、ゴッホの願い「いつかは、天国に召されたい」というキリスト教的な気持ちを隠喩しているように感じる。

現実の世界では、理解してもらえないゴッホはこの絵の中に、自分の心が解放され、受け入れてもらえる自由や安心感を感じる世界を作り出した。

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映画から南仏の景色や光、風など疑似体験させてもらえたし、油絵を描く気持ちも思い出させてくれた。

パンフレットに使われていたこの黄色。

ジョーンブリアン, カドミウム イエロー? 懐かしい色名が浮かんだ。

油絵の具は顔料の違いで微妙にチューブの中の絵の具は塗った時に今、多用されているアクリル絵の具とは違う濁りを含んだ色面を作る。

展色剤として揮発性の油もあるが、一般に乾きも遅く、前に描いた絵の具がぬるぬるして、塗り重ねるのに時間がかかる。

だから、一般的に油絵は時間をかけて制作されるものだ。

ゴッホの作品の中で何度も本物で見た作品は、その常識を覆している。

ゴッホ最後の地、オーベル・シュル・オワーズでの作品、ひろしま美術館蔵の『ドービニーの庭』は、チューブからそのまま置いたのでは、と思われるぐらいパレットで混ぜた痕跡のないような絵の具が粗いタッチで置かれ、セラドン・グリーンの空の美しい色が特に印象的な作品だ。

べたつく油絵の具を乾かしては塗るということはしないで、早く完成させたいからともとれるが、今となっては、自分に残された時間がないことを悟っていたのかなとも思うと悲しい。

帰省の際に、機会があれば、ひろしま美術館を訪れ、天窓のあるドーム型の常設展示室の作品を観に行くが、やはりこの絵は上部の色とタッチを確認するように観ている。

「確かにこの絵の前でゴッホは筆を動かしたのだ。」と感じる。

 

 

 

 

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2017年12月13日 (水)

About An Artist : Ryuichi Sakamoto "IS YOUR TIME"

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 12月9日(土)から新宿 オペラシティーのNTT インターコミュニケーション センター(ICC)で始った坂本龍一氏と高谷史朗氏による『設置音楽 2』を初日、聴きに行った。この日は、午後3時からトークショウもあるということで、朝早く出かけ、整理券をもらって、お話も聞きました。

会場は、昔、ICCが始まったころに、Media Artsなるものは、なんぞやとよちよちの子どもを連れて行ったことがあった。開館20周年ということで、息子も今や23歳。ひと昔経ったともいえる。

今回、お話を聞く前に作品を鑑賞させてもらった。坂本氏の音楽がICCならではの体験型アートになっていた。

トークの中で、具体的な説明を聞けたので、印象に残ったことをトークからの説明も加えて書き残したいと思う。

設置された空間は、高校の文化祭のような、暗室へと続いていた。縦長の空間(トークで25mという話が出たが、縦の長さか、横の幅なのか分からないが)の両脇にスピーカー14台の上にディスプレーが積まれ、並んでいた。いろいろな音が流れ、倍音が響いたり、鳥の声が聞こえたり・・・・オルガンの音が聴こえ、教会に行ったような感じだ。今年、出されたアルバム『async』の中で聴いたような音が聴こえ、突き当りには、ライトに照らされたグランドピアノの鍵盤がこちらを向いていた。

いきなり、祭壇のようなピアノに近づくのには、ずかずかし過ぎる気持ちだったので、ちょうど真ん中あたりに立ち止まって、暗闇に自分をならしながら、音楽を耳を傾けた。

グラス ハープのような音が重なり、倍音が生まれる心地良さに身をゆだねながら、様々な音の流れに耳を傾ける。ディスプレーの光は、目をつむると、太陽の光のようにも感じるほどの強弱もあり、音と同期して光を放っていた。

会場の床に座り込み、腰を据えて聞くことにした。すると、時々、ピアノがポーンと音を奏でる。調子が明らかにくるっている。けれど、スピーカーからの音は、すべて録音されたものなので、ピアノ自身から発せられる音は唯一、「生きている音」として、耳に響いた。つかみどころのない音の波の中で、確実な音を響かせ、心の拠り所のような存在感を持っていた。

誰もいないので、坂本氏が事前に弾いたものを自動演奏させているのかな、と思っていたら、トークで聞くと、違った。

そのピアノの音は、最近1カ月の世界で起きた地震を感知したものを圧縮したもので、地震が起きると、ピアノの上に設置された金属製の棒が下降し、鍵盤を鳴らすという仕組みをYAMAHAに協力してもらって、作ったということだった。

つまり、人為的に音楽に合わせて、ピアノの音を鳴らすというのではなく、地震の発生のタイミングを音に変えているという設定となっていた。

ひとしきり,聴いてやっとピアノに近づいた。震災で水に使ったというピアノだった。中を見ると、泥がついたままで、ピアノ線がピンピン切れていた。鍵盤を鳴らす仕組みもじっと見ていた。自動演奏の装置なんかではなく、鍵盤の上に櫓のようなもの作り、そこに鍵盤をたたく棒がたくさんつけられていた。

再び、オルガンの音が聴こえたので、一巡したな、と思い、会場を出た。一時間ちょっとぐらいであった。

聴いている間、バリエーションがいろいろあったので、聞き続けたいと思って、座り続けていた。普段の美術館のインスタレーションならば、こんなに長くは滞在しないだろう。映像や音を使った作品も今、いろいろあるが、一時間もその場を離れない作品は、たぶん、今までになかった。

音の速さのこと等、技術的な工夫について、トークで語られていたが、素地がほとんどないので、???と思いながら、聞いていたが、あの空間に合ったセッティングを調整し、設置したということだった。

また、トークでも語られていたが、やはり、教会をイメージしたというような設定だそうだ。両脇のスピーカーの列は側廊の列柱のようにも設定したようだ。

ピアノに関しては、映画『CODA』でも語られていた言葉、「津波という自然現象にさらされ、人が作ったものの多くが、自然の姿に帰っていった。ピアノも自然が調律したのだ・・・。」という坂本氏のとらえ方が印象に残った。現実に被害の状況を目の当たりにして、このアンバランスにも思える状況を別の見方からとらえていた。

あのピアノを二度と鳴らないピアノではなく、もう一度、音を奏でるようにしたのだ。私たちがその音を聞くことは、震災のことを思い出し、亡くなった方への祈りの気持ちにつながっていく。


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2017年11月30日 (木)

About An Artist : Tadao Ando : 水の教会

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 安藤忠雄氏設計による北海道にある水の教会。25年前、ここで結婚式をあげた。安藤建築が自分の住まいになることは、たぶん、残された人生の長さを考えると、ないと思う。けれど、この日だけは、これからの自分の人生のためにこの建築物があり、ここで式をあげることができたことを幸いであると思った。今でも、その思いは変わらない。

教会というと、シンメトリーな配置に設計されるのが、普通。また、祭壇には、当然、十字架が据えられるが、その向こうは、壁面となる。人が集まるための広い空間に始まり、そこに行けば天国を感じることのできる美しさを体験できる空間が作られてきた。それには、ヨーロッパに多く産する白亜紀に作られた加工しやすい石灰岩やそれがマグマの熱におって変成した大理石が使われた。それを積むという建築方法を基本に教会の建築は技術が進歩していった。

安藤建築のコンクリート造の教会建築は、それらの枠をいったん取り払い、新たな軸組工法による自由な発想の教会建築を実現させている。安藤さんがル・コルビジェが1955年に設計したロンシャン聖堂に若い頃に訪れた時、その当時、安藤さんが持っていた建築の常識を完全に覆すような自由な表現の可能性に気付く体験をしたそうだ。

このような旅の体験、本物に触れ、自分で得た感動が安藤さんのその後の仕事に大きく影響を与えているようだ。

アニミズムを信仰のベースにしていた日本人にとってのキリスト教のための教会建築に祭壇方向に空、山並みと樹木、水という景観を取り込んだ水の教会は、私たちの心にもすっとなじむ教会建築を提案した形となった。

私自身は、これがきっかけで安藤建築への興味がスタートとなった。

式が始まると、祭壇側の大きな一枚ガラスが右側にスライドしていった。これは、知らなかったので、私も皆もびっくりした。

涙で胸が詰まりそうな時間であったが、窓が開いて、外から風が吹き込んでくると、気持ちが一気に軽くなった。

おまけにかわいいチョウチョも飛んできて、なんと、私の頭につけていた花飾りの上にちょうど、とまったようだ。

家族がそれをじっと見ていたらしく、式後、「チョウチョがとまったんだよね~!」と口々に言っていた。ちょっとしたハプニングがとても楽しかったらしく、今でもその話は、思い出の一ページとなって、母が子どもたちにも話している。

あれ以来、一度も訪れてはないのだが、今回の展覧会で、水の教会の平面図やドローイングのリトグラフを見ることができた。前日に牧師さんと話をした部屋はこうなっていたのか、なんて新発見しながら見ることが出来た。

新たなスタートを自然に誓ったという思いが今でもある。


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2017年11月20日 (月)

About An Artist : Ryuichi Sakamoto :CODA

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昨日、有楽町の映画館に坂本龍一さんのドキュメンタリーを見に行った。
先週ニュースでこの映画のことを知り、どこで上映しているか、調べると、東京でも2館のみの上映で、見逃してはなかなか見られないかもしれないと思い、行ってきた。昨年は、娘が"Revenant"の試写会に抽選であたり、実は初めて坂本さんのピアノ演奏を聞くことが出来るという幸運に恵まれた。治療のため、お休みされて以来、久しぶりの映画のため作曲された作品で、ストーリーも厳しいが音楽も絶望の淵に吸い込まれそうな大変厳しい音楽であった。今回の映画でも語られていたが、やはりご本人も厳しい状況での仕事だったようだ。以前の記事はこちら

今まで、紹介されてきた活動や演奏の足跡を追ってきたTV映像なども使われ、新たな映像、もちろん音楽とともに、ご本人の回想インタヴューとともに綴られていた。

タイトルのCODAって音楽の記号。to Vide_2「コーダへ」という部分から小節の左上のVide_2Codaへ飛び、そして、曲は、終結部に入り、終わりを迎える。それまで、さんざん繰り返し記号で初めへ戻ったり、もう一度印象的な山場を演奏したりした挙句、CODAが出てくると、いよいよ終わりに近づくよ、となる印だ。Vide_2は、イタリア語で゛Vide"「見よ」という意味だそうで、それまでは、無視して演奏するが、最後はしっかり見て終結部へ向かうように楽譜の中でも目立つ形にしているらしい。

映画で時代を追いながら、見ているとどうしても自分のことも思い出された。YMOとの出会いは『ライディーン』だったが、大学時代、先輩が、バンドを学園祭に向けて、結成するという。なんでもYMOの曲をするとか、なんとか・・・。それにつられて、入り、キーボード担当で楽譜もコピー譜をもらったが、家には、アップライトのピアノしかなく、キーボードなどない。そこで、高校時代の友人のKurzweilのキーボードを借りにいった。映画の中でシーケンサーを使う場面が出てきたが、結局、説明書もなく借りたので、シーケンサーも上手く使いこなせなかった。みんなもタイトなリズムキープは出来ずにYMOのコピーは、崩壊してしまった・・・ことなど、恥ずかしいことを映画の後に思い出した。

まねしたくなるほど、私は「YMOはかっこいい!」と思っていた。

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Kamaishi port in Iwate prefecture            Aug.11.2011

震災で水に使ったピアノを坂本さんが弾くシーン。

2011年3月11日。東日本大震災の後、震災のニュース映像がテレビに映された時、倒れて、泥にまみれたピアノを見た。あのピアノを弾いていた人の普通の暮らしが津波に奪われた。突然、多くの人が津波にのまれたことを思うと、心残りであったろうと思わずにはいられなかった。

その後、8月に東北出身のGeographerであった父がこの震災の状況を私や孫たちに見せたいと被災地に連れていってくれた。それは、TVでは表現できない津波の凄まじさを私たちに伝えるものだった。

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震災後、皆、出来ることは何か考えたと思う。また、人生の終わりの日は突然訪れることも自覚したと思う。その後、父も闘病の末、他界した。極寒の地から灼熱の地まで調査に出かけた父は、今までの仕事をすべて、整理し、記録を残してくれた。まだ、全部は読むことが出来ないが、書いたものから父の考え方を知ることが出来る。1,2年のうち一晩ぐらい、笑顔の父が夢に現れ、大事なことを伝えに来てくれる。本当のことだ。

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async

今年4月に出たアルバム『async』にまつわるシーン。

一緒に映画に行ったパパさんは、先日、娘に「一番好きな映画は何?」と聞かれて『惑星ソラリス!』と答えたばかりだったそうで、映画の後、「すごーい。坂本さんと趣味が同じだ!」と喜んでいた。パパさんは20歳ぐらいの時に見たそうだ。そういえば、パパの撮る写真に映像が似ているような気もした。

私は、『惑星ソラリス』〈1972年 タルコフスキー)については知らなかったが、そこで、BGMにBachの゛ Ich ruf zu Dir, Herr Jesu Christ (BWV 639)"を挿入している場面を今回の映画で見た。

鳥の声など主人公のいる草むらの周辺から聞こえてくる音に耳を澄ましていると、バッハのオルガンのコラールが流れてきた。自然界の音と音楽、そして映像があっていた。不思議な感じだった。タルコフスキーがどうやって、このアイディアを思いついたのかは、わからないが、子どもの頃、Sunday schoolに行っていた私は、礼拝の初めてと終わりに演奏されるバッハなどの長めの曲をじっと聞いているのが、実はつらかった。しかし、目をつむりながら、頭の中にお話を想像するようにして聞くようにするとなんとかじっと聴けるようになった。もしかしたら、タルコフスキーも子どもの頃、こんな空想体験があったのかもしれないと思った。

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『async』の中の坂本さんの曲「solari 」は、『惑星ソラリス』のバッハのコラール(ルター派の讃美歌)に代わるものとしてとして作った、と言われていた。何か、聴いていると、私は、子どもの頃が呼び覚まされるようだった。夕焼けの中母の元に帰るようなノスタルジックな気持ちになる。それから、子どもの頃聞いた、オルガンのフガフガしたようなシンセサイザーの音色も過去の記憶を呼び覚ます。

『async』には、いろいろな音が存在している。その何かわからない音に聞き耳を立てる。聴覚は、危険を察知するために視覚より早く反射行動を起こすという。この何か得体の知れない音に注意しながら、これは何かと状況を判断しようとしている。

また、以前に知ったことなのだが、小鳥のさえずりとフルートを聴いた時と、脳は、どちらが活性化しているかというとことを調べると、小鳥のさえずりの時なのだそうだ。

こう考えると、今、音楽として限定的に使われている音は楽器や人間が可動できるかという範囲で作られたもので、その中で、喜怒哀楽を表現してヒットしたとか、上手いとか話題にしているものだ。

実は、どんな演奏家も自然の音には勝てない反応を人間の脳は示しているわけで、多くの音楽を演奏し、音を作り、作曲してきた坂本さんはそのことに気づき、何年か前より、自然界の音や町の音などを録音している。やみくもではなく、今の自分の心の風景に合う音を聴きたい、そしてそれを使いたいと探している。それは、新しい音というわけでなく、人の心に過去の記憶を掘り起こす音もある。

ラスト シーン。バッハの平均律クラヴィーア曲集 第1巻「プレリュード1ハ長調」(Das Wohltemperiertes Klavier 1 "Preludium 1 C dur" BWV846 )を一人で弾いていたシーン。

この曲を求めているんだと思うと、最後、涙が噴き出した。

自分も何か嫌なことがあってもこの曲を弾くと、脳幹に響くようで、心が安定する曲だからだ。自分自身に聴かせる曲として位置付けている。癒しの力を持つ音楽は確かに存在する。

音の持つ力を見つけ、また新しい音楽に挑戦している坂本さん。

Vide_2Codaに入ったとしても、poco a pocorit.や日没を表すというPoint_dorguesvg_2を譜面につけVide_2をじっくり感動的に演奏していってほしいと思っています。

 


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2017年11月17日 (金)

About An Artist : Tadao Ando ゛Endeavor"

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Added Ando's Drawing in this exhibition's catalog

先日の日曜日、安藤忠雄氏の展覧会に六本木 国立新美術館に行ってきた。安藤さんの設計した水の教会で結婚式をあげてから、25年。それから、前向きな姿勢に私自身も影響されて、チャレンジすることに勇気をいただいたと改めて思う。私が最も、すごいなと思ってきたのは、夢を現実にするパワーだ。

それが、一番表れているところは、安藤さん自身だ。経歴の最初に必ず、書かれているところ。『独学で建築を学んだ。』ここだ。簡単な一文で表されているが、この言葉の裏の壮大な夢と努力に人として、敬意を払わずにはいられない。

『信ずれば、道は開ける。』と身を持って、教えてくれた方である。

実際に、お会いしたことはないが、NHKのドキュメンタリー番組や人間講座、若者との対談、書籍等で人柄を知り、大阪弁で、はっきりと話をすすめていく安藤節に勇気づけられ、すっかりファンになっていた。

今回の展覧会は、一番大きな展示場が使用され、今までの数々の建築作品のためのスケッチ、設計図、模型、写真、映像がテーマごとに並べらてれいた。美術館中庭には、光の教会の原寸 模型が作られていて、そこに入ると、都会であることを忘れ、私も周りの人々も、暗闇からもれる光の十字架を見ながら、しーんとして敬虔な気持ちになっていた。

サプライズだったのは、展示台や壁には、安藤さんが当時の現場の解決するべき点を考えながら、考えていたイメージ スケッチがマーカーでさらさらっと描かれていたところ。今でも、一つひとつの作品が昨日のことのように思い出されるのだろうな、と思った。描きながら、ベストな形、アイディアを探し続けた思索の片鱗を見せてもらったようだった。上の写真の今回の展覧会カタログの直筆サインとスケッチにも驚いた。ありがとうございます。

壁に描かれた安藤さん直筆スケッチを見ながら、「美術館は、これは捨てられないな~!」と思っていると、今年の夏訪れた直島のスケッチもあった。

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View from Chicyu arts museum                           Aug,2.2.2017

 1992年に開館した安藤忠雄氏設計による直島のベネッセハウスをはじめとする一帯の建築物を小豆島に一泊してから高松港から入って、めぐった。撮影は禁止なので、敷地から見える瀬戸内海が上の写真だ。これは、地中美術館からのもの。

水の教会もそうであったが、地中美術館にいると、自分が今どこにいるのか、わからなくなった。単に方向音痴だから、ということではなく、通常の箱状の建築物にならされているため、壁が斜めに立ちはだかっている空間や斜めに下がっていくスロープ等、あれれ、どこに行くの?という感じだった。

暗い通路を迷うような気持で歩いていると、急に空がパアーと広がって現われたり、開放感のある大きな窓から景色がドーンと表れる。そういった、ドラマチックな演出が安藤さんの建築にはある。子どもの頃見た、白昼夢のような、ありえないような空間が実在し、確かに自分がそこにいる不思議な感覚を経験した。

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At the pond near Chichu art museum Aug.2.2.2017


建物だけでもおもしろいが、展示作品、クロード・モネの『睡蓮』は、室内の展示室では見られない絵の具の輝き、特に、紫色の絵の具が非常に美しく見えた。天窓による拡散光により、久しぶりにモネを見たという気持ちになった。25年前、パリのオランジェリー美術館でみた2室の楕円形の部屋の壁面にはめ込まれたモネの睡蓮の連作の感動を思い出した。オランジェリーの天窓は、モネの提案によって作られたそうだ。やはり、外光の元で描いた印象派は、自然光の効果が分かっていたのだ。等々、展示作品にも浸りながら、時々、遠くの海の色や空の青を見ながら、優雅な一日を過ごした。外国人観光客もたくさん訪れていた。夕飯時には実家に着きたいので、島を離れることにした。

岡山の宇野港へ向かうフェリーに乗った。大して、スピードも出さずに、島沿いに船は走った。

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Naoshima 

ぼーと外を眺めていた時、この旅の最後に見た直島の姿は、痛々しく、私にどうして?と疑問を投げかけるものだった。花崗岩の島肌がむき出しになっていた。そういえば、瀬戸内海の島々を見ながら育った私にとって、美術館のまわりの植生の生育が今一つよくない感じが滞在中していた。

実家に行ってから、色々調べると、島の歴史がわかった。直島は、明治時代に精錬所を誘致し、島の産業としたが、その結果、煙害による環境汚染が進み、植物が生育できなくなってしまったのだ。

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現在、隣の豊島に不法に廃棄された阪神工業地帯からの産業廃棄物を焼却する高度な処理施設もあり、環境に害を与えない形に焼却している。今年、豊島からの最後の廃棄物が運び出された、という朝のニュースを思い出した。見えた黒い灰の山は、それだったのだ。

高度経済成長の中で、何も言わない自然環境は軽んじられてしまったのだ。私達のバランスを欠いた考え方が引き起こした結果がこのような島の姿を生みだしたと思うと、自戒の念にかられた。

安藤さんの今回の展覧会のスケッチに、「1989 Naoshima」とかかれたスケッチがあるが、最初の印象であろう、島の樹々が失われてしまった状態を「はげ山」と書き残していた。

それをクライアントとともにどうにかしたいと思い、実現させていった夢の途中が25年経過した今の直島の姿なのであった。夏以来、ずっと、アートの島として、人気を集めている直島と周辺環境のギャップに何とも言えないものを持ち続けてきたが、今回の展覧会で、解を見つけた感じがした。

自然を取り戻すのには、時間がかかる。だから、夢を描いて、一つひとつ育てよう、というのが安藤さんの頭の中にはある。建築もするけれど、木も植えるのが安藤さんだ。

だから、建物は、地中に建て、最終的には、緑に覆われた島に戻るように設計したのだった。

安藤さんは、大きな夢を描き、皆とともにその方向を示してくれた。


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