About an Artist : イサム・ノグチ Isamu Noguchi
The Isamu Noguchi Garden Museum,Takamatu May.24,2025
先月、香川県高松市牟礼にあるイサム・ノグチ庭園美術館に行きました。ずっと、いつか行ってみたいと思っていた場所でした。
いろいろな場所で作品や手がけた構造物を見ましたが、「ここを見ずして、イサム・ノグチを語るなかれ。」という思いがありました。
今まで出会った点在する作品をつなぐイサムの世界観をダイレクトに感じることが出来たと思っています。
Peace bridge (1952),Hiroshima Aug.2015
私は、父の仕事の関係で広島で生まれ育ちました。子どものころ平和公園に行ったり、その横にあった公会堂で演劇などを見に行くことが時々ありました。バスを降りて、イサムがデザインした平和大橋を渡りました。コンクリートに小石が混ざったざらざらとした手触りで陽に照らされてじんわり暖かくなった丸みのある欄干を触りながら歩くのが好きでした。観劇が終わった後は、暗い水面をのぞきながら、少し温もりの残った欄干を再び触って、帰りました。
橋の欄干の先は、反り上がっていて、先に半球のようなものがくっついている姿は、子どもの目から見ても斬新でした。橋は昭和27年に完成したものですが、私の記憶には、その頃見に行った大阪万博の太陽の塔と似ているな、関係があるのかなと思っていました。抽象という表現、原始の形、日本という土地を意識したコンクリートで大きく反り上がる曲線の橋が戦後まもなくここに作られたことは、その後の日本の構造物に大きな影響を与えたとことと思います。イサムは、抽象彫刻で有名なブランクーシの仕事を手伝ったこともあり、最先端の造形をここに見せてくれたのです。
「原爆でみな焼き尽くされたんよ。」と聞きながら、60~70年代、私が見ていた広島は、丹下健三氏による平和資料館や村野藤吾氏による世界平和大聖堂、基町の高層アパート群などが建てられ、モダンで斬新なデザインのものが新たに築かれていきました。復興のための特別な予算もかけられ、街はどんどん変貌していきました。
あまりの変容ぶりに投下後の写真を金属に焼き付けたプレートを付けた石碑が各所に設けられたことも覚えています。広島を離れた今となってそれは、夏休みに子どもたちを連れて帰った時、きれいな整備された街だけではなく、原爆によって広島の街がどんな被害にあったのかを物語ってくれ、歴史をたどるのに貴重なものだと改めて思っています。
Peace bridge Aug.2015
*現在は、橋の幅が狭く、渋滞を起こしやすくなったため、写真の右側に歩行者用の橋が作られています。
私は大きくなるにつれて橋から見る川は、あの日多くの人が亡くなった川でもあることをイメージするようになり、ここからの眺めは鎮魂の念を抱かずにはいられなくなりました。また、この橋で、人が突然に「死ぬ」とは、どういうことなのだろうと考える場所にもなっていました。
最初、イサムが橋につけたタイトルは、"Ikiru (To live)"だったと広島市のホーム・ページで知りました。イサムのメッセージは「死」というものを意識して、「今をしっかり、生きていけ!」というものだったのです。
三宅一生さんも通学でこの橋を渡った思い出を語っており、世界に飛び出す勇気をもらったと語っていらっしゃいました。
Kokeshi(1951)The Museum of Modern Art, Hayama Oct.2021
1994年に札幌テレビが制作放送した『静かなる熱狂 彫刻家イサム・ノグチと女優 李香蘭が愛した男の愛と苦悩の生涯・日米間で揺れる芸術家の魂 』を見て、イサムが平和公園の慰霊碑の設計を丹下健三氏に頼まれていたことを知りました。
その形を見てみたいと思って、時々、資料を探していたら、スケッチ、設計図、その時の話などが載っている本も出版され、かなり具体的なプランであったことがわかってきました。
2022年のNHKの番組『イサム・ノグチ 幻の原爆慰霊碑』では、随分、そのことを紹介していました。
当時の平和公園の整備の専門委員会でアメリカの落とした原爆で亡くなった人々の慰霊碑をアメリカ人の母を持つイサムの作品を採用することに反対の意見が出て土壇場でキャンセルになってしまったのです。
日本とアメリカの両親の元に生まれ、その間で苦労し、両国が戦った末、架け橋となるべく、いいえそれを超えて人間として鎮魂の気持ちを慰霊碑に込めて制作していこうとする気持ちを拒絶されてしまったのです。
戦後すぐの時代に芸術は言葉を超えて響くものであるという領分を持ち得ていなかったと思いましたし、今なら、覆す意見を言えるのか、ということも改めて考えています。
しかしイサムのビジョンは、もっと地球規模の世界を見ていたことは、確かなことでした。
Moerenuma park, Sapporo Jan.2006
私は結婚して、主人の故郷である札幌に行くようになり、そこでイサムの作品に出会えました。大通公園の黒い花崗岩の『ブラック・スライド・マントラ』で子どもを遊ばせ、冬のモエレ沼公園の雪山を笑いながら登り、頂上から白い大地を眺め、そりで滑り下り、楽しみました。触れる彫刻、遊べる彫刻という要素がイサムの作ったものの最大の魅力だと思います。
それから、イサム・ノグチのAKARIのフロア・ランプも昔、使っていました。
現在、神奈川や横浜の美術館、東京の国立近代美術館にあるイサムの作品が置かれているので、時々挨拶するように近寄ってみています。そして、横浜にあるこどもの国にイサムがデザインした遊具があるということを今回初めて知りました。ここは、広大な公園で花見や子どもをポニーに乗せるために家族でよく行きましたが、イサムの遊具があったことは、知りませんでした。もしかしたら、子どもたちは遊んだかも!今度、孫が来た時に行ってみよう。
気が付けば、イサムの作品に見守られながら、私は人生を送ってきているようです。
そういった作品との出会いの中で、最も際立つこととなった作品が平和公園の中洲から川を渡って西に向かう西平和大橋です。
広島にいる時あまり、歩くことがなく、車で通ることが多かった橋でした。以前にもイサムのことを調べていた時、この橋の名前をイサムは多くの人が亡くなったこの土地で魂を送るという意味を込め最初 "Shinu(To die)"としていたことを知りました。仏教の西方浄土という言葉のイメージ、日の沈む方にあの世があるという考えとも重なり、広島もここを渡ると西に山並みがあり、だいだい色に染まる日没の景色とともに山の向こうに別世界があるように感じられる場所です。
West peace bridge May.2023
このことを知ってから、イサムのイメージした空間をもう一度見たいと思っていました。高速フェリーから見上げた時もありましたが、ある年の春先、路面電車を降りて、かつての路面電車が走っていたコースを歩いてみようと母と娘と一緒に平和公園に向かって東向きに歩いた日がありました。
West Peace bridge Mar.2023
徒歩で歩くのは、もう半世紀ぶりぐらいでした。欄干の柱頭は、曲がった角錐の先端を切った形。明らかに東の平和大橋とは、イメージを変え、欄干の桟も違いました。
その晩、「兄が亡くなった。」という知らせが翌日の早朝、入りました。
「あの時、兄が橋を渡りかけていて私たちと橋の上ですれ違い、別れを告げていったのかな。」と思い、受け入れがたい急な別れに対して、こう考えることで、少しでも心の整理をつけようとしてきました。
The Isamu Noguchi Garden Museum,Takamatsu May,2025
今回訪れた高松の庭園美術館では、イサムが最善の形を模索しながら二度と彫りなおしのできない、簡単に動かすことができない石という素材に向かっていた覚悟、気迫、魂を感じました。
そして、言語を超えて万人の心に響く作品を目指して格闘していたことが、アトリエや石置き場の様子からもわかりました。
牟礼という場所は、源平合戦の屋島の戦いの舞台になった場所。それを挟むように東西を地質も山容も全く違う山に挟まれていました。
イサムが大好きだったという背後の高台からは、屋島の山際の向こうに瀬戸内海の青い色の水平線が望めました。
My sketch in The Isamu Nouguchi Garden Museum May.2025
ここは、2つの違いを統合する、包み込むことを願ったイサムの生き方と重なる場所でした。
これまでの私の人生でイサム・ノグチの作品から受け取ってきたメッセージは以上です。
もし、残りの人生の中でアメリカに行き、ノグチの作品を見ることができたら、光栄なことだなと思っています。
参考文献 『イサム・ノグチ 宿命の越境者(下)』ドウス昌代著 講談社刊
『石を聴くーーイサム・ノグチの芸術と生涯』ヘイデン・ヘレーラ著 北代美代子翻訳 みすず書房刊
映画 『レオニー』2010年公開 松井久子監督
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