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2024年6月27日 (木)

Visiting a place : 旧安楽寺 

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和田長浜の波                Feb.5.2023

 今から10年ほど前から、鎌倉、三浦半島にある和田義盛ゆかりの場所を訪れてきました。何か、義盛の息吹きを感じたいというのが、究極の目的でした。母方のルーツに当たると子どもの頃から聞いていた話を本の上の話に終わらせないで、自分で訪ねてみる、といったことに夢中になりました。そういう中で東京国立博物館での『運慶展』があり、義盛ゆかりの浄楽寺の阿弥陀仏をはじめとする五体の仏像を初めて拝むことも出来ました。また、NHKの大河ドラマの『鎌倉殿の13人』も義盛が出てくることを知ってから、放送が終わるまでとてもワクワクする歴史探訪期でした。自分が頭の中でこんな人だろうと想像してきた義盛がこんなにクローズ・アップされて演じられたことはなかったので、拍手拍手の大盛り上がりでした。演じられた横田栄司さんには、史実として伝えられてきたことだけがモデルで、手探りの役作りであったと思いますが、若い頃から、最後の時まで豪傑で人に優しい義盛をしっかりと演じ切ってくださいました。

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                                        2023.2.5

 その放送が終わったあとの開けて2月、まだ訪れていなかった三浦市和田にある浄土宗の天養院に伺いました。国道134号から徒歩で上っていくと、大きな屋根に三浦一族の丸に三つ引き紋が大棟に見え、引き付けられるように登っていきました。

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浄土宗五劫山 天養院

ここは、「鎌倉光明寺の末寺(まつじ)」で1559年建立だそうです。末寺とは、本山のお寺より地域の住民に合わせて仏事を行う寺のことだそうです。鎌倉光明寺(実はまだ伺ったことがないのですが)は、由比ヶ浜からみて東側の材木座海岸に面した少し陸に入ったところに見える大きな緑青色のの大屋根(「瓦棒銅板葺」というそう)が見える寺院です。歌川広重の東海道五十三次の由比ヶ浜を表した浮世絵の左側にも光明寺が描かれていることがわかります。

話しを戻して、天養院のご本尊は、阿弥陀如来ですが、昭和18年に三浦半島に日本軍が軍事物資を運ぶための道路を整備する際に廃寺となった旧安楽寺という寺の本尊の薬師如来像を移し、安置しています。その旧安楽寺は、和田義盛の居城であった和田城の北西の鬼門封じの寺として建てられたものでした。

住職にご挨拶して、拝観させていただきました。薬師如来像は、ガラスの扉の中に安置されているので、よく見えませんでしたが、和田合戦の時に義盛の傷みの身代わりになり、血を流したという話は、知っていたので、義盛を思い浮かべながら、手を合わせました。また、義盛の木像と位牌があり、それを目にした時は、「ここに義盛がいる。」と強く感じました。

今まで、いろいろなゆかりの場所に行きましたが、この時ほど、義盛の息吹を感じたことは、ありませんでした。義盛は、三浦の家に代々伝わってきた奈良時代の行基作とされる薬師如来像に戦の怪我が元で亡くなった父の時や、闘死した祖父、また多くの人々が生死をさまよう時に手を合わせ拝んだであろうと思います。木像や位牌は義盛が亡くなった以降、多くの人々が拝んできたものだと思うと、想いのつまったタイムカプセルのように感じられました。

この訪問で、何か腑に落ちたような気持になって、今に至っています。

しかし、ずっと気になっていた旧安楽寺がどうして廃寺にされなければならなかったのかという疑問を本腰を入れて今回、調べてみることにしました。何回も三浦半島に行ったのですが、起伏があり、広大な北海道のような畑の中を走っていると思ったら、水平線が見えたり、なかなか難しい。Geographerであった亡き父に説明してもらったら、5分で終わりそうなこともようやく独学で立体的にとらえられるようになってきました。が、まだまだで、国土地理院の地形図を調べて和田のあたりの様子を私なりに地図にまとめてみました。

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神奈川県三浦市和田

南北を走る国道134号 ピンクが旧道 A-B黄色線の断面下図  

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国道134号線 黄色線A-B断面図

この旅の一つ前の訪問で和田地域を通る、旧安楽寺のあったであろう場所を歩いてみています。今回、断面図を作ることができましたので、地図中のA-Bの黄色線で切ると、上のようになり、1943年(昭和18年)の現国道134号を通す工事は、段丘面をおよそ10mは掘削して道が作られたことがわかりました。いわゆる「切り通し」。昔は、天養院のある東側の段丘と西側の段丘は、つながっていたのでしょう。ピンクの道がで段丘のへりをまわるような旧道だったということがわかります。最初に「和田城址」「和田義盛の碑」を訪れた時もピンクの道を使いました。

義盛の開拓していった和田の里の鬼門封じの場所が高低差がなく、まっすぐに南北に道を通したい軍によって突破されてしまったということなのでした。

和田にとって何度も襲い掛かる苦難としかいいようがありません。

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日蓮宗天王山 大泉寺            July.2022

しかし、旧安楽寺の本堂は、移築され、日蓮宗の大泉寺の本堂として今も使われているということを知りました。旧安楽寺が廃寺となった昭和18年、このお寺の本堂が焼失してしまったそうです。

そこで、廃寺となった旧安楽寺の本堂を移築したそうです。和田の里の人々は、宗派を超えて、義盛の残したものを大切にしてくださっていました。

この建物自体の当初の制作年は分かりませんが、義盛亡き後の和田の里で段丘の樹々を背後に旧安楽寺もこんな感じでたたずんでいたのかなとイメージすることができるようになりました。

私が関東にすむようになって、30年。ここ10年は、義盛の息吹を感じる旅で何度も何度も三浦半島に行くことで、故郷が増えたような気持ちです。

私の和田義盛をめぐる旅のきっかけになった参考ブログは、『みうけんの横浜原付紀行』さんです。感謝

 

 

 

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