Visiting a place : 浄土寺 尾道
Jodo-ji Onomichi Jan.5.2024
お正月に帰省した際,尾道の浄土寺に行きました。10年ほど前に読んだ宮大工の松浦昭次さんの著作「 宮大工 千年の知恵」の中で、中世の寺院建築の中で『いちばん美しい』と称していらっしゃったからです。また、娘が映画が好きで、小津安二郎監督の「東京物語」のロケにも使われたことを知っていたので、みんなで行くことにしました。
今回は車で背後の山の脇を通る道路を下って浄土寺に入りました。海岸部との落差が激しい道でした。
車を止め,道路を横断すると,すぐに急な階段があり、ヨイショヨイショと上って行くと、中間部分にJRの高架が目の前に見え,びっくり!
このお寺以外にも、いくつかのお寺が同じようになっています。そのことをこの日、お好み焼き屋のおじさんに話すと、「しょうがなかったんよー。海運から鉄道に変わっていく時、(海からの平地が狭い)尾道はそうするしか。でも踏切がないでしょ。お金を出してくれる人がいて、高架橋を作って鉄道を通したんよ。」っと。なるほど、明治以降、尾道が街の産業を継続していくために運送手段の変更は絶対に必要で、景観よりも鉄道が通ることが優先事項であったということだったのだ、とわかりました。
階段を登り振り返ると,そこはターコイズブルーの尾道水道と向島が見下ろせ、海がキラキラと光っていました。また,山門の上の空には,鳩の群れが旋回してお出迎え。
寺の外構の焼杉の外塀が続く道は、花崗岩の敷石で風情のある道でわずかに上り坂。思わず、母,夫,娘に立ってもらい,記念撮影。ここを車が通っていたのには、びっくり。車のCMに使えそう。
門をくぐると、本堂が見えました。灰色の瓦の色の濃淡がモザイクのようにちらちらして古色を帯びていました。この日は、新年開けた頃でしたので、5色の布でお堂が飾られていました。建物の幅に対して屋根のボリュームが幾分大きいように感じながら、その屋根に目が釘付けになりました。軒先の反りがしなやかに空を切るように上がっています。それを目で追うと背後にある瑠璃山の山体をおのずと見上げ、その上の青空が見え、のびのびとした気持ちになりました。
松浦さんの本には、この屋根の反りを作るための工夫が書かれていました。浄土寺から帰って来て、もう一度読み返すと、ようやく実感とともに内容がわかってきました。
四隅の柱は、他の柱よりも高く据えられ、大きな屋根を下から支える垂木は、二重に取り付けられ、勾配を緩やかにさせてある。おのずと下がってくる四隅軒先の垂木の間隔を下から見た時に美しく見えるよう広げたり、縮めたりしているそう。そうなってくると、柱と柱の間隔も等間隔ではなか,作られているそう。初めに垂木の間隔があって、柱の間隔が後になっていそう。
こうなってくると、木材を細かく加工する大変な作業なのですが、それをやっている、というのです。
そしてこの浄土寺の昭和の大修理の際、松浦さんは、修復に携わりながら、建てた人物の名前が棟札(建築、修理の記念として、棟木・梁などの建物の高所に取り付けた札)を発見したそうです。そこには、藤原友国、藤原国貞と書かれてあったそうです。
Todai-ji South gate 1199年 Aug.2010
この二人についての歴史的なことは、わからないと書きながら、棟札の二人は、鎌倉時代の東大寺の大工であると、松浦さんは、書いていました。
この寺の歴史は、開基(寺院を創立すること)は、616年、聖徳太子(574年~622年)と伝えらています。飛鳥時代には、聖徳太子自らも船に乗って瀬戸内海を渡ったであろうし、遣隋使を中国大陸に送ったわけですから、地理的にも瀬戸内海の海上交通の要所となる尾道に、聖徳太子のゆかりの寺が置かれた訳です。
その後、『文治2年(1186年)紀州高野山大田荘の政所となり、後白河院(1112年~1192年)の勅願所となった。』と寺の案内板に書かれていました。
中世の瀬戸内海の海上交通路 国立歴史博物館展示
また、東大寺南大門について調べていると後白河院の院宣(いんぜん・・・上皇の仰せをうけたまわった側近がその意を発信する文書)によって、再建が進められたという記述があり、後白河院がどうもキーパーソンではないかということがわかってきました。そういえば、後白河院は宮島の厳島神社の裏手に今も残る「後白河院手植えの松」というものがあり、船に乗り瀬戸内海を渡っていくことも多々あったのです。
となると、1199年、現存する東大寺南大門は、完成。その後、東大寺の大工は後白河院の勅願所である浄土寺のお堂の設営に派遣された、のでしょうか。でも後白河院の崩御が1192年なので,東大寺再建をした大工がそのまま,派遣されたわけではなくて,東大寺大工としてその後,働いていた大工が浄土寺の再建に携わったのでしょう。いろいろ調べていると,今でも東大寺には東大寺大工作業所というものがありました。1325年に羅災して1327年に建て直したのが、前述の二人。
二人の工匠は東大寺で学んだ大仏様と従来からの和様の長所を合わせた折衷様でこの浄土寺を建てているということです。松浦さんは、工匠は瀬戸内海の陽光きらめく尾道で東大寺南大門よりももっとのびやかな仕事を残している、と評しています。
実際、浄土寺を訪れ本堂も入らせていただきましたが、素人では、どこが大仏様で、どこが、和様だと判断できませんでした。ただ、お堂の中はとても暗く、天井は、格天井、柱や組み物は非常に太いものでした。
家に帰ってから、2010年に訪れた東大寺の写真と浄土寺の写真を比較してみると、屋根の瓦の置き方、反りの形がほぼ、同じことに気付きました。そこで、この屋根の形を使う寺院建築を『日本建築様式史』BSS刊で探すと、法隆寺大講堂(990年)の屋根が見つかり、文には「最古の野屋根(のやね)」というものであることが分かりました。
「野屋根」とは、一つの建物の中に仏堂と拝む場所である礼堂を一緒にして、大きな屋根で覆うというもので、日本独自の建築方法だそうです。雨の多い日本では軒は、必ず必要ですし、空間を覆う大きな屋根を支えるため垂木の部材に工夫を重ねました。複雑になった屋根裏は、天井を張ることで、隠すことができるようになりました。四隅を跳ね上げるのは、美観からだけでなく、少しでも堂内に光を入るようにしていたそうです。これは、唐様の影響。
また日本は、雨が多いので、古来より高床の住居を作ってきたことも寺院建築においても取り入れたいということもあり、禅宗寺院の講堂のような石張りではなく、床を張ったお堂を作っていくという日本独自な建築技法が考えられていったことがわかりました。
娘がいつの間にか,鳩の餌を買って、パッと投げると、鳩がたくさん舞い降りてきたかと思うと,小さな女の子が,「わー!」って鳩を驚かせて飛び去ってしまいました。娘曰く,「えーん!二度と近寄ってこなかったー!」
でも,後から,お好み焼き屋のおじさんが言ってた話ですが、「尾道の子は,浄土寺の鳩と遊ぶ。」って。
関東だと,そんなことやったら,親は何してるの!と白い目で見られそうですが、ここは、尾道。
子どもらしい姿も、尾道の風土は,のびやかに育んでくれるところなのでしょう。
鐘楼からの眺めを見ていると、ここが笠智衆さんと原節子さんが立ち、「東京物語」のラストシーンを撮った場所だと娘が教えてくれました。
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