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2022年1月17日 (月)

Visiting a place : 永福寺跡と毛越寺庭園

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Yofuku-ji        Amida-do                                 Nov.30.2021

 昨年、鎌倉でまだ行ったことがない場所や確認したい場所など、歩き回ってきました。

こちらは、源頼朝が奥州 藤原氏を攻めた文治5年(1189年)、平泉の寺院群を見て、鎌倉から帰ってすぐに造営にとりかかったという永福寺があった場所。今は、鎌倉には珍しい広い公園のような場所になっていますが、ここに鎌倉では初めてだった2階建てのお堂があったり、その本尊を運慶が造仏した等、現存していたなら、きっと素晴らしいものだったのだろうと言われている場所です。

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昭和56年(1981年)より発掘がすすめられ、柱の跡や石組、池などからその全様がわかってきました。現在は、木で組まれた基壇や池、石組等の位置がわかるように整備されています。看板に再現化したCG図が載っていました。手前が阿弥陀堂、真ん中が2層の二階堂、奥が薬師堂。

両脇に翼廊といい屋根のついた廊下が池に向かって伸びた釣殿があり、ここから釣糸を垂らしていたのかと考えたら、なんだかお茶目な鎌倉武士、と思って笑いながら見ていました。

歩きながら、2011年8月に訪れた岩手県平泉の毛越寺の遺構を思い出しました。岩手の出身の亡き父が震災の後、自分の故郷を孫たちに「今だからこそ見せたい。」と東北の津波被害を受けた海岸部をまわった最後に平泉を訪れた旅でした。父の姓は藤原。私は子どもの時から平泉を訪れるとその美しさと敗れた寂しさを感じたものでした。まさに芭蕉の句の「兵たちが夢の後」

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毛越寺庭園 Motsu-ji          Aug.15.2011

毛越寺遺跡も大きな池をまわり、お堂の柱の礎石を見ながら、「どんな、お堂だったのだろう。」とイメージしながら一回りしたのです。

お堂の背後には山がある位置。関山。

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毛越寺の再現図の看板 反り橋を渡ると、浄土の世界。薬師如来を本尊としていました。

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毛越寺遣水             Aug.15.2011

上の写真は毛越寺庭園の遣水遺構。お堂の右斜め背後から川の流れを作り池に流れ込む部分。

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永福寺遣水              Nov.30.2021

永福寺も同じように石が置かれ、遣水としていた石組が残っており、ここを見ても毛越寺庭園を思い出しました。

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毛越寺庭園 池 立岩      Aug.15.2011

震災の後の傾きを補強していた立岩。

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永福寺の池の中島の立岩の石組の写真看板     Nov.30.2021

永福寺の池にあった石組は、発掘された後、また埋め戻されていますが、上の写真のような大きな石が組んであったようです。

 

頼朝は、文治5年(1189年)義経をかくまったことから奥州攻めに出向き、藤原氏の四代泰衡の首を取り、陣ケ岡という場所で戦を終わらせました。その後、頼朝は平泉に入り、藤原氏が仏国土という浄土の世界をこの世に作るという願いを表していった平泉の地の荘厳な美しさに圧倒されたそうです。

奥州藤原氏の祖清衡は、東北の地が300年にも渡る度重なる戦いで多く命が奪われてきたことを憂い、その鎮魂のための仏教寺院の造営と平和の国を作りたいという願いのもと仏教を積極的に取り入れていきました。

陸奥の国は、金の産出、馬、漆の生産等により莫大な富を背景に比叡山 延暦寺を直接のモデルとして中尊寺は伽藍が配置され、その頃、珍しい二階建ての大長寿院という寺院もありました。頼朝はそれを目にして、永福寺の本堂を二階建てにしたいと思ったようです。

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戦いには勝ったけれども、頼朝はその奥州藤原氏の目指した仏国土の崇高な世界に精神的には強く影響を受け、鎌倉に帰ってすぐに自分が行ってきた戦いの犠牲になった人たちへの鎮魂の思いも込めて永福寺建立を進めていったようです。

頼朝が永福寺を建てようとした時から60年経過し、修復をする話があったことを書いた『吾妻鏡 宝治二年(1248年)二月五日』には永福寺について頼朝の気持ちについて書かれており、『朝敵ではなく、宿敵(源氏の先代たちが、何度も東北の地(陸奥の国)で戦いを挑んできたこと)によって、滅ぼした義経や泰衡の怨霊を鎮めるため、その年(1198年)造営をはじめた寺院である。」とあります。

これは、頼朝が亡くなったあとの吾妻鏡の記述ですが、頼朝の奥州攻めの後の苦い思いにより、永福寺は、建てられたことが記録に残っています。

藤原泰衡の首桶の中に五郎沼に咲いていた蓮の花をたむけたと伝わり、中尊寺金堂に安置されていたものが、昭和25年(1950年)の発掘調査の際、種として発見されました。

平成5年(1993年)に発芽に成功。800年後、種より開花し、平成31年(2019年)、それを平泉から鎌倉に贈ったそうです。

2021年3月から「永福寺でも蓮の花が咲いた。」というニュースを以前、耳にしました。

 

すごい歴史ロマン。時を越えて、清衡が思い描いた平和な世界が現代にも広がっていると思いました。敵味方の別なく、蓮の花を愛でる世界。

 

参考文献:中尊寺図録

    :『仏都鎌倉の百五十年』 今井雅榛著 吉川弘文館

    :『図説 日本庭園のみかた』 宮元健次著 学芸出版社

 

 

 

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