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2017年10月22日 (日)

About An Artist : 運慶と和田義盛

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和田海水浴場

東京国立博物館で開催中の『運慶』の展覧会。ぜひ、拝観したいと思っていたのが、神奈川県の三浦半島 横須賀市 浄楽寺にある阿弥陀如来坐像とその両脇侍立像だ。期間中10月21日より公開。鎌倉幕府 初代侍所別当を務めた和田義盛が運慶に作らせたという。

母の旧姓は和田。どこでどうつながっているのかは、本当かどうかわからないが、子どもの頃から「和田義盛」の名前は聞いていた。母も私も鎌倉から遠く離れた場所で生まれ育ったので、鎌倉、三浦半島に和田義盛ゆかりの場所がたくさん残っていることについて知らずに過ごしていた。東京にいた伯父は自分でいろいろな資料を持っていて私に話してくれたけれど、その頃の私には遠い昔の話であった。

知人の歴史好きの米国人が "Do you know Onna samurai ?" と聞いてきたので、「北条政子のことかな?」と思ってネットで調べているとどうも巴御前のよう。

巴は源義仲と戦場で別れた後、鎌倉に連れて行かれて、その身柄を和田義盛が引き取り、妻(その頃は多妻)にした・・・という話しもあることを知り、「あれれ、あの和田義盛~!」と一気に興味を持って自分で調べるようになった。ネットで調べていると、義盛の生き様は、鎌倉の歴史を調べている人々から今でも人気があるということを知り、ますます興味を持って調べていくこととなった。

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和田城址 三浦市の看板によれば、『巴御前が義盛に預けられここで余生を送った・・。』と書かれている。

それ以来、子どもの頃見た1979年のNHKの大河ドラマ『草燃ゆる』をオンデマンドで見て、和田義盛が頼朝亡き後、北条義時の謀略に耐え切れず、兵を挙げ討たれた和田合戦のシーン(総集編 第5回 尼将軍 政子)を再び見たり、江ノ電の和田塚駅の近くには、和田合戦で亡くなった人々の塚があること(地域の人が弔ってくれたもの)、若宮大路の鶴岡八幡宮に近い場所の屋敷の場所を古地図で確認し現地に行ったり、朝夷名の切り通し(義盛の三男 怪力で知られた人物)、三浦半島の浄楽寺(今回展示されている運慶仏のあるお寺)、白幡神社(義盛を祀っている)、和田城址、伝巴の塚、千葉の房総半島 和田の所領地等も数回かけて訪ねた。

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三浦半島 海岸段丘上の畑 義盛の頃より穀倉地帯。食糧が戦陣に送られた。

そこで見えてきたものは、富士山と海の見える三浦半島を拠点として船を使って海を自由に行き来し、田畑を耕し、武芸の鍛錬をし、有事に備えていた。特に弓の名手であり、源頼朝の先陣として活躍し、一族をあげて、鎌倉幕府を盛り立てていたという姿だった。

残された文献で義盛について書かれているものとして『平家物語第11巻 遠矢』に1185年 壇ノ浦の戦いにおける義盛(和田小太郎義盛)の様子が記述されていて、その短気な性格が表れていて、おもしろいことや周りの人々にも愛されていたことが伺えて興味深い。

『吾妻鏡』では、2009年に吉川弘文館から現代語訳が出版されており、1213年 5月和田合戦までの記述の中に侍所初代別当として活躍した和田義盛(和田左衛門尉義盛)の名前が随所に記録されている。

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由比ヶ浜 義盛 最後の地 現在は、鎌倉の頃よりも沖に海岸線が広がっている。

和田合戦の部分では、やるせない気持ちになって、読んだ。和田合戦の部分に『朝夷名三郎義秀〔38歳〕と数名は海辺に出て、船を出して安房国(現在の千葉県南房総)に赴いた。その軍勢は5百騎、船は六艘という。また新左衛門尉(和田)常盛〔42歳〕・・・・・・・・・・、和田新兵衛入道(朝盛)以上の大将軍六人は、戦場を逃れて逐電(逃げて行方をくらますこと)したという。』 :現代語訳 『吾妻鏡 第21 5月3日』 がある。

このことから和田義盛の末裔も各地に散らばったことが確認できるが、同じ名前が亡くなった人の中にリストアップされていたりして『吾妻鏡』の誤記も存在し、私と義盛とのつながりも可能性が出てくるが…等、望みを感じてはいるが、よくわからないので、現地調査にまた出かけたい。

和田義盛の最後は、司馬遼太郎氏が指摘した『名こそ惜しけれ』(後世に残るような恥ずかしいことをするな)の精神を貫いて、一族をあげて北条に対する抗議を形に表した形で命を落とす訳だが、多くの戦に出る中で、死に対する心構えを常に持っていたと思う。自分も多くの人の命を奪い、明日は我が身という死への不安は常に根底にはあったであろう。

そこで、阿弥陀如来造仏、お堂の建立を生前より準備していたと思われる。
運慶とは、北条時政が願成就院の造仏を頼んだことから、その対抗心から頼んだ、という話がある。それもあると思うが、1180年の南都焼き討ち後、1185年には源頼朝の絶大なる後援もあり大仏開眼供養、1195年には大仏殿完成供養が執り行われた。その間、何度も奈良に鎌倉から頼朝も和田義盛も出かけており、奈良仏師の技量についても目で見て確認していたからこそ、頼むことにもなったのであろう。

また、源頼朝も、1192年 永福寺という奥州藤原氏の作った平泉の寺院を模した寺を鎌倉に建立し、亡くなった御霊を弔う寺とし、運慶にこの寺の造仏を依頼したという。
源頼朝が父の源義朝の菩提寺として勝長寿院を作り、頼朝や政子、実朝ともこの寺に弔われたが、ここの造仏も1217年、運慶はしている。
ただ、この2つの寺院は焼失し、現在では、墓石、礎石のみ残る状態で、運慶作の仏像も今は、見ることは出来ない。しかし運慶が、源頼朝をはじめとする鎌倉の寺の造仏に関して、どれほど信頼されて仕事を行っていったかを伝えている。

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運慶が彫った浄楽寺の阿弥陀如来は、予想していた大きさよりもずっと大きく、和田義盛がこれを作ってもらって浄土の世界をイメージしていたかと思うとその願いの大きさに圧倒されるようだった。端正で静かな表情で鎮座している。

また、両脇の観音菩薩、勢至菩薩像もその姿の美しさは、静かに落ちつき、語りかけるようだった。

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不動明王は、「恐れや悪事を寄せ付けずに生きよ。」と言っているようだったし、毘沙門天は、「戦うからには、強くあれ。」と言っているようだった。

仏の顔には、和田義盛の顔の面影が入っているような気がする。運慶は、何度も和田義盛に会っているので、人柄や面影が造仏の中に入っているのでは、と思った。私の父も生前より仏師の方に頼んで、仏像を彫ってもらっていて、父の面影がその仏像の顔に入っているように思えるからだ。

浄楽寺には、2015年7月に訪問させていただいた。その時は、運慶の仏像はお彼岸のみの公開で見ることはかなわなかった。

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浄楽寺の運慶仏は、鎌倉幕府と奈良仏師運慶との強いつながりを今に残す数少ない貴重な仏像であり、五体すべてが保存状態もよいものだと思う。江戸時代に表面の金箔を修復しているそうだ。

和田合戦以降、和田の一族が鎌倉に二度と戻って来れなくなり、この義盛の阿弥陀如来を拝むことがかなわなかった。

今回やっと、義盛の残した仏像に手を合わせることが出来た。

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