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2017年3月31日 (金)

Favorite place:Hiroshima ANDERSEN

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春休み、息子と娘と一緒に広島に帰省してきました。いつも必ず、本通りにあるアンデルセンに行って、好きなものをたらふくいただくのが、我が家の恒例。この日も昨年から本店建物が老朽化のために改築中となっているので、あきらめようかと思っていましたが、息子が「やっぱり、アンデルセンのBLTサンドが食べたいな。」となつかしがるので仮店舗に行ってみました。

ビルの1,2階部分に仮店舗は入っていて、1階はパンとフラワー、2階はレストランが移転していました。外壁はスモーキー ブルーに塗られ、マーガレットやエニシダの鉢物と合わせてアンデルセンらしい趣味の良い外観となっていました。本店の入り口に飾られていた人魚姫のレリーフも移設されていました。

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食事後、本店に行ってみました。北東角の入り口には、1925年に旧三井銀行広島支店として建設され、1945年原爆で被災したこと等がわかるよう表示板があります。1967年よりアンデルセンとして使われるようになったそうです。

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今でも、2階部分は、建設当時の外観を見ることができます。柱頭にアカンサスの飾りがあり、洋風建築として立派な銀行であったことがわかります。外壁には花崗岩が使わているそうです。


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現在は、入ることができませんが、これは2012年に撮っていた写真です。この内部の吹き抜け空間にある天窓を見ると、子どもの頃にアンデルセンに行った時のことを思い出しました。

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私が初めてピザを食べたのが、このアンデルセン。その当時から「ここは、パンの焼けるいい匂いのする素敵なお店!」とわくわくして連れて行ってもらったものです。

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店内2階からアーチ型の窓を見ながら食事。何気なく広島の人たちは、このお店で食事したり、買い物をしていたけれど、空間として、現代の建物では簡単には出来ない意匠を多く含んでいる空間に私たちはいたのでした。

原爆で傷みながらもそれを修復し、大事に使い、戦後の広島に北欧の食文化や生活文化を紹介し、明るく前向きに生活することを提案してきた広島アンデルセン。

2020年まで、ゆっくり考え、じっくり改築してまた再開していってください。しばらく「アンデルセン本店ロス」な気分ですが、家族と過ごした思い出を懐かしみながら待ちたいと思います。

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2017年3月21日 (火)

About An Artist : ミュシャの想い

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NHKで放送された番組からアルフォンス・ミュシャの大きな作品『スラヴ叙事詩』を搬入しているシーンを見て、「これは絶対行かないと!」と思い、国立新美術館で始まった『ミュシャ展』に行ってきました。
6月5日(月)まで。

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ミュシャの作品は、1983年の日本での大回顧展を通じて、パリでのポスターをはじめとするリトグラフの作品群、素描とその後のチェコスロヴァキアでの祖国での作品群を見たことがありました。若い頃は、デザイナーとして活躍し、世界中の人から賞賛された後、故郷のチェコスロバキアのために勢力を傾けた作品を作っていったことがわかる展覧会でした

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その時の図録中で今回の展覧会で見ることのできる大作(6m×8m)の前にミュシャ自身が座っている写真が掲載されていました。『1919年、プラハ・カロリナムにおける《スラヴ叙事詩》連作の最初の11枚による展覧会風景』と書かれていました。

この時のミュシャは、第一次世界大戦後、オーストリアの支配を離れ、チェコスロヴァキア共和国が誕生したことを本当に喜んでいた時期だと思います。

実際本当に大きく、絵の隅々まで何が描かれているのかじっくりみることが出来ました。画面に近づくと、ミュシャの筆跡を見ることができました。

画材は、テンペラと油絵の具となっており、どう使い分けているのかとも思いました。ベースが油絵の具で細かい部分がテンペラ(顔料プラス卵黄)?

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これは、1983年の展覧会の時に《スラヴ叙事詩》の習作が展示された時のものです。これを今回の本作品と比較すると、大方の構図と色調は、ほぼ同じですが、個々の人物のポーズや細かな衣装、髪型、群像の人数や配置が微妙に変更になっていることがわかります。

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《スラヴ叙事詩》のための人物写真がたくさん撮影されたということが、NHKの番組でも紹介されていました。私が思うには、習作でミュシャがイメージした人物のポーズや衣装を仮に決定しておき、実際に村の人たち(制作していたズビロフ村)に演じてもらい、写真に撮り、制作の参考にしたという順序ではないかな、と推測します。写真に方眼に線が入っているものもあり、拡大した跡が伺えました。

1983年の図録の中にミュシャの息子さんの文章がありました。
『父にとって写真を撮る主たる目的は、ポーズだとか衣装の襞だとかをしっかり記憶しておくことにあった。…』

印象派の出現の前に写真機が発明され、形の記憶が可能になった19世紀末、画家の写真の活用法は、人それぞれの手にゆだねられたと思いますが、ミュシャは、このように利用したようです。

しかし、ミュシャの写真を見ていると、写真そのものにも人間の魅力を引き出したものが多く、今でいうなら、売れっ子写真家にもなれそうな感性を感じます。

《スラヴ叙事詩》の発想の原点には、チェコの作曲家スメタナの交響詩『わが祖国』があったことを知りました。昨晩、それを聞きながら、《スラヴ叙事詩》に描かれた場面を思い出し、ミュシャの表現した世界と一体化していくのを感じました。

ミュシャの亡くなる前年、1938年、ヒトラーは、チェコスロバキアの一部に対して領土要求し、1939年侵攻。それにより、現在のチェコは、保護領としてドイツの支配下になりました。

ミュシャは、民族意識が強い画家としてゲシュタボに連行され、4か月独房に入れられ、それが元で肺炎になり73歳で亡くなりました。《スラヴ叙事詩》の中の作品『スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い スラヴ民族復興』は、未完成の作品となってしまいましたが、ハープを持った娘さんと息子さんが描かれてあり、メッセージを次の世代に伝えているように感じました。

その後、1945年チェコスロヴァキアはソヴィエトの保護下で再建されましたが、1968年のプラハの春に対する弾圧もあり、苦しい時代を重ね、1989~1990年のビロード革命と呼ばれる共産党による独裁政権が終わりました。1993年スロヴァキアが分裂し、今のチェコに至っています。

ミュシャの描いた理想の世界は、画家一人のものではなく、チェコの人々の目指す世界観でもあったわけで、画家として自分が出来る最大限の仕事を果たしたいと作品を残したのだと思いました。

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